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鏡の国のバカ  作者: 阿部ひづめ
眠れない男の夢
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ヒーロー

 ナオコはしばらく考えたあと「もしかして、創設者の」とピンときた。


「うん、アルフレッド・アボット。じつは今回本社の人間が来たのは、ここ最近、〈鏡面〉が不安定であることに関しての視察もあるんだけど、彼のことづけがあってのこともあるんだ」


「マルコさんは、その人の研究室にいたって聞きましたけど……」


 彼は「そうだよ」とやさしくほほえんだ。


「それだけじゃない、ぼくは彼に育てられたんだ」


「育てられた?」


 マルコは本を開いた。文字がびっしりと並んだページをめくり、裏表紙をさししめす。そこにはまだ年若い金髪の少年と、彼の肩をだいた壮年の男性の写真がはりつけてあった。恰幅のよい男性は、いつだったか由紀恵と一緒にみたVTRにうつっていたアルフレッド・アボット氏にちがいない。はげあがった頭や顔中にあるしわの数から年をめしていることが分かったが、目の輝きだけはマルコに負けず劣らずであるようにみえた。


「〈鏡面〉上における精神の主体性とエネルギーの流動についての論文」


 マルコはなつかしむように言った。


「これがHRAで認められたとき、だれよりも喜んでくれたのは彼だったんだ」


「精神分離機の元となった論文ってことですか?」


 ナオコはこの分厚さの本を、まだ少年ともいえるマルコが書いたことに愕然とした。世の中に天才という生き物がいることは十分承知だったが、やはり自分とは住む世界がちがう。


「そういうこと。これのおかげで、ぼくは彼の研究室に正式に出入りが認められた。それまでは、たんなる養子としか思われていなかったからね」


 ナオコはマルコを見あげた。彼は誇らしげに笑っている。


「彼はサウス・ロサンゼルスで赤ん坊のぼくを拾ったんだそうだ。まだ良心があるほうの人間だったのか、駅の階段横の段ボールに入っていたって」


 マルコは写真を指でなぞった。


「はじめは施設にやろうかと思ったんだけど、ぼくが彼に抱かれた瞬間に泣くのをやめたから、ああ、それじゃあ時間もあるし、育ててやってもいいかもしれないって思ったんだそうだ……立派な心意気だよ。敬虔なクリスチャンでもないのにね」


 ナオコは「そうだったんですね」とつぶやいた。

 マルコのHRAへの献身は、アルフレッド氏への恩義あってのことだと理解したのだ。そして、彼が真摯な努力家である一面も、こういう背景からきているのであろう。

「マルコさんは、偉いです」とナオコは言った。


「偉い? なにが」


 彼は目をまるくした。


「自分の環境にめげずに、ちゃんと頑張っているから……」


 ナオコの言葉に、マルコはなにかを察したような顔で「そんなことはないよ」と言った。


「頑張りがたりないから、こんなことになっているんだ。本当ならさっさと精神分離機の後続機を生んで、彼に報いなきゃいけないのに、いまだに足踏みしている」


 そして「そうこうしているあいだに、彼も」とマルコは一度言葉をとめた。

 ナオコは彼の目にゆらぐものを見つけた。


「もう86歳になるんだ。前立腺がんが発見されて、5年。摘出手術がうまくいってね、去年会ったときは元気だったんだけど」


 彼は感情を殺すように、単調に言った。


「今年の春に再発してから、急激に悪化したらしい。もし彼になにかがあったら、つぎの代表が必要になる……ぼくはあくまで研究者だから、そういうつもりはないんだけど、やっぱり選出会議には出なくちゃいけなくてね」


 マルコはサンドウィッチに手をのばした。その指先が震えているようにみえて、ナオコは「マルコさん」と呼びかけた。なにを言えばいいのかわからなかったが、できることをしたかった。そして彼女は山田にたいして戸惑いをおぼえた。いまのマルコの話をふまえると、彼の発言はとうてい許せないものに思える。スーツの色を考えろとは、つまりそういうことだ。

 ナオコの思考を読んだかのように、マルコは「山田くんもたぶん、選出会議に行くことになると思う」と言った。


「彼もアルフレッドとは親交があってね。きっと票をもらえるし、話をしなきゃいけない。あんまりここの人には知られていないけど、山田くんもぼくと同じようにHRAで育ったんだ」


 HRAはそういう人々が集まる場所だ、ということはナオコもうすうす理解していた。過去を捨てた人物や、捨ててもいいと考えている人物が集まる理由は、ひとえにこの仕事が社会から隔絶されているという点にある。万が一なにかが起こったとしても、だれも騒がないような人物のほうが当然都合がいい。

 だからこそナオコは複雑な気持ちになった。山田が自分を見舞いにきたときに言ったセリフを思いだしたのだ。

 彼は「きみは満たされてきたのではないか」と言った。それが悪意のある言葉ではなく、ただ単純な疑問であったがために、それは心にしこりのように残っている。

 わたしは満たされてきた。彼女はそう繰りかえした。そうでもしないと、見失いそうになる気持ちを掴んでおくことができない。


「彼は昔のことを話したがらないから、ぼくもあまり知らないけど……」


 マルコは意を決したように言った。


「ぼくにとってアルフレッドは親同然だけど、山田くんにとっては正直わからない。今回、彼の調査を君に頼んだのは精神分離機の数値超過の件もあるけど、それ以上に彼がHRAに害をなそうとしているんじゃないかって危惧していたからなんだ」


 ナオコは眉をひそめた。山田は独特なやり方をとるが、仕事や会社への忠誠心は本物であるように思えた。なぜそんなふうに疑うのかが分からず「どうしてですか」とたずねる。


「あくまで聞いた話だけど、彼の父親の死にはアルフレッドが関わっている」


 ナオコは息をのんだ。マルコは視線を泳がせながら「詳しいことは分からないんだ」とつぶやいた。


「彼の父親はHRA創設時から〈芋虫〉として仕事をしていたらしいんだけど、彼が17歳のときに重大な命令違反をおこして、それが原因で死んだらしい……しかも、その処罰を下したのがアルフレッドらしいんだ」


「じゃあ、山田さんは」


「きっと恨んでいるね。アルフレッドが命令をしなければ、彼の父親は生きていたんだから」


 マルコは苦しそうにそう言うと「それでも」とつぶやいた。


「ぼくには彼しかいないんだよ、ナオコくん。アルフレッドはHRAのために、いろんなものを犠牲にしてきた……ぼくにとって、それは尊いものだ。ぼくも、彼のために犠牲になりたいと思うほど」


 ナオコは唇をかんで、マルコの悲痛な思いに心を沿わせた。その人のために犠牲になりたい、と思うほどの人間と別れがせまっているのに、マルコは山田のこともおもんばかっている。

 彼女は立ちあがると、椅子のうえで石のようにかたまっているマルコのまえにしゃがみこんだ。


「マルコさん。日本支社にいる人みんな、マルコさんのことを尊敬しているし、大切に思っています。それはあなたがいつもわたし達を大切にしてくれるからです。だから、その、頼ってくださいね。わたしができることは少ないですけど……それでも、わたしもマルコさんのためになりたいです」


 ナオコはこの気持ちが彼につたわってほしいと強く思った。アルフレッドと山田のことや、彼の過去のことは分からなかった。ただ、目の前で押しつぶされそうになっているこの人の重荷を少しでも軽くしてあげたかった。

 マルコは「そんなこと言われると、泣いちゃうよ」とほほえんだ。


「恵まれているよ、ぼくは。本当に」


「わたしも」とナオコは彼の顔をみて、しっかりと口にした。


「ここに就職して、本当によかったと思っています」


 マルコは泣くのをこらえるような優しい目をして「ありがとう」と言った。


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