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鏡の国のバカ  作者: 阿部ひづめ
眠れない男の夢
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社会人は褒められたものではない

「なんだか、変ですね」


 気まずさが一周まわって、ナオコはつい笑ってしまった。それを見た飯田も「ええ、ほんとに」と頬をゆるめる。

 お互いに墓穴を掘りあっている現状に、最近とんと忘れかけていた気持ちが湧きあがる。間の合わない感じや、ごく普通の毒にも薬にもならない会話は、ナオコにとって貴重で優しいものだった。


「中村さんの職場は、このあたりなんですよね?」


「ええ、そうです。恵比寿方面にちょっと行ったあたりで」


 飯田は「そうなんですか」とうなずき、すこしだけ緊張した面持ちになった。


「よかったら、今度一緒にお昼でもいかがですか?」


 ナオコは、びっくりして反応が遅れてしまった。まさか誘ってくれるとは思っていなかったのだ。


 そんな反応を良くない方向にとらえたのか、飯田は焦った面持ちで、

「その、中村さんみたいな仕事をされている方って周囲にいないので。よかったらお話を聞いてみたいなって思ったんです」と、弁解した。


「あ、なるほど」と、しきりにうなずく。


「それにこの間のお詫びも、ちゃんとできていませんし」


 彼は再び申しわけなさそうな顔をした。クリーニング代をこんなにたっぷりと渡しておいて、お詫びはまだであると主張するのは、少し大げさではないだろうか、とナオコは思った。

 しかし飯田は良い人で、断る理由もない。人脈を広げる良い機会でもある。


「わたしも飯田さんのお話聞いてみたいです。普通の社会人の生活、知りたいので」


 飯田は、ナオコの口ぶりに苦笑した。


「普通の話でいいんですか?」


「あ、ごめんなさい。そういう意味じゃなくて」


 まるで彼がつまらない生活を送っているかのような言い方である。ナオコは再びの失言に焦って、フォローの言葉を探した。

 しかし「ぼくたち、さっきから謝りすぎですよね」と、彼がほほえみながら指摘をしたので、口を閉じる。そして謝罪のかわりに、

「それじゃあ、ありがとうございます」と、伝える。


「今度、ぜひお話聞かせてください……バンドの話もよかったら聞きたいです」


「もちろんです」


 なんとなく解散する流れになった。ナオコと飯田は、ゆっくりと歩きはじめた。話を聞くところによると、飯田は製薬会社で営業をしており、渋谷エリアのドラッグストアが管轄らしい。住まいは埼玉県で、アパートで一人暮らしをしているそうだ。

 本当に普通の人だなあ、とナオコは感心した。その普通さこそが目新しい。


 山手線ハチ公改札のまえで立ちどまり、なんとなく向きあう。彼は照れ笑いをうかべながら、

「それでは、今日はありがとうございました」と頭をさげた。


「いえ、こちらこそ。また連絡ください」と、つられて頭をさげる。


「はい、もちろん……多分今週中には、ご連絡さしあげるかと」


 飯田は視線をおよがせ、

「えっと、お体に気をつけて」と言った。


 ナオコは首をかしげた。猛暑だから、熱中症にでも気をつけろと言っているのだろうか。すると彼は「足、お大事に」と付け足した。

 ようやく意図を察知して「どうもです」と、うつむきかげんに手をふる。飯田は人好きのする笑顔をうかべながら去っていった。


 彼の後ろ姿を見送って、ためいきをつく。緊張と疲労感と、ほんの少しの高揚感が残っていた。

 帰路につく。由紀恵の助言通り、これはチャンスなのかもしれない。むこうから食事に誘ってくれたのだから、脈なしではないだろう。友達からでも、なんらかの機会にはなるかもしれない。

 そんなことを考えながら家路につく。横断歩道を待っているさいに、ひらめきがおりてきた。


 ――――彼は、まるでお兄ちゃんみたいだった。


 その発想に、どうしようもない胸さわぎを覚えた。そうだ、飯田はお兄ちゃんのようだった。つまり、タイプだということだ。タイプの男性に会って、それを自覚したにもかかわらず、奇妙なほどに心は平静である。


 ナオコは、うんうんうなりながら歩いた。しばらくして、内心で手を叩く。ついに大人の恋愛に目覚めたのかもしれない、と考えついたのだ。だから好みの男性と会っても、動揺していないのだ。


「なるほど」と、夜道にむかってつぶやく。ついに平静さが身についたのだ、と思ってうれしかった。


 ナオコは、今日の出来事をはやく由紀恵に報告したかった。そして、山田にも一応なにか伝えるべきだろう、と考えた。無理やりだが、良い服を貸してもらった。礼の一つも言わなければならない。

 柔らかいサマーニットに触れると、少しずつ心拍が大きくなった。背中にすべりおちていく感触を思いだして身震いする。夜風が冷たいのかもしれない。真夏といえども、体調管理には気をつけなくては。


 のんびりと帰路を歩くナオコの影が、住宅街の道に伸びている。それは彼女の心持ちとおなじく、のんきに長い。

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