NO! 喫煙室
オフィスは、人の出入りが激しかった。しきりに携帯が鳴り、出動していく。日本支社にいる特殊警備部は34名で、おもに東京を中心とした関東地区を担当している。ほかには、大阪と福岡、北海道に派出所があるが、会社としての機能は東京が圧倒的だ。
というのも、〈虚像〉は、人口に比例して出現する特徴があるからだ。関東でも、特に都内に現れやすい。
14時半になって、ナオコはパソコンを閉じた。1時間半もかけて、ようやく今朝の報告書を完成させられた。首をまわして、ためいきをつく。文章を書くのが苦手だった。
マルコと約束の時間まで、あと1時間半もある。荷物をまとめて仲間にあいさつをし、オフィスを出た。廊下をすぐ左に曲がり、白い扉をあける。横には『祈祷室』の看板がかかっていた。
各国のHRA支社には、その国に根づいた宗教の祈祷室が設置されている。なかは、八畳ほどの小部屋で、壁ぎわの高い位置に、神棚が設置されていた。
ナオコは、バッグを床におき、立ったまま礼を二回、柏手を二回して、目をつむった。たっぷり三秒たってから、目をひらき礼をもう一回する。
毎日の習慣だった。いつもは朝、出勤時にやるのだが、今日はまだだった。ナオコは信仰心があるほうではなかったが、〈芋虫〉の仕事がら、やらないと落ち着かないのだ。
「きちんとしているな、そういうところは」
「うわあっ」
ナオコは、思わず飛びあがった。カバンを盾にふりかえると、山田が扉の横にもたれかかっていた。指にタバコをはさんでいる。
「信仰心がなくとも、儀式を大切にする姿勢は悪いものではない。相浦なんて、そもそも祈祷室に入ったことがないだろうな」
「いや、え?」
動転して、目を白黒させる。扉が開いた音はしなかった。
「いつ入ってきたんですか?」
「最初から居たが」
山田は、呆れた顔をした。
「君の警戒心の薄さは異常だな。よくそれで、これまで生きてこれた」
「ぜんぜん気づかなかったです……」
ナオコは、顔を赤らめた。
「一年も〈芋虫〉として働いているわりには、気配に鈍いな。向いてない」
山田はタバコをくわえ、ライターをジャケットの内ポケットから出した。
あわてて彼に駆け寄り、タバコに手をのばす。しかし、上を向かれてしまうと手が届かない。今度はライターを標的にするも、見事なまでにかわされた。
「小さくてかわいらしいな?」と、山田が鼻で笑った。
ナオコは、さらに顔を赤くした。
「ここ喫煙室じゃないですよ!」
「知っている。喫煙室が遠い」
「わざわざ祈祷室で吸うことないじゃないですか!」
タバコに火がついた。煙が細くたなびき、メンソールの臭いがする。ナオコが嫌なのは、両親ともに愛煙家のため、彼の吸うKOOLの臭いを、それほど嫌悪できないことだ。
ただ、やはりルールは守るべきである。
不愉快に思いながら、部屋を出ようとすると、
「待て」と呼び止められた。
「なんですか」
ナオコは、むっとして、彼をみあげた。
タバコは、彼の手の中にあった。煙を吹きかけられる予感がしたので、とっさに目をつむる。
しかし、彼は顔をそらして、煙を横に逃がした。
ナオコは拍子抜けした。そして、さらに嫌な気持ちになった。煙を吐く横顔がさまになるのだ。
「辞めないのか?」
今日の天気を、たずねるかのような問いだった。
「今朝のようなことをするくらい、俺は君と仕事をするのが嫌なわけだが、それでも辞めてくれないのか?」
心のなかで「きたか」と、つぶやく。実は、この質問をされるのは初めてではない。
バディを組んでから、彼は幾度も「仕事を辞めろ」とナオコに迫っている。
「辞めないですよ」と、はっきり答える。
「さっきも言ったが、君はこの仕事に驚くほど向いていないぞ。それでもか?」
「そんなこと、ないです」苦しまぎれに答える。
「ほお、いまだに〈虚像〉一体も仕留められないのに?」
ぐっと詰まる。
「それは、山田さんが、わたしに仕事をさせてくれないから」
ナオコは、そう言いながら苦しいものを感じた。
山田の邪魔も理由のひとつだが、いまいち自分が活躍できていないのは事実だ。
「人のせいか。まあ、いいが」
山田が、冷たく言う。
「それで? どうして仕事を辞めない」
「だから、そんな簡単に辞められないですってば」
「俺はどうして、と聞いているんだ。簡単に辞められないとか、そういうことを聞いているんじゃない」
不審げに山田を見あげる。いつもなら、拒否した時点で会話を切り上げてくれるのだが。
「どうして君は、この仕事を辞めないんだ?」
ナオコは、しかたがなく「食べていくためですよ」と、答えた。
「働いて自立しないと生きていけないでしょう? あたり前のことです」
そして、精一杯の気概をこめて、にらみつける。だが山田はどこ吹く風といった顔で、
「なるほど」と、独りごちた。
「やはり、そういうことだったか」
「は?」
彼は、にわかに携帯を取り出し、ケースの裏にはさんであった紙片をつきだした。
「知りあいが、中途で事務員を募集している」
「……はい?」
「月給二十五万円スタート、一部家賃手当あり、福利厚生完備、ボーナスは年二回の、完全週休二日制だそうだ。なかなか良い条件だと思わないか」
ナオコは、名刺と山田を見比べた。いたって真剣な顔だ。
「や、山田さん」
「面接と簡単な試験があるが、人手不足らしいから、へまをしなければ大丈夫だそうだ」
「山田さん」
「受付が主な仕事で、文章力、PCスキル共に壊滅的でも大丈夫とのことだ。安心だな」
「……山田さん、わたし、行かなきゃ」
山田を押しのけ、ふらふらと部屋を出る。
「おい」と声をかけられたが、呼びとめられる気は、毛頭なかった。
扉をしめる。
ナオコは深呼吸をしてから、廊下を歩いた。
オフィスと反対側の壁に、大きなガラス戸がかまえている。扉を開くと、だだっ広い空間があった。スポーツセンターのような内装だ。端にモニターと、棚が備えつけてある。
知り合いの顔を発見する。
「ケビン!」
部屋のなかを駆けずりまわっていた相浦ケビンが、
「どうしたあ?」とふりかえった。
彼の頭には、MR機器が装着されていた。手に騎兵銃のレプリカを抱えている。
「なんか用か?」
「実戦練習しない?」
ナオコはジャケットを脱ぎ、五課三班のロッカーに放りこんだ。代わりに、ゴルフクラブを取りだす。先端がゴムになっている特注品だ。
彼女は、クラブをひと振りして、太い息を吐いた。
「べつにいいけど、急にどうしたんだよ?」
ケビンは、彼女を見て目を丸くした。
「なんかあったのか? すげえ顔してるけど」
「えへへ、ちょっとね」
ナオコは無理やり笑った。それは、度を越えた怒りがもたらす笑顔だった。
ケビンがほおを引きつらせて「怖え」と、つぶやく。
モニターに触れると、訓練メニューが表示された。
〈1 魚類 2 両生類 3 爬虫類 4 鳥類 5 哺乳類〉
と、表示されている。
彼女は、迷うことなく、5の哺乳類を選んだ。
ケビンが顔をしかめる。
「おい、中村。なんか機嫌が悪いのは分かるが、あんまり無茶はしねえほうが……」
「大丈夫大丈夫」
ナオコは、抑揚のない声で返す。
MR機器をつけると、視界が青みがかった。右上に〈虚像〉左上に使用者のデータが表示されている。
部屋の中央に、巨大なウサギが出現した。真っ白な皮膚に毛は生えておらず、灰色の目をぐるぐる回しながら、前脚で顔をなでている。哺乳類型の〈虚像〉だ。
「まじでやんの? これ、去年出現したなかでも一番の大物だぞ」
「大丈夫大丈夫」
「……おまえが大丈夫じゃないことはわかった」
ナオコが床を蹴った。ウサギの背中にまわりこみ、体重をのせてクラブを撃ちこむ。
回転する視界に、緑色の「HIT」が出る。
ウサギが、後ろ足でナオコの顔面を蹴り飛ばそうとしたが、すんでのところで身をかがめ、左太ももにむかって、もう一発撃ちつけた。
「いい感じじゃん」
ケビンは騎兵銃をかまえ、ウサギの頭にむかって空気砲を撃った。耳に直撃したウサギが、右によろける。
体勢を整えたナオコは、致命傷をあたえようと、脇へ駆け寄った。
「うわっ」
視界が、赤い文字の「HIT」で埋めつくされた。
慌てて後ろに下がるが、すでに遅い。ウサギの背面げりが、顔に当たったらしい。
「訓練終了」の文字が浮かびあがっていた。
五分後、ケビンも強制的に訓練を終了させられた。
彼は、膝をかかえてうつむいているナオコに近づき、
「あのよ」と、頭をかいた。
「哺乳類はさ、やっぱり無理だって。中村が特別に弱いとは思わないが、ここにいるベテランの〈芋虫〉でも、バディと協力してようやく勝てる相手だぜ? 異動してきて一年のおまえが勝てるわけないだろ」
ナオコは、ちらっとケビンを見あげると、再びうつむいた。
「あのウサギ、だれが倒したんだっけ」
「……あー」
ケビンは、あごをポリポリかいて、うなった。彼女の言わんとすることを掴んだのだ。
「ほらよ、しゃくな話だが、山田の野郎は、ほんっとに昔から〈芋虫〉としてやっているわけだからさ」
「うん」
「それに、アイツの身のこなし見てみろよ。あれは絶対に軍で経験積んだ動きだ。俺の見立てじゃ、グリーンベレーの動きに近いな」
ケビンは、忌々し気に「アイツは化物なんだよ」と吐きすてた。
「だから、あんま気にすんな」
肩をたたかれて、ナオコはしょんぼりした。
「気にしないようにしていたけど、さすがに名刺持ってこられるとね」
「は? 名刺?」
「知り合いが事務員を募集している。良い条件じゃないか、だってさ……」
ナオコは、背中に幽霊でも背負っているような顔で、話つづけた。
「わたし、知らないところで、山田さんになんかしちゃったのかなあ。単純に仕事ができないだけで、あんなことする? もしわたしが嫌なら、バディ変えればいいのに」
「でも、そう言うと『俺とバディを組まないと、君は即死だ』って言うんだろ?」
ケビンは、山田の真似なのか、あごをつんと上げた。
「とにかく、おまえをHRAから追い出したくて仕方ねえわけだ」
「そうなんだよ」
ナオコは頭をぶんぶんと振った。山田の考えていることが、まるで分からない。
「もうさ、わたしのこと、死んでもいいとさえ思ってそうだよね。正直つらいや」
ケビンは憐れむようにナオコを見た。
「ま、しかたねえさ。マルコさんに頼めや。いまのおまえの顔みたら、聞いてくれるって」