ＨＲＡ
ナオコは、食堂でケビンと別れた。
ビルは１４階建てで、彼女がいた食堂は７階にあった。この階には、休憩所も完備されており、それ以下の２、３、４階は保全部が、５、６階は常駐警備部が使用している。それより上には、研究室や人事部、会議室、最上階にＣＥＯの執務室がある。
エレベーターに乗りこむ。窓はなく、何枚か掲示が貼ってある。今月の食堂メニュー、保全部からのお知らせ。
彼女がむかう先は、１０階にかまえられた特殊警備部のオフィスだった。
静かにエレベーターが止まる。廊下には、大小様々な液晶がかかっていた。
『２０１８年６月１３日 鏡面内エネルギー観測値』
と、電光がひかる下に、波線が複雑に絡まりあっている。緑色の波線が『芋虫』、赤い波線が『虚像』白い線が『焦点』の値だ。
ナオコは、入社して以降、このグラフを理解したことがなかった。そのため、歩きながら、その横の液晶に目を止めた。
『６月 虚像撃退数順位』の掲示の下に、〈芋虫〉たちの名前がずらりと並ぶ。
これは、会社で作っているものではない。保全部の一部が、面白がって表示しているのだ。
ナオコは、顔をしかめた。
『山田志保 ３６体』
二位は、２３体である。不動の一位だった。
ナオコは、オフィスにつづく、ガラス戸を開けた。
窓のない、こじんまりとした部屋だった。シーリングライトが、無機質な光を放っている。スチール材のデスクが３０個ほどむかいあって並び、それぞれ、パソコンが置かれている。どの机にも、資料やファイルはあまり置かれていない。私物が目立つため、雑然としてみえる。
「中村、おつかれさん」と、数人の仲間が、片手をあげた。
「おつかれさまです」
奥に腰かけている女性をみつけて、
「由紀恵さん、おつかれさまです」と、声をかけた。
「あら、ナオコちゃん。おつかれさま」
顔をあげた女性は、匂いたつような美人だった。長い黒髪が、白いシャツに映えている。
「今朝は、久しぶりに直行だったのでしょう？ ふつうの時間に電車に乗ると、ラッシュに巻きこまれて嫌よね」
「まあ、わたしの場合一駅ですから、文句は言えないですけれど、やっぱり大変ですよね。毎朝の人を尊敬しますよ」
「ねえ、ほんとう。あ、こんど、ケビンと乗ってごらんなさいよ。まわりが怖がってね、楽に乗れるわよ」
由紀恵は、くすくすと笑った。彼女は、山田についでベテランの〈芋虫〉だ。
満員電車でほかの乗客に距離をとられ、憮然とするケビンと、そばで笑いをこらえる由紀恵を想像して、ナオコはおかしくなった。
「ナオコちゃん、待機中なら、これ手伝ってくれない？」
由紀恵が、膝にのせていたノートパソコンの画面を見せてきた。
「もちろんかまいませんけれど、なんですか？ これ」
画面をのぞきこむ。『ＨＲＡの歴史』と、サイケデリックな文字がおどっている。
「保全部作成の、新人研修用ビデオ、ベータ版。特殊警備部でも観て、感想をちょうだいって。今度から、ビデオで研修するらしいわ」
「ああ、人手不足だから……」
「そういうこと。まあ、歴史なんて知っていても、どうしようもないですけれど」
由紀恵は皮肉っぽく笑い、再生ボタンを押した。
「たしかに、わたし、こういうの教えてもらった記憶ないです」
「歴史だなんだって言いだしの、最近だもの。本社が年をとって、創設時のメンバーが入れ替わるようになったから、今になってこんなものに力を入れているんでしょう」
パソコンの画面に、街の様子が映った。色はついているが、明度に違和感を感じる。だいぶ古い映像のようだった。
女性の声が、ながれはじめる。
『１９８４年、ロサンゼルスオリンピック。華やかな歴史の一幕をかざる舞台において、人類にとって革命的な事件が起こりました。
のちの時代に〈虚像〉とよばれる者たちの、最初で、唯一無二の１人である少女が、ウェストハリウッドの街中に、突如、あらわれたのです』
ナオコにも、そこがアメリカのどこかだと分かった。広い道の沿道に、大勢の人々が立っている。手に応援の旗が握られていた。彼らは、いちように驚いていて、恐怖で身をこわばらせる人もいた。
彼らの視線のさきには、かわいらしい少女がいた。彼女は、道のまんなかに立っていた。金髪をたなびかせ、青いすんだ瞳をまたたかせている。
異様なのは、その体の縦半分だけが、そこに存在している、ということだった。少女の頭、首、胸、腹、半分になった体の縁が波打ち、街道のアメリカ国旗を水面のようにゆがめる。
『彼女は、アリスと名乗りました。
そして、自らを別世界から来た人間であると証言し、このままだと、別世界に侵食され、現実世界が滅びゆく運命にあると、われわれに警告しました』
「え、子供が警告しにきたんですか？ 知らなかった……」
「そういうことになってるみたいね。映像を信じると」と、由紀恵が笑った。
画面が切りかわり、先ほどよりも新しい映像がうつった。
中年の男性が、薄暗いホールで登壇している。着ている白衣の胸元には、金色の鷲が燦然と輝いている。登壇台を囲んで着席している、いかにも偉そうな人々は、固唾をのんでいた。
『彼女の声を受け容れたのは、当時、アメリカ航空宇宙局にて活動銀河核の研究を行っていた、アルフレッド・アボット氏でした』
男性は厳しい目で、群衆を見渡した。
「鏡の国です」と、重々しく告げる。
「ルイス・キャロルの傑作『鏡の国のアリス』のように、あの少女は、世界をまたいでこちら側にやってきました……相対的に同質であり、本質的には異なる、異世界であるこの国へ」
ぎらりと、瞳が光った。
「……少女の提案を、受け入れることに決定しました。われわれは、これから神をも恐れぬ所業を行うでしょう。鏡と鏡の隙間に骨をうずめ、この世界の寿命を延ばすことに、尽力するのです」
ざわつく声がしたが、すぐに止んだ。
絶望的な沈黙に耐えるように、男性は目をふせた。
「ここに、相対的別軸対策本部の設置を宣言いたします」
『アボット氏の超高エネルギーにたいする知見と、少女の存在する世界の未知なるエネルギーの共存によって、２つの世界のわずかな隙間に緩衝材を作りあげることに成功しました。
これが、ＨＲＡの管轄する〈鏡面〉です。
いまのわれわれがあるのも、アボット氏と勇気ある少女の決断によるものです。
新入社員の皆様がたにおかれましては、彼らの志を忘れずに、日々業務に邁進していいただきたく……』
由紀恵が、画面から目を離して、苦笑した。
「どうだった？」
「えーと」
ナオコは、視線を泳がせた。
「興味深かったです」
「ほんとう？ 目が泳いでるわ」
「いや、ほんとですよ……ただ、うーん、知らなくても仕事はできるかな、と」
「あら」
「あ、もちろん歴史を知ることが大切だとは思っていますよ。でも、保全部の人なら〈虚像〉の特質なんかを知るほうが、身になるのかなって」
ＶＴＲには〈虚像〉がいったい何者なのか、との説明がなかった。
「〈虚像〉は、生まれ変わろうとする〈魂〉みたいなものだってこととか、言ったほうが分かりやすいんじゃないですかね」
〈虚像〉が〈鏡の国〉からくる目的は、それが理由だ。彼らは、現実世界で生まれ変わろうとする精神エネルギーの塊なのである。それは時として〈魂〉とも呼ぶが、ＨＲＡにおいては、精神エネルギーと呼称している。
「同意見よ。まず、そこから教えてあげるほうがいいわね。言っておくわ」
「面白い部分もありましたけどね。えっと、だれでしたっけ、あのよく見かける人……」
登壇していた男性に、見覚えがあった。本社から届く社報に、ちょくちょく出る顔だ。映像では、かなり若かったが、同人物だろう。
「アルフレッド・アボット氏ね。たしかに、彼の言い回しはなかなか素敵だったわ」
「鏡と鏡の間に骨をうずめ、ですか？」
「実際にうずまっているのは、わたしたちだけどね」と、冗談めかす。
「あの人、科学者としても、かなり優秀な人なのよ。たしか、ボスのお知りあいじゃなかったかしら」
「マルコさんの？」
「ええ、あの人、研究畑の人間でしょう？ アボット氏の研究所に所属していたって、どこかで聞いた気がするけど」
マルコ・ジェンキンスは、ＨＲＡ日本支社のトップである。彼こそが〈芋虫〉が使用する武器、精神分離機を開発したのだ。
彼が、優秀な研究者であることは、この会社のだれもが知っている。ただ、普段はそうは見えないと、ナオコはひっそり思う。彼は良い意味でフランクな青年だ。天才的な頭脳を持つ研究者にも、冷徹な経営者にもみえない。
「ボスの才能には、ほれぼれするわね。精神分離機を開発した成果がみとめられて、２１歳の若さで、日本支社に大抜擢。ほーんと、みんなが心酔するのも分かるわ」
由紀恵は、おおげさにほめた。
「かっこいいですしねえ」と、ナオコもうなずく。
「少しは人間くさい欠点がほしいわね。ナオコちゃんも、そう思わない？」
「うーん、そうですね。まぶしくて近寄りがたいな、とは思います」
由紀恵は、ボスであるマルコ・ジェンキンスを良く思っていない。それは、彼女が精神分離機導入前から働いていた社員であるためだ。日本支社に来る以前は、北京支社において、身一つで〈虚像〉と戦っていた。
〈芋虫〉は、戦闘のさい、武器を持ちこむことができない。というのも、〈鏡面〉の特性に原因がある。人間の肉体に宿る生物的なエネルギーよりも、精神に宿るエネルギーのほうが優位なのだ。
そのため〈芋虫〉は、精神エネルギーを武器に変える精神分離機に頼って、仕事をする。
「じつは、マルコさんに呼び出されていて」
「あら、また？ 部署の聞き取りかしら。仕事熱心ですこと」
由紀恵はおどろいたが、
「きっと、年が近いから話しやすいのね」と、優しい笑みをうかべた。
マルコは、ナオコより三つ年上だ。
「年が近いから、よけいに眩しいですよ」と、苦笑する。
