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鏡の国のバカ  作者: 阿部ひづめ
眠れない男の夢
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ろくでなしの大人でも

 ナオコは思わず黙ってしまった。飯田の発言に反論したい自分がいる一方で、優しい言葉をかけられて安堵している自分も感じてしまったからだ。

 頑張っている、と言われてうれしくないわけではない。ただ頑張ったところで山田には追いつけず、認めてもらえない自分自身が情けなくて、どうしても飯田の言葉に素直になれない気持ちがあった。


 頑張っていると褒められてしかるべきなのは、それ相応に苦しい思いをして成功した人物だけなのではないだろうか。ナオコがそう思っていることを、飯田は彼女の微妙な表情から見透かしたようだった。

「うつになりやすいんです、そういう人は」と飯田は言いづらそうに、だがしっかりと口にした。


「真面目で、自分に厳しい。それは美徳です。でも、強い衝撃を与えたときに壊れやすいのは、より固いものの方なんですよ……一度壊れたものを直すのは、とても難しい」


 彼は医者のようにつづける。


「自分が壊れてしまうまで厳しくすることは、美徳でもなんでもありません。それは、正直言って甘えです。自分の限界を知らないことは、勇気ではなく無謀ですから」


 ナオコはびくりとして、飯田をみた。彼はハッとして「すみません、失礼なことを」と謝った。そして、気まずそうに「ベースの子が」とつづける。


「社会人になってもバンドを続けていてくれたんですけど、うつになってしまって……一時期は食事もとれないくらい弱ってしまって、危なかったんです。だから中村さんのことも、どうしても。すみません、ぼくなんかが熱弁していいことじゃないのに」


「いえ」とナオコは否定した。たしかに、自分が無謀な性質であることは間違いなかった。


「飯田さんの、言うとおりだと思います……でも、どうしても」


 ナオコは胸が苦しくなって、両手をにぎりしめた。こんなことをさして親しくもない飯田に打ち明けてよいものか迷った。だが彼は思ったことを話してくれているし、真剣そのものだ。その気持ちに応えたいと思い、ゆっくりと口をひらく。


「その人と、対等になりたいんです。どうしても、認めてほしくて……それでまずは、その人自身とちゃんと向き合わなきゃいけないんじゃないかって思ったんですけれど、うまくいかなくて」


 とつとつと話す彼女に、飯田は「それは、中村さんが悪いことですか?」とたずねた。


「ええ、わたしが弱いから……」


 ナオコはぽつりと答えた。


「全部自分のせいにすることが正しいわけじゃないですよ。本当に、それは中村さんが向きあっていないから起こったことなんですか? ぼくには、そうは思えないです。だって中村さん、それほど親しくもないぼくと、こうやって向きあって話してくれているでしょう?」


 飯田はナオコの顔をじっと見た。彼の眼鏡の向こう側をみながら、なんだかナオコは年甲斐もなく泣きたくなってしまった。

「だって」と続けようとする彼女を、飯田はとめた。


「頑張らなくていいっていうのは、努力をするなってことじゃないですよ。ちゃんと原因を見極めて、自分が頑張るべき場所と、そうじゃない場所で分けないと。自分でできることなんて、限られているんですから……そうでしょう?」


「そう、かもしれないですけど」


「ほんとうに、それは中村さんがその人に向きあっていないから起きた出来事ですか? その人が、中村さんに向きあっていないのでは?」


 ナオコは心のなかに、急に風がとおったような気持ちになった。そうなのかもしれない、と思ってしまった。服を選んでもらったときのことを思いだす。山田の気持ちに少しでも近づけたと思ったナオコのの思いを、彼は拒絶したように思えた。

 自分の気持ちを、山田は口にださない。そしてそれは、言ってもらわなければ、ナオコには永遠に分からないことだった。


「もしあちら側に原因があるのだとしたら、中村さんのするべきアプローチは違うはずです」


 飯田はナオコの顔色をみて、優しく言った。ナオコは彼をまじまじと見ると「飯田さんって、心理カウンセラーみたいです」と言った。

 するとみるみる彼は顔を赤くして「すみません」と体を縮こませてしまった。


「わかっているんです。説教くさくなる部分があるというか、偉そうに話してしまうというか、本当に申し訳ない……謝ってすむ話でもないんですが」


「いえ、あの、すごいなって思って言ったんです」


 ナオコは彼を普通の人だ、なんて考えていた自分の浅はかさを恥ずかしく思った。彼は立派な人だ。


「その、たしかにびっくりしましたけれど、でもあんまり仲良くない段階で、こうやって正直に言ってくれる人ってあんまりいないです。それに、飯田さんの言うとおりだって思いました……わたし、やり方を間違えていたかもしれないです」


 ナオコは道がひらけたような気持ちだった。もし山田が自分の話をしてくれないことが、信頼を築けない原因になっているならば、取るべき方法はたしかに違うはずだ。


「飯田さん、ほんとにすごい」


 ナオコは飯田にたいする感謝の念がわきあがってきた。

「臨床心理士とかの資格、持っているんですか……?」とたずねると、彼はゆでだこのようになって「持っていないです」とこたえた。


「ほんと、すみません。言ってから謝るのも変な話ですけれど、その、ベースの子の経験から話しただけで……実際、こんなことを言ってしまったのも、ぼく自身がそうやって問題に向きあえていないからなんですよ」


「それは、バンドの話ですか?」


 飯田は気まずそうに苦笑し、うなずいた。


「実はベースの子が抜けて一度は活動を停止していたんですが、最近ほかのメンバーが新しいベースを見つけてきて、活動を再開したんです。ぼくはその子を待ちたかったんですけど……その、このあいだ居酒屋で話していた子なんかは、音楽に命をかけているような子だから。一刻も早く活動再開したかったんですね。せっかくついたファンも離れてしまうし、焦っているんだと思います」


「じゃあ、あれはバンドに戻ってきてほしいっていうお話だったんですね」


 飯田はうなずくと「彼女からすると、ぼくは向きあえていない人間なんだと思います」とさみしそうに言った。


「事実、そうですね。ぼくはバンドで生きていくような勇気も覚悟もないし、すごく中途半端なんです。失礼な話かもしれませんが、元のバンドメンバーでやれないなら、続ける意味なんてないと思ってしまう」


 ナオコは「歌いたい、とは思わないんですか?」と質問した。

 もしファンがつくくらい真剣にバンド活動をしていたのだとしたら、彼自身だって歌いたいはずだと考えたのだ。

 飯田はしばらく悩んだあと「歌いたいです、正直」と言った。


「でも、いまさら、という思いもあります。偽善者ぶっているのかもしれませんね。ベースの子がいないのに続けるなんて、という仮面をかぶって、自分をいいやつに見せようとしているだけかも」


 飯田はほほえんだ。その笑顔が、あの日居酒屋でみた疲れきった表情とかさなって、ナオコはなんともいえない気持ちになった。


「ほんとうは、覚悟がないだけです。もう26にもなって音楽を続けるなんて、と言われることに疲れただけかもしれない」


 ナオコは飯田に「がんばれ」と言いたい気持ちをこらえた。彼の気持ちが痛いほどわかったのだ。自分に頑張らなくてもいいと言ったのは、飯田からすると自分にたいして言った面があったのだろう。そしてそれは、悲しいほどに正しかった。彼は頑張りたくても、そんなことを頑張ってどうする、と自分を押し殺している。


 そのとき、ナオコの携帯が鳴った。出るように飯田がうながしてくれたので、片手で謝罪をして、携帯の画面をみる。保全部からだ。


「はい、中村ですが……」


 休日になんの用だろう、と思いながら、電話にでる。


「お疲れさまです。保全部の大村です」


 ナオコは「大村さん?」とおどろいた。

 彼女は特殊警備部のときに自分を担当してくれていた保全部の人だ。いつも冷静な口調の彼女だが、今回はどこか焦ったような口ぶりだった。


「お休みのところ、大変申し訳ありません。代々木公園にて、異常種が出現しました。ただいま2課1班が対処に向かっていますが、エネルギーの増大が確認されたため、特殊警備部の経験がある中村さんに急遽(きゅうきょ)出動を願います……都内のあちこちで〈虚像〉が発生しており、手が回っていません。申し訳ありませんが、お願いいたします」


「わ、わかりました」


 ナオコは一も二もなくうなずくと、電話をつなぎながら、カバンを手にとった。

 そこまで人手不足なのかと驚く気持ちもあったが、2課1班、つまりケビンと由紀恵を心配する思いが先だった。


「ありがとうございます。詳しい出現位置を送りますので、確認してください」


「了解しました」


 電話が切れた。飯田が「どうかしましたか?」と心配そうに身を乗りだしたので、ナオコは「実は仕事が入ってしまって」と言った。

 彼女の慌てた顔をみて、飯田は詳しいことを聞くことはしなかった。ただ「気をつけて」とだけ言うと「支払いは、大丈夫ですから」と伝票を机のしたに隠した。


「え、でも」


 正直ありがたがったが、ナオコはとまどった。そしてピンときて「それじゃあ、今度、カラオケおごります」と飯田をみつめた。今度は彼があっけにとられたような顔をした。


「だから、次はお話ついでに飯田さんの歌、聞かせてください……今日、すごく楽しかったです! また、今度」


 ナオコは頭をさげて、カフェの外に飛びだしていった。取り残された飯田は彼女の背中を見送ったあと、口元をおさえて笑っていた。



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