ろくでなしの大人だから
実家で一晩すごしたあと、早々にナオコは家をでた。両親は「もう行っちゃうのか」と不満そうな顔をしたが、お正月の前に一回は帰ってくるという約束をとりつけることで、なんとか納得させた。
12時ごろに自宅にもどったナオコは、ぱたぱたと支度をして、とんぼ返りで渋谷駅へともどった。
駅に到着したときには、すでに13時をまわっていた。土曜日の渋谷は、平日のどこか陰気な混雑とは異なり、遊びにきた人々でにぎわっている。
彼女は待ち合わせ場所である壁画のまえにつくと、焦りながら周囲をみわたした。
すると、背後から「中村さん」と肩をたたかれた。飯田はあいかわらず人好きのする笑みをうかべ「こんにちは」と言った。
今日の飯田はスーツではなく、七分丈の濃い緑色のニットにジーンズをはいていた。眼鏡こそかけているが、仕事のときとはかなり雰囲気がちがう。
ナオコはあいさつをしたあと「今日は、バンドマンっぽいですね」と言った。
飯田は照れたように「そうですか? メンバーには私服も地味だ地味だって怒られていましたけど……」と頭をかいた。
「中村さんも、やっぱり、スーツと私服だと印象が変わりますよね」
ナオコの視線がおよいだ。今日はこのあいだと違って、山田セレクトの服装ではない。いちおう一張羅といってさしつかえないワンピースを着てはみたのだが、なんだか落ちつかない気持ちだった。
土曜日の混雑した街を歩きはじめる。飯田が会話の口火をきった。
「警備の仕事って、あれですよね? 警備服みたいなの着るから、暑そうですよね」
「あー、実はスーツなんです」と、ナオコが言うと、彼はおどろいた顔で「なんだかSPみたいですね」と言った。
世間話をしながら、飯田がおすすめしてくれた、ビルの地下にあるカフェに入った。
ナオコは趣味のいい店の雰囲気に、心のなかで感心した。というのも、そのカフェというのが今流行しているような、洗練されてはいるが固い椅子しかないカフェというよりも、昔ながらの腰をすえて話をさせてくれそうな場所だったからだ。外の騒音がわずかに聞こえるのが、耳に心地よかった。
二人は奥にあるソファ席に通され、どちらもアイスコーヒーを注文した。
彼は以前より緊張がとけているのか、積極的に会話をしてくれた。
その流れでナオコが飯田について知ったことは、彼が今現在、大手製薬会社の営業をしていることと、良い大学へ行っていたらしい、ということ。そしてどうやら彼の家は大変な家らしい、ということだった。
製薬会社で働いているらしい、とせっかく職業を聞けたはいいものを、二の句をつげなかったナオコにたいして、飯田は「親兄弟たちが、みんな医者で」と、ほおを指でかいた。
「本当はぼくも医者になるはずだったんですけれど、頭が足りなくて」
全員東大生の、医者一家ですよ。笑っちゃいますよね、と自虐した飯田には申し訳なかったが、ナオコはマンガのなかだけではなく、本当にそんなエリート一家があるのかと感動してしまった。
自分からみると飯田もかなり良い経歴であるように思えるが、より高いレベルの世界で育ってきた人にとっては、そうとは思えないのだろう。
「じゃあ、バンドは?」とナオコがたずねると、飯田は「たまたまだったんです」と恥ずかしそうにした。
「高校生になって、始めたんです。ちょうど友達が軽音楽部でボーカルをやっていて、彼の喉の調子が悪いときに『おまえ、歌ってみろよ』って。ぼく卓球部だったんですけどね。どうしてか、ハマっちゃって……周囲にのせられたのもありました。うまいって言ってくれて、うれしくて」
たしかに彼の声はいい声だ、とナオコは思った。独特のかすれたような響きがあり、一度聞いたら忘れられない異国の楽器のような声である。
飯田はせきばらいをすると、アイスコーヒーを飲んだ。
「自分の話ばかりしてしまって、すみません。中村さんは、どうして今の会社に?」
「わたしは就職活動で困ったクチで」とナオコは笑いながらアイスコーヒーを飲んだ。
「路頭をさまよっていたところを、いまの社長に拾ってもらったんです」
「じゃあ、もともとはこういう仕事に就くつもりじゃなかったんですね」
「ええ……でも、すごく今の仕事が好きなんです。あ、その、今は第一線から引いちゃってるので、アレなんですけれど」
飯田は「どんなところが好きなんですか?」と興味をひかれたようにたずねた。ナオコは宙をみながら「そうですねえ」と考える。
「仕事内容はともかくとして、みんな優しくて、ほんとうに良い人ばかりなんです」
彼は感心したように「それは良い職場だなあ」と言った。
「ぼくのところも悪い人がいるわけではないですけれど、やっぱり合わない人はいますよ。良い人ばかりって言える中村さんが偉いです」
「いや、そんなことは……」
ナオコは思いがけない称賛の言葉に恥ずかしくなって、飯田から視線をはずした。やはり、彼は相手を立てるスキルが高い。
「いやな人とかいないんですか?」と、飯田。
ナオコはあらためてHRAの人々について考えた。特殊警備部のときは当然として、常駐警備部の人たちもナオコにたいして親切だし、保全部の人たちとはそれほど関わることがないが、仕事熱心できちんとしている。マルコは尊敬も信頼もできるすばらしい人間だし、ケビンや由紀恵も大好きだ。
ああ、でも。ナオコはふと思いついて、苦笑した。
「上司が意地悪で」
ナオコは冗談めかすように、両手をあわせた。
「今、まえと別の仕事をしているのも、彼に役たたずだって怒られちゃったことが原因なんです。気難しい人で、すごーく仕事ができるんですけど」
「え、その人のせいで、部署移動になったんですか?」
飯田はぎょっとした顔をした。その反応に、ナオコは「わたしが使えないのが悪いんですけれど」と慌ててつけ加える。
「彼の足を引っぱってばかりだったので。迷惑もたくさんかけましたし、それで、やっぱり自分の仕事には追いつけないって思われたみたいで……悔しいですけど、いまはそれを取り返さなくちゃって思っています」
飯田は「なるほど」とつぶやくと「専門家気質なんですね。うちの両親に似ています」と言った。
「プロとして自覚があるから、できない人に厳しいというか。できない理由がわからないんですよね、そういう人たちは……」
「そうなのかもしれません。でも、頑張るしかないですよね」
ナオコは自分に言い聞かせるように、うなずいた。
飯田はじっと彼女をみると「頑張らなくてもいいんですよ」と真剣な顔で言った。
「え?」
ナオコはぽかんとして彼をみた。カフェの扉がひらいて、一瞬だけ彼の顔を外の光が照らした。不思議な表情をうかべた飯田を、ナオコはじっと見つめた。
「すみません、情けないと思われるかもしれませんが……自分を認めてくれない人に、無理に合わせる必要はない、とぼくは思います」
飯田は静かだが、意志の強さを感じさせるような目をしている。
「ぼくはいろいろとダメな人間ですが……中村さんは頑張っています。頑張っているときに、もっと、もっと、と頑張っていると、いずれ壊れちゃうこともあります。だから、ほどほどに」
彼は話している途中で恥ずかしくなったのか「医者一家のろくでなしの意見ですが」と照れ笑いをした。
「ぼくも、家族にたいしてそう思っていた時期があったんです。でも結局、距離をとることが一番の解決策でした……ぼくは彼らの望むような人間にはなれなかったけど、それでも今は普通に会話ができる程度まで回復しています」
飯田は「わかったような口きいて、すみません」と謝り「でも、中村さんの上司も、きっと今のままの中村さんを認めてくれる日がくると思います」と言った。
ナオコはとまどいながら「どうしてですか?」とたずねた。
「ぼくには、いまの中村さんでも、十分立派な人間に見えるからです。そんな風にケガをしても、仕事にたいして前むきだし、お話を聞いているとすごく頑張っているじゃないですか」
そして、すこし緊張した面持ちで「今更ですけれど」とつづける。
「中村さん、居酒屋でとても親切にしてくれたじゃないですか。とてもありがたかったんです……メンバーにああやって責められるのには慣れていますが、やっぱり毎回すごく落ちこむので」
「いや、でもあれは当然のことです」と、ナオコ。あのとき飯田は本当に疲れた顔をしていたし、だいいち自分はクリーニング代以上の謝礼を彼から受けとっている。
「当然じゃないんですよ、中村さん」
飯田は首をおおきく横にふりながら、きっぱりと断言した。
「そういう風に考えられる人って、少ないんです。だから、そこまで思いつめなくても大丈夫ですよ」