夏の虫
「真夏にバーベキューなんて馬鹿のすることだと思っていたが」
ケビンは道の真ん中にコンロをならべながら、悪態をついた。
「今回ばかりは許してやる」
「きた!」とナオコがさけんだ。
小道の向こう側から、白い集団があらわれた。100はくだらないだろう数の虫たちは、ひとつの大きな生き物のように怒涛の勢いで向かってくる。ナオコはあまりの気持ち悪さに青ざめながらも、火のついたコンロの上にボンベを置くと、全速力で走った。由紀恵とケビンも横にならぶ。
「これ、本当にいけるのか?」とケビンが後ろをふりかえった瞬間に、爆風が彼の前髪をまくりあげた。
「振りかえらないで!」
由紀恵は彼の腕をつかむと、猛スピードで走った。遅れないように、ナオコも必死でついていく。背後から何度も破裂音がする。数秒ほどたったあとに、爆発が起こって地面が揺れた。背中に熱風を感じる。
「あちぃっ」とケビンが悲鳴をあげた。スーツのジャケットに小さな火がついている。由紀恵とナオコは慌てて火をたたき消すと、ふり返った。
ナオコは思わず絶句した。『ミッション・インポッシブル』でしか見たことがないような大火事が目の前で起こっていた。ごうごうと立ち上る火が〈虚像〉たちを燃やしていく。周囲の木々にも引火して、見る間に火の手が広がっていく。
由紀恵は煙の多さにせきこみながら「逃げたやつをやって!」と2人に指示をした。
地面を〈虚像〉たちが逃げまわっている。ナオコはゴルフクラブを出現させると、もぐら叩きよろしく一匹一匹潰してまわった。そうこうしている間にも火の手は広がっている。
「もういないよな!」とケビンが叫ぶ声が聞こえた。
「いないと思う!」
ナオコも叫びかえす。煙の多さに、だんだんと前が見えなくなってきた。このままだと燃え死んでしまう。
「ちょっと、なんで?」
由紀恵の悲鳴がどこからか聞こえた。
「〈保全部〉、こちら2課1班新藤由紀恵! 〈鏡面〉からの撤退を要求します! 〈保全部〉!」
ナオコの四方を火が取りかこむ。せきこみながらも、彼女は血眼で地上をさがした。まだ〈虚像〉が残っているせいで〈鏡面〉から出られないのだとしたら、一刻も早くつぶさなくてはいけない。
「あつっ」
ほおを炎がなぜて、ナオコは体を低くした。これはまずいかもしれない。口元を手でおおい、這うようにして火柱のない場所を探す。煙がしみて、涙がでてきた。
目の前を白いなにかが通りすぎ、とっさにクラブを構える。もはや地面しか見えないが、あれをやらないことには焼死はまぬがれない。
彼女は左方向からあがった火の手に身じろぎをし、そこから飛び出てきた〈虚像〉に駆け寄った。すかさずクラブをふりおろす。ヘッドが虫を押しつぶし、灰色の液体がまき散らされた。
ナオコは肩で息をしながら、その場にしゃがみこんだ。
右側の煙の中から、なにかが裂ける音が聞こえて、顔をあげる。ナオコの腰を誰かがさらい、そのまま地面に投げ出される。燃え落ちた木が足元に倒れこみ、彼女は自分が何者かに救われたことを知った。
そのとき空間がぶれて、ナオコの意識が一瞬落ちた。まばたきをすると、白一色だった世界が元に戻っている。青々とした木々が整然とならぶ、元通りの公園だ。
助かったのか、と安心したナオコは、しかし次にほおに与えられた衝撃に目をぱちくりとさせた。
ほおに手をあてると、じんじんと痛い。ナオコはゆっくりと上をみた。
山田は彼女のほおに振り下ろした右手を握りしめた。息が荒く、スーツも乱れている。
彼はナオコの胸倉をつかむと「なにをやっているんだ!」と怒鳴った。
「いま、君は常駐警備部のはずだろう! なに首をつっこんでいる?」
「や、山田さん」
ナオコは体をこわばらせ、えりをつかむ手に指をかけた。
「その、保全部に、よびだされて」
蚊の鳴くような声で言うと、山田は乱暴に手を離した。
「少しは自分の頭で考えられないのか? 君が来ても迷惑なだけだ。やきのまわった〈保全部〉の指示など従うな!」
「おい!」
山田の肩をケビンがつかんだ。
「なんでてめえがここにいんだよ?」
「おまえたちが〈鏡面〉からなかなか出てこないから、俺が呼び出されたんだ」
彼はケビンに氷のような視線をむけ、そう吐き捨てた。
「つまり、5課3班の2人が応援にきたってことね」
由紀恵が近寄ってきた。彼女のほおに目をとめると、山田をぎろりとにらむ。
「〈保全部〉としても、正しい対応だと思いますけどね。なんでナオコちゃんに手を出す必要があるのかしら」
いまにも彼を張り飛ばしそうだ、と思ったナオコは由紀恵の前にでて「わたしが悪いんです」と言った。
「〈鏡面〉から出るときに、木に押しつぶされそうになったところを、助けてもらって」
「あら、そう。それが彼女を殴った理由?」
ぱん、と甲高い音がひびいた。山田は左を向いたまま、由紀恵を見おろした。彼女は右手をおろして「抵抗しないのね」と唇をゆがめた。
「あなたのそういうところ、本当に嫌になるわ……ナオコちゃんに、甘えないでよ」
山田に鋭い視線をむけたまま、由紀恵はつぶやいた。ナオコは殺伐とした雰囲気に動揺しながら「由紀恵さん、あの」と声をかけた。
「甘えね」と、山田が静かに口をひらいた。
「君は十分厳しいようだな、新藤。厳しさゆえに、全員を殺すつもりだったのか?」
由紀恵の顔から血の気がひいた。山田は先ほどの怒りが消えて真顔になっている。その静けさが怖かった。
「〈鏡面〉のなかで災害を起こすことの危険性を知らないわけでもないだろう。それとも、そこまで落ちぶれたのか」
「それは」
由紀恵は歯がみして、だまった。
「それは、わたしの判断ミスだわ。ごめんなさい」
彼女が頭を下げるのに、ナオコはやりきれない気持ちになった。それはケビンも同じだったようで「こんなやつに、頭さげんじゃねえよ、由紀恵」と山田をねめつけた。
「言っておくが、今回はあれが最善の解決策だった。それはてめえが居たところで変わらない事実だ。それとも、自分ならもっとうまくやれたとでも言うつもりか?」
ケビンの攻撃的な言葉を、山田は「あとの祭りだ。そんなことは言わない」と冷たくあしらった。
「ただ新藤には古株としての知恵がある。君たちを、もっと安全な場所にやってから火をつけることもできたはずだ……貴重な〈芋虫〉を危険にさらした責はまぬがれない」
「はっ、口で言うのは簡単だな」
ケビンは皮肉っぽい笑みをうかべた。
「てめえだって上野公園での戦闘で、中村に大けが負わせただろう? どこの口が偉そうなことぬかしやがる」
「ケビン!」
ナオコはケビンの腕をつかんだ。あのときのケガは、完全に自分の責任だ。それをあてつけのように言われるなんて、彼女には耐えがたかった。
山田は反論をしなかった。ただ続いていた緊張に疲れてしまったように「そのとおりだな」と小さくつぶやく。ケビンは当然言い返してくるだろうと考えていたのか、当惑した表情をうかべた。
くるりと山田がきびすをかえすと、由紀恵が「待って!」と声をかけた。
「出ているわよ」
首元を指さす彼女を無視して、山田は歩き去った。ナオコは追いかけようと走りだしたが、背後から聞こえた「いてっ」という悲鳴に、思わず足をとめた。みるとケビンが顔をゆがめて、背中に腕をまわしている。
「ケビン、大丈夫?」
由紀恵が彼の背中をのぞきこんだ。
「おーおー、大丈夫、大丈夫だが……」
ケビンは額に脂汗をうかべながら「こんがりだぜ」とつぶやいた。彼の背中がむきだしになっており、真っ赤に腫れあがっている。
ナオコは携帯からHRA専用の救護車を要請したあと、由紀恵と一緒に、木陰にケビンを連れていった。先ほどの言い争いのせいで目立ってしまっていたため、助けが来るまでは隠れていようと考えたのだ。
ケビンを木の根っこに座らせると、由紀恵が「ごめんね」と唇をかみしめた。
「山田さんの言うとおりだわ。わたしの考えが足らなかった……」
ついで「ナオコちゃんも、危険な目にあわせてごめんなさい」と頭を下げたので、首を横にふって「わたしは大丈夫です」と答える。
ナオコはまだ自分が衝撃の最中にいることを感じていた。異常種を火事によって撃退したこともそうだが、なによりも山田の平手打ちが頭から離れなかったのだ。
手のひらをじっと見つめる。胸倉をつかんだ彼の手は、震えていた。