飛んで火に入る
土曜日の代々木公園は、のどかな雰囲気だった。ナオコは息をきらしながら公園を走り、出現位置である階段をかけあがった。最後の段をあがると、真夏の溶けるような暑さが一瞬だけ凍りつくような寒さに変わる。
「中村!」と小さな声で名前をよばれ、ナオコはふりむいた。
階段にしゃがみこんでいたケビンが、彼女の腕をひっぱって、無理やりしゃがみこませた。両手に騎兵銃をかかえて、驚愕の表情でナオコに「おまえ、どうしてここにいんだよ!」と言う。
ナオコはどうして彼が声をひそめているのか不思議に思いつつも「異常種が出現したから、手伝いに行けって言われて」と答えた。
すると彼は大きなためいきをついて「なるほどな」と言った。
「中村には悪いんだが……というか、これは保全部が悪いのか? 今回ばかりは人数は少ない方がいいかもしれん」
「どういうこと? ていうか、あれ、由紀恵さんは?」
階段の下を見ても、由紀恵のすがたはない。ケビンは「あっちだ」と歩道橋の向こうがわを指さした。
「いま、やーっと挟み撃ちにできたんだ。いいか、中村。とにかく静かにしてろ。やっこさん、警戒心が異常に強い」
電子ノイズのような音が聞こえて、ナオコとケビンは橋の欄干を見た。
公園の木々が揺れて、水面のように波打つ。空気が具現化したかのように、欄干の上の空間がゆがむ。真っ白な舌が手すりをべろりとなめ、ついでサッカーボールほどの大きさがありそうな、巨大な灰色の瞳が一対、緑色の背景に浮かびあがった。〈虚像〉はきょろきょろと周囲をみわたしたあと、その輪郭をあらわにした。
カメレオンだ、とナオコは思った。ごつごつとした岩肌の体は、白と緑をこわれた液晶のように映しながら、すがたを現したり消したりしている。手すりのうえでバランスを保ちながら、視線の定まっていない瞳を回転させている。
「いちおう、爬虫類なのか、とも思ったんだが」
ケビンが聞き取れるか聞き取れないか、というくらいの音量でささやいた。
「由紀恵がこいつは危険だから連絡しろってうるさくてな……だが、ぜんぜん攻撃してくる様子もない」
「攻撃してこない?」
ナオコは怪訝に思った。通常〈虚像〉は、生まれ変わるための障害になるナオコたち〈芋虫〉たちを排除しようと攻撃してくる。それはひとえに肉体をもつ人間が〈鏡面〉内にいると〈虚像〉は外に出られないからだが、そう考えたさいに今回のケースはおかしかった。
「なんで攻撃してこないんだろう」
ナオコはなんだか不穏なものを感じた。しかしケビンは「とにかく」と彼女の思考をさえぎって「由紀恵が先手をうったら、俺は出ていくから。中村はここにいろよ」と伝え、騎兵銃をかまえた。
「そういうことなら」
後から来た人間が邪魔はできないと思い、ナオコはうなずいた。
〈虚像〉が周囲を見渡すのをやめて、そろそろと手すりから降りた。その瞬間、飛来してきた槍が横たわっていたカメレオンの尻尾に重い音をたてて突き刺さる。
橋の向こうがわから走りだしていた由紀恵が「ケビン!」と声をあげた。
ケビンは狙いをつけていたカメレオンの頭にむかって、1発撃ちこんだ。ナオコの耳元に、ずどん、という発砲音が響きわたった。
銃弾は額を見事に撃ちぬき〈虚像〉は悲鳴もあげずに倒れた。彼はリロードをしながら〈虚像〉に近づくと、もう一発とどめに撃った。
「よし」とうなずいて「中村、出てきてもいいぞ」と言う。
「え、ナオコちゃん?」
近づいてきたナオコに、由紀恵がおどろいた顔をした。
「すみません。異常種の出現で人手が足りないからって、出動命令がくだって……」と、ナオコは眉尻を下げた。
「でも、わたし要らなかったですね。よかったです、びっくりしましたから」
ナオコは無事に〈虚像〉を倒せたことに胸をなでおろした。呼び出しをされていながら自分が不必要だったのは少し悲しかったが、なによりもケビンと由紀恵が無事でよかった。
由紀恵は申し訳なさそうな顔で「来てくれてありがとうね」と言った。
「なんだか様子がおかしかったから、一応保全部に連絡したのよ。でも、そうね。ナオコちゃんが出動しなきゃいけないくらい、今日は頻出しているのね」
由紀恵は考えこむように、あごに手を当てた。
「やっぱりここ最近はいけないわね……本当はもっと人員を増やすべきなんでしょうけれど」
「そんなこといってもね」とケビンは肩をすくめた。
「どうにかなっているうちは、本社も人は増やさないだろ」
由紀恵は「上っていつもそうね」とためいきをついた。
「まあ、今回はどうにかなったけれど。ナオコちゃんには早く復帰してほしいわ」
「ありがとうございます」と、ナオコは言った。「でも、そうですね。今日は無事終わってよかった……」
ナオコは右足になにやらくすぐったさを覚えて、ふと下をみた。
「うわわわわ」
悲鳴をあげながら右足を振り、片足立ちではねまわる。彼女の様子をみた2人は、何事かと下を見た。
〈虚像〉の死体が、こぶしほどの大きさの虫にびっしりとおおわれていた。白いぬめぬめした質感から、それらが〈虚像〉の一部であると彼らには分かったが、数が多い。
穴のあいた額から、口から、目のなかから這い出て、みるみるうちに広がっていく。虫たちは細かい足をすばやく動かしながら、ナオコたちに向かってきた。
「逃げて!」と由紀恵が叫んだのを機に、ナオコたちは脱兎のごとく階段を駆け下りた。
「なに、なに、アレ!」
走りながらナオコがさけんだ。
「知るかよ! あんな気持ち悪いもの!」とケビンが半泣きでこたえる。「俺、ああいうの無理なんだが!?」
「寄生虫ね、たぶん」
最も冷静な由紀恵が、後ろをふりかえりながら答えた。
「〈虚像〉における寄生虫が、なにを意味するかって話だけど……」
「そんなのどうでもいい! どうするんだよ、アレ」
3人は階段を下りたあと、広場へと走った。人っ子一人いない広場は青空のしたで爽やかそのもの、といった空気だったが、背後から大量の〈虚像〉が追ってきているとなると、嵐のまえの静けさにすぎなかった。
「燃やす?」と、ナオコが苦し紛れの案を出した。
「どうやってだよ! だいたい〈鏡面〉に持ちこめるものは傷一つ付けらんねえんだぞ」と、ケビンがつっこむ。
〈虚像〉にたいして攻撃できる手段は、精神エネルギーを媒介したものに限られている。そう考えたさいに使える武器は、精神エネルギーの偏りが起こっている〈芋虫〉たちの肉体か、精神分離機、もしくは自然現象しかない。
火をおこすことができれば戦力になりえるが、あいにくライターなどで生まれた火は役立たずだ。あくまで〈鏡面〉の空間にあるものでないと意味をなさないのだ。
「待って、できるかも」と由紀恵が足をとめた。
「いまって8月よね?」
「だからなんだよ。8月だからって焼却場は〈鏡面〉にまで出張には来ねえよ」
なかば泣きそうになっているケビンだったが、由紀恵の視線の先にあった広場の片隅にある特設会場に目をとめると、正気かどうか疑うような顔で自身の相棒をみた。
「まじで?」
3人は会場に走りより、どこにでも売っていそうなコンロやガスボンベが大量に積みあげてあることを確認した。そうしているあいだにも、少しずつ地響きが近づいてきている。すがたは見えないが、想像するだに恐ろしい量の虫が近づいていることはたしかだった。
「ラッキー、なんじゃない?」由紀恵は追い詰められながらも、にこりと笑った。
「これ、使いましょう」