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鏡の国のバカ  作者: 阿部ひづめ
眠れない男の夢
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今日はあなたの誕生日

「もしもし、中村ですけど」


 沈黙が続いたのちに「どうした」と、ぶっきらぼうな返事が聞こえた。


「話したいことがあります。いまから会えませんか?」


「君が手にもっているものはなんだ? せっかく文明の利器を持っているのだから、いますぐ話せばいい」


「直接話したいんです」


 ナオコの断固たる口調に、山田は黙った。


「どこにいますか? そちらに向かいます」


 ため息が聞こえた。


「渋谷駅に18時」


 ぷちり、と音をたてて電話が切れた。彼女は18時まで30分ほどしかないことを確認すると、すぐに走りはじめた。この場所からなら、足を使うのが一番早い。

 夕日がどんどん落ちていくのを感じながら、住宅街を駆け抜けていく。このまま坂を登れば神泉駅につく。井の頭線に乗れば18時には間にあうだろう。


 しかし、ナオコは坂の直前で足を止めざるをえなかった。〈鏡面〉に入るときに感じる、独特の悪寒がしたのだ。大通りにつながる道から、その感覚が背中を打っている。

 だれかが〈虚像〉と戦っているのだろうか。他の〈芋虫〉の仕事現場にかち合うことなどまずないが、ナオコにはそうとしか思えなかった。

 今のHRAの状況や異常種の多発を考えると、苦戦している可能性がある。このまま立ち去ることはできないが、18時まであと5分ほどしかない。

 ナオコは苦肉の策として、保全部に電話をかけた。ワンコールでつながる。


「株式会社HRA保全部です」


「もしもし、お疲れさまです。常駐警備部の中村ですが。あの、いま神泉駅のまえにある〈鏡面〉をたまたま発見して……」


「はい?」


 怪訝そうな声に、焦りながらつづける。


「〈鏡面〉を発見したんです。手助けに行ったほうがいいですか? 人手、足りていませんよね?」


「ええっと、神泉駅まえですよね?」


「そうです」


 キーボードをたたく音が聞こえる。電話ごしに奇妙な沈黙がおりた。

 ナオコはだんだん苛々してきて「あの?」とせっついた。


「神泉駅まえに〈鏡面〉は発生していませんが……」


 体中の血が落ちていくような気がした。視線を泳がしながら「どういうことですか」とたずねる。


「ですから〈鏡面〉は、そちらでは発生していません」


「でも」


 道のむこうに視線をやった。平常と異常の境目は、赤くひずんでいるように見えた。

 ナオコの脳裏に電撃が走った。保全部の知らない〈鏡面〉の発生があらわす事実は、一つだけだ。電話を切り、無我夢中で走りだす。考えている余裕はなかった。


 静かな道だった。せわしい呼吸音だけが街にひびいている。建物はみんな死んでしまったかのように立ちすくんでおり、走っても走っても前に進んでいる気がしなかった。

 ようやく道をぬけて大通りにでた瞬間、ナオコの背中を激しい悪寒が走った。道路のむこうに整然と建っているビルが、ぐにゃりと曲がり、戻った。

 

 夕暮れがビルを天蓋のようにおおっていた。黒い雲がながれていく。

 強風に目をしばたたきながらも、ナオコは視界に飛びこんできたものに現実感を失った。


 そこにいたのは、真っ白な皮膚をもつ赤ん坊だった。母親の腕にしがみつくように、丸い手先がビルの屋上の柵に爪をひっかけている。巨大な頭部は丸く、2対の目や鼻、だらんと開けられた口が見える。

 異様なのは、頭部が直接うろこに覆われた尻尾へとつながっていることだった。尻尾はビルの壁をたたき、にごった瞳は痙攣している。

 蛇と赤子が交わった姿に、ナオコは口元を手でおおい、えづいてくるものを飲みこんだ。


 赤子の眼球が飛び出さんばかりに開かれ、街全体を揺らがすような泣き声をあげる。

 ビルの屋上を猛烈な速さで這っていくと、尻尾を駆けあがっていた人影にむかって食らいついた。メビウスの輪のようになった赤子は、自分の尾を噛み千切っていく。

 影は半身をかえし、赤子の頭部に飛びのった。眼球に腕をふりおろす。ナオコの所からも、白い頭部がみるみるうちに灰色の血にそまっていく光景がみえた。


「まままあああああああaあaあaaaaaaaaAAAAAAAAAAAAAAAあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああまままままあああああああああああああああああああああああああaaaaaaaaAAAああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああAAAAAAAAaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa」


 赤子の悲鳴が地面をゆらす。断裂した尻尾の先端が伸びていき、ビルの屋上に降りたった人物に振りおろされた。

 ビルの先端が衝撃で欠け、地面にコンクリートの破片が突き刺さる。

〈虚像〉の体は支えをなくし、ずるずると落下していく。黒い影も〈虚像〉にしがみつき、ともに落ちていく。

 ナオコは走りだしていた。赤子の泣き叫ぶ声がすると、地響きとともに、大量の土埃が視界をうばった。思わず顔をかばう。


 しばらくして土埃が落ちついた。恐る恐る目をひらくと、崩れかけたビルの足元に〈虚像〉の顔がころがっていた。泣き疲れて眠ってしまったかのように、灰色の血でほおを濡らしている。


 ナオコは動かなくなった〈虚像〉に近づくと「どういうことなんですか」と震える声でたずねた。


「これ、なんですか」


「……なんだと思うんだ」


黒いスーツを着た腕が、赤子の目から引き抜かれた。


「母親をよぶ生き物を、人はなんと名付ける」


 ナオコはゆっくりと首を横にふった。これが〈虚像〉だなんて信じられなかった。上野公園で遭遇した「樹」も、今日戦闘した「カメレオン」も異常種には違いない。だが、人間の頭部をもつ〈虚像〉がいるなんて聞いたこともなかった。


「哺乳類の進化の先ってことですか」


 そうつぶやくと、彼は「人間が哺乳類の先であるなんて、おごっているな」と答えた。


「だが、君の言うとおりだ。この〈虚像〉は下半身こそ爬虫類だが……しかし、()()()()()()()()()のだろうな」


「でも〈鏡面〉内にいる〈虚像〉は人間になれないはずじゃ」


 彼女はそこまで発言して、すべてがつながったことに気付いた。

 彼の姿がいつも見当たらない理由。精神分離機の使用超過の理由。そして、そこまでしておきながら現場を取りおさえられない理由。


「HRAは」


 山田は安っぽいペーパーナイフを持ったままの手で、汚れたほおをぬぐい、視線を〈虚像〉にむけた。


「人間は人間を殺すべきではない、と考えているからな」


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