ハロー
八月最終日。ナオコが出勤すると、なにやら騒がしかった。普段は静かすぎるほどの玄関ホールに見慣れない顔の人々が居た。国際色豊かな彼らは、眉をひそめつつ英語で会話していた。
ナオコは常駐警備部のオフィスに入り、隣席の同僚に彼らはなに者かとたずねた。すると、
「うわさなんだけど」と、声をひそめて教えてくれた。
「どうやら本社からマルコさんに、直接のお達しらしい……たぶんここ最近の〈鏡面〉の異常についてだろうな」
だから見慣れない顔ばかりだったのか、と納得する。ナオコは上司に同情の念を抱いた。ただでさえいそがしい身に、本社からもプレッシャーがかけられるのだ。いかな彼と言えども、疲れてしまいそうだ。
昼すぎまで書類仕事をこなした。13時からは、持ち回りで担当する支社の警備だ。
ナオコは玄関扉のまえに立ち、ぴんと背筋を伸ばした。
〈芋虫〉のときは暑ければ上着を脱いでいたが、この場に立つとそうもいかない。日陰を探してみるが、あいにく太陽は高く、黒いスーツを日光がじりじり焼く。
————ひまだ。
彼女は姿勢を正すのをあきらめ、柱の陰にかくしておいた水をラッパ飲みした。
本社の人間が来日しているので、訪問する人が絶えないのでは、などと期待をしていたが、今日もそんなことはなかった。先ほど玄関ホールを通過したときには、彼らは消えていた。
ナオコはそれから30分ほど大人しくしていたが、人っ子一人扉をくぐらないことに見かねて、訓練の復習をはじめた。シフトは13時から21時までと、一番人通りの少ない時間である。持ち場を離れるわけでもなし、棒のように立ちつくすよりも有意義な時間の使い方だと考えた。
最近はシステマの呼吸法にも慣れ、痛みを感じた次の瞬間には、小刻みな呼吸が可能になった。ケビンとの組手も、5本に1本ほどならば取れるようになった。
少しずつだが成長している。その実感だけが停滞した日常のなぐさめだ、とナオコはため息をつく。
あれから山田とは一度も遭遇していない。次にあいまみえたときこそ、先日聞きそびれた目的をあきらかにできるかもしれない。そんな感触を得ていたが、いくら渋谷の街をうろついても、同じ柳の下にどじょうは2匹もいなかった。
ちっとも進展がない。ナオコは焦りを落ちつけるために、扉の横に背中をつけ、無心でスクワットをつづけた。
午後2時。太ももに限界を感じはじめた。一息つこうかと思っていると、ふいに視線を感じる。みると、駐車場側の生垣の横に山田が立っていた。腕組みをして、哀れむような目でこちらを眺めている。
ナオコはひざを折りまげた状態から、ゆっくりと腰をあげた。足をぴったり閉じ、せき払いをひとつする。
「お疲れさまです」と、なに事もなかったかのように顔を取り繕う。
「ああ、ナオコくんもご苦労」
「今から出勤ですか?」
恥ずかしさを押しこめることに必死で、ナオコの口元は歪んでいた。山田は「いや」とだけ返し、
「このあいだの男とはうまくいったか」と、話題をかえた。
「……まあまあです」と、視線をそらす。二重に恥ずかしくなってきたのだ。
「まあまあ? なんだ、まあまあとは」と、眉をひそめる。
「まさか次につなげられなかったのか?」
「いや、一応ご飯の約束はしました……あした」
ぼそぼそと言うと、彼は目を丸くした。ついで、
「それはよかったな」と、笑った。
「きちんと着替えて行けよ。髪もどうにかしろ。ああ、それに」
「メイクもしていけ、ですよね。わかってます」
ふてくされたように言うと、山田は「学んだか」と満足気にした。
どうしてこの人は、なにかと命令したがりなのだろう。少し腹だたしかったが、従っている自分も大概であるとは理解していた。ついつい言うことを聞いてしまうのは、助言から悪意を感じないためだ。
会話の流れがとぎれたおりに、ナオコは使命を思いだした。
上目で彼を見やり「そういえば」と、わざとらしく口をひらく。
「このあいだ借りた服、お返ししないとですね」
山田は疑わしそうな目つきをした。
「返せなんて言っていないだろう」
「いえ、借りておいてそのままというわけにはいかないので……それに、ちゃんと自分の服を買わないとなあって、このあいだ思ったんです」
それは本心だった。どうやら自分には身だしなみが足りないようだ、と痛感していた。年齢相応に見られない原因を把握したのだ。
「えっと、だから」
ナオコは落ちつきなく、シャツの袖を直した。ここにきて勇気が足りなくなったのだ。
服の返却を口実に山田と約束を取りつけられないだろうか、と考えていたのだ。しかし、今考え直すと非常に厚かましい作戦であるように思える。
飯田にクリーニング代をもらったさいに考えついた作戦だったが、山田のマイペースな性格では通用しない気がした。
口を開いたまま停止していると、のどが渇いてきた。山田は察したような顔で、
「なるほど」と、つぶやいた。
ナオコは肩をこわばらせた。考えていることを読みとられたのかと思ったのだ。彼の超人的な勘にかかれば、一字一句当てられる可能性もなきにしもあらず。
山田はしばらく眉をひそめて宙を見つめていた。そして「わかった」と、ひとりうなずき、
「明日は大丈夫なんだな?」とたずねる。
「は、はい?」ナオコの目が点になった。
「明日は、まともな服装の用意があるかどうか聞いている」
「いちおうワンピースですけど」
「それなら、あー、来週だな。無事に明日を乗りきった場合にかぎり、付きあってやる。わかったな?」
なにが「わかったな」なのか、わからない。困惑しながら、
「来週、服返しにいっていいんですか?」と聞く。
「返さなくていいと言っているだろう。その男と次の予定が決まったら連絡しろ。それに合わせて体制を整える」
戸惑いと嫌悪感が混ざった目で、山田は人差し指をぴしりと向けてきた。
「言っておくが、これは投資だ。先行投資を惜しむとろくなことにならないからな……わかったら、明日は全力でのぞめよ」
ナオコはぽかんとしていた。ここにきて、山田の数多ある欠点のうちで一番困ったものを発見した。会話のテンポが速すぎて相手が置いてけぼりになったことに、彼はまったく気づかないのだ。
「あの、山田さん」
ナオコが彼の真意をたずねようとしたそのとき、車のエンジン音が聞こえた。門に目をむけると、建物をぐるりと囲む青々とした生垣のかげから、白い優美な車体が現れる。日差しを反射して、フロントガラスが輝く。マツダのコスモスポーツである。
車は勢いよくナオコたちの前で停車した。運転席から降りたのは、茶色いスーツに身をつつんだ青年だった。
「マルコさん、おつかれさまです」と、ナオコが頭をさげた。
「お疲れさま……珍しいね、こんなところで話しているなんて」
彼は山田とナオコを順番に見た。意味ありげにほほえみ、
「ひょっとして、仲直りしたの?」とたずねる。
「もともとナオコくんとは、吐き気がするほど仲良しだが?」と、山田が嫌味っぽく返す。
「それこそ、金魚の糞のように後をつけてくるほど」
「はは、仲良きことは美しきかな」
マルコは尾行をさしむけたことを指摘されたのにも関わらず、両手を広げて笑った。
彼のように平然としていられるはずもないナオコは、話題を変えようと「どこに行ってらしたんですか?」とたずねた。
「ああ、ちょっと……本社の人とね」と、少しだけ顔がこわばる。
「もしかしたら、近々出張になるかも。それについて、ちょっとした話しあい」
自分が首をつっこんでいい話ではなさそうだ、と察して、
「それはおつかれさまです」と話を切りあげようとする。
それを「ミスターHRAのお呼び出しだろう?」と、淡泊な声がさえぎる。山田は、口元に冷笑をうかべていた。
「いよいよだな。君も重々承知の事態だとは思うが」
「山田くん」と、マルコに厳しい声でいましめられても、意に介した様子すらない。
それどころか、
「どうせ俺も行くことになる。その場合も考えておけよ……なに色のスーツを着るか、くらいは」
と、言いはなった。
マルコの顔面が蒼白になる。