敬老記念日ではない日
休憩が終わって執務室を去るときには、マルコはすっかり元気をとりもどしていた。心のもやが晴れたようにさっぱりとした顔で「ぼくが出張に行くまえには、またご飯行こうね」などと冗談を言えるまでになっていて、ナオコは安心した。やはりいつものように、ちょっぴりナンパなほうが彼らしい。
「ありがとうございます。行きましょうね」と返すと、彼はうれしそうにした。
その後の仕事は何事もなく終わった。明日は休みだ、と思ったナオコは、もう遅い時間だったが自宅には帰らず渋谷駅に向かい、電車を乗りついで郊外にでた。
ひさしぶりだなと感傷にひたりながら、夜の川べりがながれる車窓をながめた。就職活動をしているときは、わざわざ時間をかけて都会に出てきたものだ。
あのときはつらかった、などと思って、彼女は苦笑した。マルコや山田の過去とくらべて、自分のなんと甘っちょろいことだろう。
八王子駅にに降りたつころには、もう深夜になっていた。ほぼ人のいないコンコースを渡りながら、静かな巨人のように立っている百貨店や商業ビルを見あげる。なつかしさに胸がいっぱいになった。最後にきたのは今年のお正月だったから、半年ぶりである。
ナオコは慣れた道を歩き、駅のすぐそばにある一軒家のチャイムを押した。
玄関扉があき、眼鏡をかけた神経質そうな男性があらわれた。上下スウェットすがたで、ナオコはまたワインでも飲みながら映画を観ていたのだろうな、とおかしくなった。
「おいおいおい」
彼はうれしそうに言いながら、家から出てきて「お嬢さん、いまなにを観ていたと思う? え?」とナオコの肩をたたいた。
「酒くさいよ」と言いながらも「『タクシー・ドライバー』?」とたずねる。
「残念。ヤン・シュヴァンクマイエルの『アリス』だ。とびきりイカれているし、俺にはこんなものわからん……仕事の足しにならないけど、母さんが観たいっていうからさ」
彼はナオコを家に迎えいれると「おーい、不思議の国からアリスのおでましだ」と調子よく呼びかけた。するとリビングの戸をあけて寝間着姿の女性がグラスを片手に出てきた。彼女はナオコをみとめると、あんぐりと口をあけた。
「ちょっと! なんで連絡してくれないのよ。冷蔵庫のなか、からっぽだよ?」
「タダ飯食べにきたわけじゃないから」と、ナオコは笑った。
「急にきたら、おどろくかなあって思って」
「そりゃあ、おどろきますとも……あ、これ飲む?」と、女性がグラスをさしだしたので「飲む」とナオコは受けとり、一気にあおった。
男性と女性は顔をみあわせて「とりあえず入りなさい」とナオコの背中をおした。
リビングは、あいかわらずカオスの一言だった。壁一面どころか三面ほどに映画がずらりと並べられ、その中央に65インチはあるテレビがどどんと置いてある。なにやらグロテスクな映像がたれ流しになっていたので、女性がリモコンで停止した。
「観てていいのに」とナオコが言うと、女性は「もう観る気なくなっちゃった」と唇をとがらせた。
「もう、なんで事前に言ってくれないのよ。それにこんな夜中にこなくても」
「金曜日だし、絶対に起きてるだろうって思って」
彼らは両者とも広告会社で働いており、普段のうっぷんを晴らすように、金曜の夜は平気で夜の2時くらいまで起きている。正月に会ったときには「もう年だから起きていられないんだ」なんて言いながら、朝の5時くらいまで酒をかっくらっていた。
「それに、ちょっと顔がみたくなっただけだから」
ナオコの言葉に、彼らはこまった顔をした。
「なにかあったの?」と、たずねる女性に、ナオコは「ううん」と笑いながら首を横にふった。
「なにもないよ」
「そういう顔をしていないが」と、男性がキッチンから顔をだした。自前のワインセラーをあけて、グラスにワインをそそぐ。
ナオコはワインをうけとって「なんだか、こう」とつぶやいた。
「感謝したくなって、2人に……中村家で育ってよかったなって、今日、すごく思ったから」
彼らはその場に立ちすくんで、ナオコをみた。男性のほうが女性の肩をだいた。彼女はいまにも泣きそうな顔をして「なによ、どうしたの」と言った。
「今日って敬老記念日だっけ? それとも」
「母の日でも父の日でもないけど」と、ナオコ。
女性は机のうえにグラスを置くと、ぎゅーっとナオコを抱きしめた。
「わたしもナオコを育てられて、とても幸せだよ」
ナオコはワインをこぼさないようにバランスをとりながら、同じだけの力で抱きしめかえした。
「年だから、涙もろくなっている」
男性が笑いながら、連れあいの涙にケチをつけた。
「でも、俺もナオコが娘でよかったよ」
「それなら、よかった」
ナオコは心から笑った。そして悲しくなった。
この言葉をいつも求めていて、それでいて満たされない。彼らが与えてくれるものを、自分はいつも取りこぼしながら生きている。
自分よりもっとつらい思いをしながら生きている人々がいて、彼らが前をむいて歩くすがたを見るたびに苦しくなるのだ。こんな小さなことにつまずいている自分が、なんてちっぽけな人間なのだろうと思い知る。
お父さんもお母さんも、こんなに愛してくれているのに。