鍵鳴
大学中に響きわたりそうな、大音響が落ちてきた。巨大な鐘を空から落としたかのような音を聞いて、ナオコは悪夢に放りこまれたような気分だった。
音は巨大な唇から奏でられていた。厚ぼったい、白い口紅をぬった唇だ。それは大きく口をひらき、教会を背に宙にうかんでいた。歯が、ピアノの鍵盤のように黒と白に塗りわけられている。
ケビンが口元をひきつらせて「なんだったか」と、つぶやいた。
「『ジョーズ』みたいな、サメ映画。このあいだまでやってたやつ。ステイサムの」
「……『MEG ザ・モンスター』」
ナオコはぼそっと返した。
「あれはメガロドンだよ」
二人はせまりくる巨大な唇に、くるりと背を向けると、脱兎のごとく走りだした。
いつ応援がくるかは分からないが、異常種にたいして下手に戦うことはできないと判断したのだ。
広場を駆け抜けようとした矢先、背中から優しい和音がひびいた。
ナオコの足が止まった。
「え?」
動かない。彼女は焦りながら、足の動かし方を思いだそうとした。
「なにしてんだよ!」と、ケビンが吠え、彼女の腕をつかんだ。
しかし、もう一度和音がひびくと、彼はその手を離し、騎兵銃をかまえた……ナオコへと向かって。
ナオコとケビンは銃口越しに、こわばった視線を交わした。彼の人差し指は、なにかしらの命令に必死で抵抗して、トリガーの横で震えている。
彼女はゴルフクラブで、思いきり自らの右ふくらはぎを殴りつけた。衝撃によって、ひざから崩れおちる。と、同時に銃声が鳴り、頭上を弾丸がすりぬけていった。
足はもう動くようになっていたが、力ずくで殴ったせいで、肉離れをおこしたような痛みが走った。
「な、なかむらっ」と、ケビンはほぼ喘いでいるような声をあげた。
「今のは」
ふりかえると、〈虚像〉は大きく歯をみせていた。
ナオコはとっさに飛びかかり、ゴルフクラブを歯にむけて振り下ろした。たしかな手ごたえとともに、何本か割れた。
〈虚像〉は悲しげな声をあげた。ぼろぼろと崩れおちた歯をむきだしにして、再び音をひびかせる。しかし、それは完璧な和音ではなく、無残に外れた不協和音だった。
ナオコの身体が、勝手に動きだした。
足の痛みにも関わらず、猛スピードでケビンへと肉薄する。
「ケビン!」
悲鳴をあげながら、ゴルフクラブを振りおろす。彼は間一髪でよけ、正確な狙いをもって〈虚像〉を打ち抜いた。またもや歯が何本か欠ける。
「あの音っ、聞かないで!」
「わかってんよ!」
歯が鍵盤の代わりとなって、自分たちを操っているようだ、と二人は気づいていた。
「待て」
ケビンが青ざめた。
「耳ってどうやって塞ぐんだ?」
「知らないよ、そんなの!」
彼はナオコにむかって、すちゃりと銃をかまえると「よけろっ」と叫んだ。
彼女は地面に転がったが、左肩に火のついたような痛みを感じた。
肩をかばいながら、彼女は頭を必死で回転させた。応援がくるのは、あとどれくらいだろうか。それまでに〈虚像〉の攻撃を耐えきることは可能なのか。
教会は、静かにそびえたっていた。この場所には、大学生のときに一回だけ訪れた。交際していた先輩の知り合いが聖歌を歌うというので、それを観にきたのだ。
ナオコの脳内に、光が斜めに走るようなひらめきが訪れた。
彼女は教会に向かって走りだした。ケビンは、ぎょっとした顔をしていたが、あわてて後を追ってきた。 重い観音開きの扉を開き、ぶつかるように続くホールへの扉に手をかけた。中に転がりこんで、長椅子のあいだを走っていく。
階段を駆けあがり、舞台の端にたどりついた。
荘厳な無言をまとっていたのは、大きなパイプオルガンだ。
背中に吐息を感じて、ナオコはふりかえった。ぼろぼろに砕け散った鍵盤と黒鍵が、彼女を食いつくそうと口を開いていた。
その奥は、はてしない暗闇だった。
「中村っ!」と、悲鳴がきこえた。
美しい和音が教会いっぱいに広がった。
ナオコが押したドとミとソの簡素な音は、それゆえの単調さと響きをもって〈虚像〉を圧倒したようだった。
銃声が、音をかき消した。さらに続けて、武骨な響きが空間を支配する。
ナオコの顔に、灰色の血がふりそそぐ。
眼前にある暗闇は不思議と奥行きをなくし、白い灰のかたまりへと変化していった。
〈虚像〉の死体がふってきて、彼女は悲鳴をあげるひまもなく押しつぶされた。
ケビンが駆け寄ってきて、ナオコを引きずり出した。
「おい、大丈夫か!」
彼が肩をゆすると、ぼうぜんとしていたナオコが「初めてオルガン弾いた」と、つぶやいた。
「音、大きいんだね」
彼女のほおは、興奮で赤らんでいた。
「……感想かよ」
ケビンはため息まじりに言った。
それから、ずるずるとその場にしゃがみこんだ。顔を両手でおおい、うめく。
「よかった、無事で……」
彼は泣きだしそうになっていた。
ナオコは、その肩をぽんぽんと叩いた。もう体力は少しも残っていなかった。
ただ、あの暗闇から吹く風を、まだ顔に感じているような気がしていた。