劇的じゃない劇的な一日
目覚まし時計が鳴り、強制的に夢の中から現実へと引き戻される。ジリジリと大きな音を立てて「早く起きろ」と急き立てる目覚まし時計を止めて、起きなくちゃと思いながら僕はまた目を閉じた。
その日、すっかり朝寝坊した僕はいつもよりも一本遅い電車に乗って会社に向かっていた。
子供のころから何をするにも早めの行動をすることが身についていた僕は、十分間に合う時間であるにも関わらず一本遅いというだけで、窓の外をスライドしていく見慣れた街並みがいつもよりもゆっくりな気がして落ち着かなかった。一本早かろうが遅かろうが電車の速度は変わらず、自宅から会社まで5駅分にかかる時間は同じだというのに、早く到着しないかと窓と腕時計を交互に見る。
4つ目の駅を出た後、次の駅に到着後すぐに降りられるようにドアの前へ移動しようと立ち上がると、横に座っていた女性が僕よりも一足早く立ち上がった。
目の前を黒のロングコートがふわりと横切る。左肩にかけたバッグに手を入れながら女性は僕と同じようにドアの前へと移動した。どうやら同じ駅で降りるらしいその女性は、急いでいるらしく、バッグからスマホを取り出した拍子にハンカチを落としたことに全く気付かなかった。
「あの」と声をかけると、女性は驚いたように少しだけ肩をすくめた。
「ハンカチ、落としましたよ」
ハンカチを拾い、差し出す。女性は「あ」と小さな声を上げてバッグの中を見た。
「すいません、ありがとうございます」
そう言って女性が恥ずかしそうに笑ったのと同時に電車はゆっくりと減速を始めた。
無事遅刻することなく会社に着くと、いつも通りに業務は始まり、忙しく仕事をこなしていくうちにお昼になる頃には朝のそんな出来事などすっかり忘れてしまっていた。
「ここいいかい?」
食堂で日替わり定食を食べていると係長に声をかけられた。もちろん断る理由はなく、承諾すると、係長は持参したお弁当をテーブルの上に置いた。
「係長って毎日お弁当持ってきますよね」
「ああ、ありがたいことに奥さんが毎日作ってくれるからね」
少し小さめのお弁当は、小食の係長にぴったりのサイズで小さいながらも中には手の込んだ料理がしっかりと入っていてとても美味しそうだった。
「愛妻弁当ですか。係長はご結婚されて何年になるんですか?」
「うちは今年で8年目だよ」
「8年間毎日お弁当ですか」
そう尋ねると係長は少しはにかんでおかずの中から卵焼きを箸でとり、口に入れた。
「いいですね。羨ましいです」
毎日あまり変わり映えもなく、たいして美味しいわけでもない日替わり定食を箸でつつく。
「彼女とか居ないの?」
「僕にとっては愛妻弁当なんて夢のまた夢です」
「そんな事ないよ。出会いなんていつどこであるかわからないんだから」
「係長は奥さんとどんな出会いだったんですか?」
不意に気になったので尋ねてみると、係長はハトが豆鉄砲を喰ったような顔をして途端に耳まで赤くなった。
「つまんない話だから絶対笑っちゃうよ?」と10歳以上も年の違う係長がその瞬間まるで同級生のような顔をした。
「大丈夫、絶対笑いませんから」
「なんてことない、ありふれた出会いなんだ。彼女が道端でハンカチを落としたのがきっかけだよ」
思いがけない言葉に思わずハッとする。朝の出来事が脳裏によみがえった。まさかそんなことがきっかけで結婚にまで至るものなのだろうか。
「信じられない?」
「失礼ですけど……」
「でもね」と係長は目を細めた。
「こんな事言うと恥ずかしいんだけど、運命の出会いって劇的なものなんかじゃないんだよ、きっと」
そう言って恥ずかしそうに笑う係長に思わず吹き出す。
「やっぱり笑っただろ?」と係長は頭を掻いた。
日が傾き、ビルがオレンジ色に染まった頃、外回りの日には必ず立ち寄る喫茶店でコーヒーを飲みながら僕は係長の話を思い出していた。
ハンカチを拾ったことが果たして係長が言ったように運命の出会いとなるんだろうかと、朝の出来事を思い返し、あの時にあの女性と連絡先を交換できたか? と自分に問いかけて自嘲する。そんな事できるわけがない。係長のケースは極めて特殊で、その運命はきっと僕には当てはまらない。
「いつも思うんだけどさ」
不意にマスターに声をかけられて目を向けると、マスターは感心したような目で僕を見ていた。
「時々そうやって器用にペンを回してるよね、よく落とさないなって感心してしまうよ」
そう言われて自分が無意識にボールペンを回していた事に気付いた。
「ああ、これですか? 昔から癖で考え事をしてるとやっちゃうんです」
「なるほど。でも、回すのは得意でも置き忘れて行ってはダメだよね?」
「え?」
「こないだもキミはそうやってペンを回していて、そのまま忘れていっただろう?」
痛いところを突かれて僕はバツ悪く頭を掻いた。いつも無意識にやってしまうことが多いため、ペンをポケットに戻さずどこかに置いてきてしまうのが悪い癖となっていた。
「キミのほかによく来てくれる常連の女の子がいてね、丁度キミと同じ席に座ることが多いから気が付いて渡してくれたんだよ。あ、これは絶対キミが忘れていったものだと思ってね。その子にも話をしたんだ。『キミと同じ席に座る忘れっぽい常連がいる』ってね」
「ひどいなぁ」と苦笑しながらペンを受け取る。書きやすさが気に入って長年使っていたボールペンだ。無くしてしまった事を後悔していたものだから思いがけず戻ってきたことは嬉しかった。
「恐らくもうそろそろ来る頃だと思うよ。直接お礼を言うかい?」
マスターが指さすアンティークの置時計は丁度17時半を指し、ぜんまい仕掛けの鐘を一つだけ鳴らした。
「お礼を言いたいのは山々なんですけど、そろそろ会社に戻らなくちゃいけないんで。代わりにありがとうと伝えてください」
そう言い残し、コーヒー代をカウンターに置いて僕は店を出た。通りに出ると空はオレンジから藍色に変わり、ちらほらと仕事帰りと思しき人の姿が増えていた。歩き始めると同時に入れ替わるように一人の客が喫茶店に入る。店のガラス越しに「いらっしゃい」とマスターの声がした。
会社に戻り報告作業を終え、帰り支度をする頃には時刻は19時を回り、帰りがけに飲みに行く同僚らがにわかにそわそわし出していた。
僕はと言えば、飲みに行きたい気持ちをぐっと堪え次々とくる同僚の誘いをギリギリのところで断っていた。というのも、近々始まる予定の仕事で使う資料を今日中には揃えなくてはいけなかったので、帰りに本屋に寄らなくてはいけなかったのだ。
仲のいい同僚は「そんなの明日にすりゃいいじゃん」と言っていたが、任された仕事を疎かにするわけにはいかない。飲みにはいつでも行けるが、資料集めは今日でなくてはいけないのだ。
帰りの電車は朝とは違い、普段と何ら変わりはなく窓の外をスムーズに流れる街並みを穏やかに眺めながらあっという間に降りる駅に到着した。気の持ちようで時間の流れがこんなにも違うものなのかと改めて実感する。
駅からの帰り道にある本屋に立ち寄ると、入り口正面に好きな作家の新作小説が平積みになっていて「待望の新作」と書かれた大きなポップが目を引いた。吸い寄せられるように手を伸ばすと、沢山平積みになっているのに偶然同じ本に手を伸ばした誰かと手が重なって思わず手を引っ込めた。
「あ」と先に声を上げたのは向こうだった。
細い指に綺麗に手入れされた爪。女性だ。何故か見覚えのあるような黒のロングコートに僕も無意識に「あ」と声を上げた。
「今朝の……?」
そう言うと女性は今朝と同じように少し恥ずかしそうに笑って「あの時はありがとうございました」と小さくお辞儀をした。
「いえ、そんな事」と言ったものの、「些細な事ですよ」であるとか「当然の事をしたまでです」であるとか、次につなげる言葉を探すより先に係長の言葉を思い出していた。
ほんの一瞬の沈黙の後、女性は「ボールペン」と思いもよらぬ言葉を口にした。
「え?」
「マスターから聞きました。丁度わたしと入れ違いで出た人がボールペンの持ち主だって。ありがとうと言ってたよって」
「じゃあ、ボールペンを拾ってくれたのは……」
僕が驚いた顔をすると女性は目を細めた。
「わたし、すぐにわかりましたよ? 今朝ハンカチを拾ってくれた人だって。こんな偶然あるんだなぁって、まさかもう一度会うとは思いませんでしたけど」
「ありがとうございます。お気に入りのボールペンだったので見つかってすごく嬉しかったんです」
「図らずもこれでおあいこ、ですね」
そう言って彼女は小さく笑った。
止めたはずの目覚まし時計がジリジリと音を鳴らして、僕はまた夢の中から現実へと強制的に引き戻された。今度こそ起きなくては、と意識を総動員して体を起こすと、キッチンからコーヒーのいい香りが漂ってきた。
「やっと起きた。今日は随分ゆっくり寝てたね?」
眠い目をこすりながらリビングへ行くと、彼女はエプロンをしたままゆっくりとコーヒーを飲んでいた。
「おはよう」と声をかける。
「おそよう」と返事が返ってきた。
「いい夢を見てたんだ。劇的な一日の夢をね」
「何言ってんの新米係長さん。しっかりしてよね? お弁当できてるよ」
テーブルの上には少し小さめのお弁当箱がすでに蓋をしてあって、いつでも持っていけるように鞄の横に置いてあった。
「いつもありがとう」
「どういたしまして」
朝のリビングにいつも通り二人の笑い声が響いた。