社会人は褒められた
ナオコが駅前につく頃には、19時をすこし過ぎていた。彼女はレリーフの前にもどり、待ち人を探した。一度会っただけの飯田を覚えているか心配だったが「中村さん」と、彼が先に声をかけてくれたので、ホッと胸をなでおろした。
「すみません、遅れてしまって」
「いえ、こちらこそ申しわけないです。神奈川の方に営業に行っていたんですが、長引いてしまって」
飯田は居酒屋で会ったときの、さらに上をいく生真面目そうな表情をしていた。
「先日は大変失礼いたしました」と口をひらくと、ビジネスバッグから白い封筒を出す。
「まず、こちら、クリーニング代です」
丁寧に両手でさしだされた封筒は、千円札が数枚にしてはずいぶん薄かった。軽く袋を傾けてすかしてみて、ナオコはぎょっとした。万札が入っている。
「こんなにいりませんよ!」
彼は真剣に、
「お時間とらせてしまった手間賃です」と返す。
「いえ、でも……」
うろたえながら、封筒に視線を落とす。突っ返すのも失礼な気がして「ありがとうございます」とおとなしくカバンにしまった。
「いえ、こちらこそ本当に申しわけありませんでした」
再び頭をさげた飯田にならって、なんとなく礼をする。ナオコはひそかに感動していた。世の中には、こんなにまともな社会人もいるのだ。先ほどまで、カオスの爆心地のような山田と話していたから、よけいにそう思うのかもしれない。
「なんだか、ひさしぶりです」
と、感嘆のセリフが口をついて出たのは、そんな気持ちからだった。
「え?」飯田は目をぱちくりさせた。
「あ、いえ。ちゃんとした社会人の方と話すの久しぶりだったので……その、しっかりしていらっしゃるなあって思って」
ナオコは恥ずかしくなった。しっかりしていらっしゃる、なんて自分が言うべきセリフではない。偉そうに聞こえなかっただろうかと、顔色をうかがう。彼は優しい笑顔をうかべていた。
「いやいや、滅相もないお言葉です。中村さんは学生さんなんですよね? それならぼくみたいな社会人とは、なかなか話す機会ないですよね……あ、でも就活中だと、会ったりするのかな」
二人のあいだに、気まずい沈黙がおちた。
ナオコは一瞬話を合わせてしまおうかと思ったが、さすがに気がひけて、
「いちおう、わたしも社会人で」と、答えた。
「あ、え? それは」飯田の顔から血の気がひいた。
「失礼しました。てっきり、その、インターン生かなにかだと」
「いえ、いいんです。やっぱりそう思いますよね……」
内心で肩を落としながら、フォローを入れる。居酒屋で遭遇したときはスーツ姿だったので、インターンに参加している就活生に見えたのだろう。
「たぶんですけど、飯田さんとそう年は変わらないと思いますよ」
「ぼくは、いま二十六ですけれども」と、彼はぼそぼそ話した。
「あ、じゃあ同学年ですね」
飯田は「ああ」と驚いたように息をついた。
「すみません、ぼく、本当にこういうのダメで……いや、若く見えるから。その、今日の服装は大人っぽいというか、アレですけど」
飯田は、なんとか言葉をつくそうとしていたが、やがて墓穴をほるだけであると気づいて「すみません」としょんぼりした。
「大丈夫です、本当に。あかぬけないというか、幼いって言われるので。慣れてるんです」
気にしないでほしい、と片手をふって笑いかける。すると飯田は、ダメ押しのように「申しわけないです」とつぶやいた。
話題がつきた。再び沈黙がおりる。
ナオコは笑顔の裏側で、脳みそを必死に回転させた。食事にでも誘ってみようかと考えるが、気乗りしなかった。飯田は良い人だが、仕事以外に目をむける余裕が今はない。
うん、これは解散だな。ナオコは「それでは」と、別れを切りだそうとした。
「ふだんは、ぼくみたいなサラリーマンとは、あまり話されないんですか……?」
のどもとまで出かけた言葉を飲みこんで「えっと、そうですね」と言葉をにごす。
「なんでしょう。一応会社勤めなんですけれど、ちょっと変わった職場なので」
「ああ、そうなんですね。どういったお仕事をされているんですか?」
ナオコは困ってしまった。飯田は頑張って会話を続けようとしているが、おそらく義理だろう。向こうに気を遣わせるのも悪いので、早く切りあげてしまいたい。
「警備会社に勤めています。いまは現場の警備なんかをしていますね」
「え、それって実働部隊ですか?」と、彼は目を丸くした。
「あれですよね? ヘルメットつけて、現場に急行するほうの……」
「前までは、そっちにいたんですけれど。このあいだケガしちゃって、今はただの警備です」
「ケガって、もしかして」
彼の視線をたどって、ナオコは「あ、そうです」と左足を指さした。もう傷はふさがっているが、見た目が痛々しいため肌色のテープでおおっている。スカートでほぼ隠れているが、三センチほどテープの端がのぞく。
「たいしたことなかったんですけれど、上司からしばらく出ちゃダメって言われて」
「……中村さん、面白い人なんですねえ」
まじまじと見ながら、彼はつぶやいた。ナオコは意外な気持ちになった。
「女性なのにって、ああ。すみません。こういう言い方、よくないのかもしれませんけど……すごいです。豪快なんですねえ」
「豪快、ですか」自分とは間反対の言葉だな、と思う。
「そんなことはないと思いますけれど……」
「いや、かっこいいですよ。実はぼく、昔そういう仕事に憧れたことがあって。まあ運動神経が悪くてダメだったんですけれど。いいなって思います」
眼鏡の奥の目が、じっと見つめていた。本心から発言しているように思える。ナオコは彼にたいして、もう一度感動した。まともな社会人というのは、こうやって人を立ててくれるものなのだ。
「それを言うなら、飯田さんも。バンドやってらっしゃるんですよね?」
ここは自分も彼を立ててやりたいと感じて、問いかける。
「あー」彼は気まずそうに、頬を指でかいた。
「じつは、もうやっていないんです。社会人を機にやめてしまって」
ナオコは、心のなかで自分を殴った。そうだった。居酒屋で怒っていた女性は「元」バンドメンバーだと言っていたじゃないか。
「えーと、でも楽器弾けるんですもんね? すごいです。わたし楽器できないので」
凍りかけた空気をどうにかしようと、明るい声をだす。まぎれもない本心だったのだが、予想と反して、彼は恥ずかしそうに肩をすぼめた。
「それが弾けなくて。こんな見てくれでアレなんですけど、ぼく一応ボーカルだったんです」
「ああ……」
ナオコは、いますぐスクランブル交差点を走り抜けて、都会の闇に消えさりたい気持ちだった。バンドをやっているからといって、楽器を弾いているわけではない。よく考えれば分かりそうなことだ。
「その、すみません……」
「いや、大丈夫です。よく言われるので。おまえ、こんなに地味なのに、よくバンドのボーカルなんて張ってられたなって」
飯田は自虐っぽく笑った。どちらともなく、ため息をつく。また沈黙がおりる。