0.2 日常の崩壊
「なるほどな……さっぱり分からん!」
試験管の中に容れられた黒い霧を調べていたソンノが、お手上げとばかりに両手をあげる。それを見て、魔界からやって来ていた大魔王ベルゼブブは意地悪な笑みを浮かべた。
「なーんだ、ほんっと大したことないわねぇ」
「フン、お子様は黙ってろ。だからお前は何年経っても絶壁……いや、ヘタしたら陥没してるか?」
「な、何ですって!?貴女みたいなロリババアに言われたくないわよ!ロ リ バ バ アなんかにねっ!」
「ははっ!お前の頭を床に突き刺して、学園の新名所でも作るとしよう」
「ふふっ!その手入れのされていない無駄な髪の毛、全部毟りとってあげるわ」
「はいはいストップ。 ユウちゃん達も居るのに、子供みたいな喧嘩しないの」
いつも通り喧嘩を始めた2人を、同じくベルゼブブと共に魔界から来た魔王ディーネが止める。優しく包容力のある彼女は、ユウの好みどストライクで憧れの存在だ。
実力的にはベルゼブブとソンノの方がディーネよりも上なのだが、2人共彼女には頭が上がらない。万が一怒らせてしまった場合、最も恐ろしいのは多分ディーネなのだから。
「というかね、最初からマナに任せておけば良かったのよ。そういうのはこの子の方が得意なんだから」
「あはは、そんな事は……」
話を聞いて、帰宅前に学園長室に顔を出したマナ。ベルゼブブはソンノから受け取った試験管をマナに手渡し、中に入っている霧が魔物である事を伝える。
「どう?何か分かりそう?」
「……正直、この霧が魔物だとは思えないですね。どうやら魔力を持っていないようですし、それだと器官や細胞すらも存在しない可能性が……」
「魔力を持っていないだと?そんな生物が存在するなど、聞いたことが無いぞ」
「詳しく調べていないので確定した訳ではないですけど、人の精神に干渉する何らかの集合体なのかもしれません」
マナの話を聞き、全員がうーんと唸る。それ程までに謎の多い存在であり、魔物と呼んでいいのかすらも分からない。だが、少し見ただけでこれだけ生態を解明できる天才少女がここに居る。
「引き続き、そいつはマナに調べてもらうとしよう。学園の施設を存分に使い、次の被害者が出る前に正体を突き止めてほしい」
「分かりました」
「ベルゼブブ、ディーネはテミスに手を貸してやれ。お前達なら王国各地への移動も一瞬だろうからな」
「はぁ、報酬は豪華に頼むわ。タローと1晩過ごす権利とか……」
「駄目だベルゼブブ、それは私が許可しない」
「もう、テミスったら。魔界じゃ一夫多妻なんて当たり前よ?」
「生憎、私は人間だからな。嫉妬もするし、夫を独占したいと思うのは当たり前だと思うけど」
「彼も愛されてるわよね」
タロー……英雄タロー・シルヴァ。ユウの父でありテミスの夫、かつてこの世界を最大の危機から救った地上最強の英雄。ここ最近は王国各地で狂化現象を調査しているのでオーデムからは離れているが、テミスやマナ達に何かあったと聞けば、仕事中であろうとマッハで舞い戻ってくるだろう。冗談ではなく、本当に。
「ユウとクレハは一応警戒を頼む。何かあれば連絡してくれ」
「「了解です」」
「さーて、本日は解散!久々に忙しくなりそうだぞ〜!」
昔の、仲間達と異変解決の為に力を尽くした日々を思い出したのか、珍しくソンノは上機嫌だ。そんな彼女を見てベルゼブブはやれやれと首を振り、テミスとディーネは苦笑していた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
翌日。学園は休みで、生徒達はそれぞれ休日を満喫していた。ユウも朝早くからオーデム近郊にある森の中、幼い頃から修行場として何度も訪れている場所で、いつもと変わらず想像上の敵に刀を振るう。
「ふう、こんなものか……」
これが彼の日課だった。休日は予定が無ければ昼と夜もこうして修行をするが、今日はこの後マナ、クレハと共に買い物へ向かう予定があるので、納刀してタオルで汗を拭いてから、ユウはオーデムへと歩き出す。
「君は、どうして毎日そんな事をしているの?」
その直後だった。不意に背後から、聞き覚えの無い澄んだ声で話し掛けられたのは。
「誰だ!?」
「あ、その、怪しい者じゃないよ。この前この辺りに来たばかりで、暇潰しに森を散歩していたら君が刀を振っているのを見かけてね。それから、君が頑張っている姿を見るのが私の楽しみになったんだ」
(女の子?気配すら感じなかったが……)
いつの間にか後方に立っていた黒髪の少女。彼女は優しい笑みを浮かべると、ユウに向かってぺこりと頭を下げた。
「初めまして。私はロヴィーナ、君は?」
「俺はユウ、ユウ・シルヴァだ」
「ユウ君だね。ふふっ、やっと名前を聞けたよ。いつもどう声をかけるか悩んでいたんだけど、恥ずかしくて」
ロヴィーナと名乗った少女は、赤く染まった頬を指で掻く。最初は警戒していたユウだったが、彼女の仕草を見て徐々に気を緩めていく。
「この森は、一応魔物も出るから危険だぞ?そんな場所に、女の子1人で出入りするなんて……」
「大丈夫。こう見えて私、結構強いからね」
「へえ……武器は持っていないようだし、魔導士なのか?」
「持ってないわけじゃないけど、まあご想像にお任せするよ。もしかしたら武闘家かもしれないし、君と同じく剣士なのかもしれないね」
そう言っていたずらっぽい笑みを浮かべたロヴィーナ。気が付けば、彼女の瞳に映るユウも笑っていた。
「はは、なんだそれ。とりあえず俺はオーデムに戻るけど、君はどうする?良ければ送っていくけど」
「ううん、もうちょっとだけ此処に居ようと思う。この森は静かだから落ち着くんだ」
「確かにな。それじゃあ、また」
「うん、またね」
軽く手を振り、ユウが森の外に向かって歩いて行く。その後ろ姿を見つめながら、ロヴィーナは不思議な感覚に陥っていた。
(変だなぁ。どうして私みたいな存在が、彼みたいなただの人間に興味を持ったのだろう)
木にもたれかかり、彼の集中している時の表情を思い浮かべる。刀を振るう姿はまるで英雄のようで、レベルや魔闘力は低いが動きは洗練されていて美しい。
(〝負の塊〟である私が……ね)
また、明日も会えるだろうか。そう思うと、不思議とロヴィーナの胸は高鳴った。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
それから、ロヴィーナはユウが森を訪れる度に顔を出すようになった。最初の頃に比べて今では互いに随分と気を許しており、ロヴィーナもユウの修行に付き合うようになっていた。
「くっ、やるなロヴィーナ……!」
「ユウ君の方こそ……!」
高速で繰り出される突き全てを踊るように躱し、ロヴィーナはユウへと接近。猛スピードで放たれた蹴りをユウの眼前で止め、ロヴィーナはにっこり笑う。
「へへっ、私の勝ち……かな?」
「ふう、君は強いな」
木刀を肩に起き、ユウは手の甲で汗を拭う。そんな彼の姿に、いつの間にかロヴィーナは見惚れていた。
「ロヴィーナ?」
「えっ、あ、何でもないよ」
名を呼ばれ、我に返ったロヴィーナが両手を振る。本当に、一体自分はどうしたというのだろうか。昨夜の雨で作られた水溜まりに映る自分の頬は、何故かほんのり赤い。
「そういえばロヴィーナ、今日は暇か?」
「ん?まあ、いつも暇だけどね」
「君と会って丁度2週間、今日は休みなんだ。折角だから、オーデムの案内でもしようかと思ってな」
「本当?いいの?」
直前までとは変わって目を輝かせるロヴィーナ。ぐいっと顔を近づけられ、今度はユウの顔が赤くなる。
「ち、近いんだが……」
「っ、ごめん」
「あー、それで、どうする?」
「君がいいのなら、お願いするよ。その前にお風呂入りたいけどね」
「確かに、お互い汗だくだな」
苦笑しながら差し出されたユウの手を、ロヴィーナは微笑みながら握った……丁度、そんなタイミングで。
「ユウ君、何してるの……?」
マナが、そんな2人を見て呆然と立っていた。
「ま、マナ姉!?いや、これはだな……!」
「誰?ユウ君の知り合い?」
「姉だよ、義理のだけど……」
少し様子がおかしい。いつもなら、また女の子相手にデレデレして!などと頬を膨らませて小言を言ってくるのだが、今日はその場から動かずただ立ち尽くしているのだ。
「マナ姉、どうした?」
「………………………………」
顔色も悪く、本気で心配しながらユウはマナに駆け寄る。そして彼女の肩を掴んだ直後、ユウの魔導フォンが震えた。
「学園長……?」
珍しい人物からの着信に驚きながらも、ユウは魔導フォンを起動した。次の瞬間、非常に大きな声が魔導フォンの中から炸裂する。
『おいユウ、マナは居るか!?』
「ッ!?い、いきなり何ですか学園長」
『マナは居るかって聞いてんだ!あいつ、何回連絡しても出ないんだよ!で、居るのか!?』
何をそんなに焦っているのだろうか。目の前でぼーっとしている姉を見ながら、ユウは自分と一緒に居るとソンノに伝えた。
『この前捕獲した霧の魔物が、試験管を破壊して逃げ出してるんだよ!マナの奴、その事知ってるのか!?』
「本当ですか!?マナ姉、今の聞こえてたか?」
「……え?」
ようやく、マナがユウの声に反応する。
「あれ……私、何して……」
「マナ姉、あの魔物が逃げ出したらしいんだ。学園長が、その事をマナ姉が知っているのかって」
「え、逃げ出した……?」
困惑しながら、マナは自分の額に手を当てる。まるで何も分かっていない子供のように……何故自分がこの場に立っているのかすら分かっていないかのように。
「そういえば今朝、学園に行ってたじゃないか。その時は逃げ出してなかったのか?」
「わ、分からない……思い出せない」
『おいユウ、どうしたんだ?』
「ゆ、ユウ君、分からないよ!私、今まで何して……!」
マナの揺れる瞳が、ユウの後方に立つロヴィーナを捉える。目が合ったロヴィーナは驚いたように目を見開いたが、マナの表情はユウからは見えない角度で鬼のように変貌する。
『まあいい、後で学園に来るように言っておいてくれ』
「わ、分かりました……ロヴィーナ、案内はまた今度でいいか?」
通話が終わり、魔導フォンを仕舞ったユウは振り返ってロヴィーナに声をかける。そんな彼に、ロヴィーナもお姉さんについていてあげてと返事した。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「何も覚えていない、か。くそっ、朝に一体何があったってんだ」
「す、すみません。私のせいで……」
「いや、お前に全部任せっきりだった私達も悪い。この件に関しては全員に責任がある」
何度も頭を下げるマナにそう言い、ソンノはどうしたものかと腕を組む。ベルゼブブとディーネがオーデム付近を念入りに調べてくれてはいるものの、霧の魔物はまだ見つかっていなかった。
「しかし、何者かがマナを襲撃した可能性……か。しかも神獣であるお前に精神干渉を仕掛け、記憶を一部消す程のやり手。目的は霧の魔物だったのか、それとも……」
「証拠とかは残ってないんですか?映像とか、魔力痕とか……」
「いや、一切無い。それこそ、マナが抵抗して魔法を使った痕跡すら無いんだ。チッ、何がどうなっているのかさっぱりだよ」
責任を感じているマナが涙目になっている事に気付き、ソンノは悪いと謝る。それから暫く話しを聞いた後、マナの面倒を見てやれとユウに伝え、ソンノは転移魔法で姿を消した。
「マナ姉、あまり気にするな。学園長の言う通り、任せっきりにしていた俺達にも責任があるんだから」
「う、うん、ごめんね……」
(それよりも……)
正直、霧の魔物が逃げ出してしまったのは、ユウにとって些細な出来事であった。より重要なのは、大切な姉の精神に干渉して記憶障害を引き起こさせた者が居るという事。
励ます為にマナの頭を撫でながら、ユウは正体不明の敵に激しい怒りを抱く。元々非常に仲の良い2人だが、現時点でユウにとって最も大切な人はマナとクレハである。他に誰も居ない場所で手を出すとは、いい度胸だ。
「っ……?マナ姉、どうした?」
そう思っていた時、目の前に立つマナを見てユウはゾッとした。俯き、前髪が垂れ下がっているのであまり見えないが、間違いなく笑みを浮かべている。ただ、普通の笑みではない。
「ユウ君……?」
顔を上げた時にはいつもの表情に戻っていたものの、ユウの頭からは直前に見た彼女の笑みが離れない。動揺が顔に出ていたのか、マナは困ったようにユウを見ていた。
「い、いや、何でもない」
「あの、今日はもう家に戻ろう?今後について考えないといけないし、それに……」
ユウの手を握り、マナは微笑む。
「あんな子なんかより、私の方がユウ君を大切に思ってるんだから」




