君のために祈る
数十分もたたないうちに救護車が来たとの連絡が携帯にはいった。ケビンの背中を隠しながら、3人は目立たないように駐車場まで歩き、病院へと向かった。道中彼は元気そうに振る舞っていたが、車に乗ったとたんに眠ってしまった。病院につくと、彼はすぐに治療室に運ばれた。ナオコと由紀恵も軽いやけどを負っていたので、その処置をしてもらった。
治療から戻ったナオコは、がらがらの待合室のソファに座りこんでいる由紀恵をみて「大丈夫ですか?」と声をかけた。
「大丈夫よ……ごめんね、本当に」
彼女は力なくほほえんだ。こんなに落ちこんだ由紀恵を見たことがなかったナオコは、横に座ると「ケビンも大事ないみたいで、よかったです」と言った。
由紀恵は「そうね」とつぶやき、押し黙ってしまった。
病院の外に視線をやると、夕方が待合室を赤く染めあげていた。日の高いころは混雑していただろう病院も、いまは静かだ。
「ほお、大丈夫?」
おもむろに由紀恵がたずねた。
「ぜんぜん大丈夫ですよ」
「よかった……山田さんにも、謝らないとね」
彼女は下を向くと「あなたを口実に殴るなんて、最低のことしたわ。あの人は、ナオコちゃんが心配だっただけなのに」と後悔の念を述べた。
ナオコはなんと言っていいのか分からず、視線をさまよわせた。
「そう、だったんでしょうか」
あのとき、山田の手はひどく震えていた。まるでなにかを怖がるかのようだったと思いだす。
「山田さんはわたしが〈芋虫〉にふさわしくないのに出動したから、怒っていたんじゃないでしょうか」
そう口にはしたが、すでにナオコはその理由が通用しないと感じとっていた。彼の動揺がいまだに自分の心を揺さぶっている。ほおよりも胸のほうが痛いような気がして、シャツの上から胸元をつかむ。
「ふさわしくないのは、わたしの方だわ」
由紀恵がめずらしく弱音をはいた。
「なにが古株なのかしらね……本当、わたし、なにやっているのかな」
「由紀恵さん」と、ナオコは気づかわしげに彼女の背中に手をまわした。
すると彼女は瞳をゆらしながら「情けないわ」と弱々しい笑みをうかべた。
「わたし、こういうことがあると思っちゃうのよ。もしケビンやナオコちゃんや……みんなが死んでしまったら、生きている意味なくなっちゃうなって」
「なんでですか?」
由紀恵は「HRAのみんなが、わたしの世界だからよ」と答えた。
「みんながわたしの家族だし、わたしの生きる意味なの。それがなくなっちゃったら、もう生きている価値なんてないわ……そう思っているのに、あなたたちを危険にさらすなんて。本当に愚か」
「由紀恵さんはできることをしたんです」
ナオコは彼女の肩に手をやって、そう話した。
「もしあのとき、なにもしていなかったら、わたしたち、あの気色悪い虫にむしゃむしゃ食べられていましたよ」
由紀恵はナオコの必死な表情をみて、儚げなほほ笑みをうかべた。
「うん……そうね。でも今回みたいなことがまた起こったら、自分を許せなくなりそうだから、次は絶対にあんな危険なことはしないわ」
ナオコは由紀恵の成熟した部分に悲しくなった。彼女はもっと弱音を吐いていいはずなのに、周囲のために強くあろうとしている。
たまらなくなり、由紀恵にぎゅっと抱きついた。
「なになに、どうしたの、ナオコちゃん」
由紀恵はナオコの頭をなでて、母親のようにたずねた。
「わたし、由紀恵さんがいなくなったら嫌ですよ」
腕に力をこめる。
「だから、生きている価値がないなんて言わないでください……」
彼女は笑うのをやめ、ナオコを抱きしめかえした。そして優しい溜息をつくと「ありがとう」とつぶやく。
「わたし、あなたたちのためならなんでもできるわ。本当よ」
「わたしだって由紀恵さんのためになんでもしますよ! ケビンも、きっとそうです」
ナオコは体を由紀恵から離すと、そう断言した。彼女の真剣な面持ちをみて、由紀恵がぷっと噴き出す。
「やだ、なんだか照れるわね。ふふ、こんなんじゃ山田さんに嫉妬されそうだわ」
ナオコは唐突に出てきた彼の名前に「山田さんは」とまごついた。
「わたしには、よく分からないです」
「でも、今回のことでよく分かったんじゃない? あの人、あなたをとっても心配しているのよ」
由紀恵はナオコの顔をのぞきこんで、そう言った。
あらためて指摘されると、ナオコはどうしていいやら分からなくなってしまい、うつむいた。山田に心配をかけていることには、うすうす気づいてはいた。そうでなければ〈虚像〉から自分を救ったり、あまつさえプライベートの面でも世話をやいたりするはずがない。
彼がたんなる私怨でナオコを〈芋虫〉から引きずりおとしたわけではないことは、とっくのとうに分かっていたのだ。
ただ、そこから目を背けていたかった。もしそうなのだとしたら、いよいよ山田の気持ちが分からない。彼がなんのためにそんなことをしたのか、見当もつかなくなってしまう。
ただでさえ霧のなかにいるような彼が、もっと遠くへ離れていってしまう気がして、ナオコは彼が自分を嫌っていて、それで仕事を辞めさせようとしているのだと思いこんでいたかったのだ。
「山田さんは、意外と情が深いですよね」と、ナオコはつぶやいた。
「一年間相棒やっただけの人を、こんなに心配してくれるなんて」
由紀恵は「それだけかしら」とほほ笑んだ。