ステュクスのしずく
神話の世界をご存知の方も、ご存知ない方も、一匹の魚の眼となってお楽しみください。
わたくしが案内つかまつります……
ワイン色の海、漁師が網を巻きあげる
光る眼をした魚、次第におとなしくなり、くすんでいく、かすんでいく
漁師はまだ知らない、泳いだことのない感覚
大地に埋もれるくすみから離れ、さだめられた場所へ流れていく……
西のかなた、
あかく染まったワインの水はその色彩から解かれ、
一本のすじとなり、暗闇へと消えていく
かすんだ世界のほんの手前、
星空をささえる巨大なはしらが、三本見える
かすんだ世界
そこは、おぞましく、不安だ
不協和音のリズムがくり返される
黒光りする繻子の幕が、延々とつづく
浸透するように、その内側へと……
色の抜けた水は、つづいている
きれいに洗われて、うろこひとつ残らず、
……裸になった……
すべての感覚が研ぎ澄まされ、
それは一点に集中するようになる
ひとつの眼でものを見、聴き、感じることができる
不思議は、なにひとつない
……地上、大洋、天空……
ここには、そのすべての本質が、
目に見える形でそなわっている
地底の外観が、視界に現れる
星空をささえるはしらの根、二本の脚は、闇の底に根づいている
いくえにも重なる薄布の向こう、二柱の女神「夜と昼」のすみかが見える
そのどちらかが、今も、この地の底で眠りについている
そのどちらかが、今も、はるかな地上で天空をおおっている
さらに奥、おぞましい暗闇のうずまくかなた
だれもが争いえない、さだめの館が見える
番犬は、かたく動かず、
ただその場で、流れ入るものに対し、尾を振るのみ
地底の外観は、一瞬にして消え、
ふたたび暗闇が眼をおおう
かすかな不協和音は、次第に大きな音波へと変わり、
無色の水は、黒い岩へと突きささる
かたい岩肌をくぐり抜け、
磨かれた水は一滴ずつ、
……つ……
……つ……
……つ……
……
……濾しとられた、光のしずく……
わたしたちは、さいごにこの神秘を見るために、
長い道のりを歩んできたのかもしれない
……ただひとり、静寂のとき……
わかれを告げて、館へ入る
番犬は二度と、外の世界を見せてくれない
石榴のつぶを飲みこんで、
魚はゆっくり、その眼をとじた。
参考:ヘシオドス『神統記』 廣川洋一訳 岩波文庫