34. たとえ殺してでも
スピーカーが並ぶ叔母のマンション。
星多と愛想美は、二人がけのソファに並んで座っていた。
つけっぱなしのテレビでは、昼のワイドショーのコメンテーターがしたり顔で芸能ニュースについて語っている。
肩が触れるか触れないかの距離で、二人はただテレビを眺める。
愛想美の長い髪のさきっぽが、星多の手の甲をくすぐる。
うざったかったし、暇だったので、星多はその髪の毛をつまみ、自分の手のひらをくすぐるようにいじくる。
愛想美は特にいやがりもせず、自分の髪の毛で暇つぶしを始めた幼なじみで今は義兄を呆れたように見て、
「あのさ、星多ってさー、結構なんにも考えないで行動するタイプよね」
「失礼だな、俺だっていろいろ考えているよ」
「嘘でしょ」
「まあ、うん」
はあ、と愛想美はため息をつく。
「そもそもさ、今回のこの作戦だってさ、なんかこう、穴だらけっていうかさ、ほんとにこんなんで時間稼ぎできるのかな」
「しょうがないだろ、ほかに思いつかなかったし。一晩もなかったんだから、いい考えが浮かぶまでじっくり時間をかけるなんてこともできなかったしなあ」
「あんた、正直ねえ」
「そんなん、子供の頃から知ってるだろ」
「うん」
頷いて、愛想美は顎を手に乗せ、「まあ、嫌いじゃないけど」と、素っ気なく言う。
「あんまり引っ張らないでよね、髪の毛。痛んじゃう。禿げたらあんたのせいだから」
「愛想美、お前って昔から俺が髪の毛触っても怒らないよな」
「ま、あたしだってあんた以外に髪の毛なんて触らせないわよ」
「お前の髪ってふわふわで触ると気持ちいいんだよなー。愛想美の身体で髪の毛が一番好きだな俺」
「あっそ」
興味なさそうに言う愛想美の頬が少し紅く染まっているのにも気づかず、星多は続ける。
「ほかに特に好きなとこはないけど」
「…………むぐぐ」
ちょっと涙目になってしまった愛想美の表情にも星多はもちろん気づかない。
「そういや中学のとき、同じ感覚でクラスの女子の髪の毛で遊んだら、その場で女子に取り囲まれて裁判始まったぞ、死刑判決がでたけど土下座したら許してくれた」
「あんた、あたしがいない間にいろいろやってたのね……その時死刑にしてもらえば良かったのに」
「ほんとにそうなるとこだった、危なかった。ちょうどお前が引きこもってた頃だな」
そんな時期もあったのだ。
ほんのちょっとした行き違いがあって、愛想美は学校にいきづらくなったことがあった。
それで、しばらくの間、愛想美はほとんど登校拒否みたいなことになってしまったのだ。
しかも、そのことをばあちゃんに知られないようにするため、毎朝ふつうに家を出て、そのまま星多の家に「登校」する、という毎日。
星多はそんな愛想美に根気強くつきあい、たまには自分も学校をさぼってまで、愛想美と一緒にいる時間をつくったのだった。
「あの時は私、もう、暇で暇でさー。あんたのお父さんが集めていたプロレスのDVDとかVHSのビデオテープとか、全部見ちゃったもん。あたし、日本の十六歳で一番VHSの扱いとプロレスに詳しい自信があるわ」
「一番ってか、唯一じゃねーの?」
「かもね。あんたが女子に土下座している頃、あたしはきっとジャンボ鶴田のタイトル戦とか見てた……二人して馬鹿みたい……。それより、ツナと凛々花先輩はうまくやってるかなあ。今、何時だろ」
愛想美はスマホを取り出し、時間を確認する。星多も腕時計を見ると、午後二時。
「うまくあのばばあを騙せているといいんだけどな」
現状あの家から離れているので、星多もうまくいっていることを祈るしかできない。
片思いの女の子を守るためには、やっぱり家出なんて方法をとらないでそばにいるべきだっただろうか、と星多が思っていると、愛想美が突然、
「あ、メールきた」
と言ってスマホの画面をのぞき込む。そして、その顔が一瞬にして青ざめた。
「やばいよこれ……ちょっと、電話する」
「なんだ、何があった? 相手、誰だ?」
星多が訊くと、
「スパイよ。あ、つながった、ね、あたしだけど今のメール……」
そうだった、ここにいては家のようすがわからないので、愛想美やツナと仲の良い、通いのお手伝いさんに、なにかあったらすぐ連絡するように頼んでいたのだった。
見ていると、スパイと会話する愛想美のきれいな横顔から、だんだんと血の気が失せていく。義妹の表情が険しくなっていくのを見て、星多は嫌な予感がした。
まるでプールにつかりすぎた小学生のように唇を紫色にして、「嘘でしょ? ほんとなの?」とうめくように話す愛想美。
普段は血色の良い愛想美のほっぺたが、どんどんと青白くなっていく。
もう、星多は腰を浮かしていた。
すぐに動けるように。
そして。
通話を終えた愛想美が、少し震える声で、
「嘘だってばれたって……ツナと凛々花先輩、今日、政治家の家に送られたって……」
と、星多に作戦の失敗を告げた。
「助けに行く」
星多は間髪入れずに立ち上がる。
「助けるって、どうやって?」
「エロおやじぶん殴って、凛々花先輩たちを取り返すんだよっ!」
「そんなの、ノープランじゃない! 向こうは金持ちの政治家よ、セキュリティとかガードマンとかいるはずよ、うまくいくはずないでしょ!?」
「知るか! 俺のせいで先輩たちが……っ!」
そうだ、これは俺が考えたことだ。失敗したのは、俺の責任なんだ。
同じ家にさえいれば、身体を張ってでも止められたかもしれない。なまじ浅知恵で家出なんかしたばっかりに、凛々花先輩たちをよりいっそう危険にさらしてしまった。
俺が、責任を、とる。
「大丈夫だ愛想美、プランは、ある」
星多は愛想美の持ってきた大きなキャリーバッグを乱暴に開ける。
「ちょっと、あんたなにしてんのよ、それあたしの……」
「わりいな、こう言うときのために紛れ込ませておいた」
星多が取り出したのは、刃渡り三十センチの柳刃包丁。
屋敷のキッチンから拝借してきたものだ。刃の部分には新聞紙をぐるぐる巻いてある。
「あ、あんた……」
愛想美は一歩あとずさり、絶句する。
「最悪……俺が、これで」
「はあ? あんた正気?」
正気かと訊ねられれば、そうじゃない、と即答できる。
凛々花の顔を思い浮かべる。
書道部の部室での、太陽のような笑み、軽やかな笑い声、風に泳ぐつややかな長い黒髪。
それとはうってかわって、慣れないお手伝いさんの仕事に不安げな表情を浮かべていた、クラシカルメイド姿の凛々花。
そして、女給姿のツナ。
思えば、星多が神道寺家にきてから一度も、ツナが素直に笑った顔を見たことがない。口ではあんなに冗談ばかり言っていたのに、でもそれはいつも星多や愛想美に気を使った軽口だった。
俺のせいで。
俺が、余計な作戦をたてたばかりに。
もしかしたら、いつか髪の毛を触ってしまった女子にしたように、ばあちゃんにも土下座してお願いすれば、それですんだかもしれないのに。
変なプライドと、ばあちゃんへの憎しみと、思いついた作戦を試してみたいと思った子供じみた挑戦心。
俺のせいで、今後永遠にあの二人が心から笑える日を、失わせてしまったかもしれないのだ。
いや、まだ間に合う。
政治家の自宅はすでに調べてある、ここから近い、星多が全速力で走れば十五分でたどりつける。
「ね、星多、目が、おかしいよ?」
そう、おかしい、それでいい、そうでなくては、助けられない。
体中の血液が沸騰している。
手足の指先にまで酸素がいきわたっている。身体がカッカと熱い。
無意識に噛みしめていたらしく、歯がぎりぎりと鳴り、興奮で鼻の奥がつんとする。
「殺す」
「はい?」
「もし救い出せなければ殺す、誰でもいい、俺を止める奴がいたら、……殺す」
「待って! ちょっと、待って! あんた、なにいってるの!? え、待って、怖い、怖いんだけど?」
「悪い、愛想美、頼みがある、後ろからついてきて、もし俺が誰かを……刺すことになったら、すぐに警察に電話してくれ。でかい事件にしてやる。警察動かして、事件にしてやれば、こんなの、人身売買だ、許されるわけがねえ、それで先輩たちは助かる」
「待ってよ、待って、本気なの?」
星多は答えず、そのかわり愛想美の目をまっすぐ見る。
目の前の、物心ついたときからそばにいたちっちゃな身体の少女は、驚きと困惑がすぎたせいだろうか、目を見開き、笑っているようにも見える奇妙な表情で星多を見ている。
「……愛想美、わりい。みんなに、迷惑、かけた。これから、もっとでかい迷惑、かける。でも、俺、ほかになにも考えが浮かばない。だから……行く!」
「待ってってば!」
「離してくれ」
腕にしがみついてくる愛想美の手を振り払う。
妙な力が湧いてきている。
玄関に向かって歩く、雲の上を歩いているような、ふわふわとした感覚、まるで重力から解放されてるようだ、俺は、やれる、やれる!!
「好きな女の子を助けられないで、男に産まれた意味がねえ」
「待って、それで人殺しするの? バカじゃないの、大丈夫よ、女って強いから、わりと大丈夫だよ、殺人まですることないよ!」
「そうだな、殺人はやりすぎだな」
「う、うん」
ほっとした表情をする愛想美、だけど星多は続ける。
「なるべく殺さないで怪我だけさせる、刺すけど。もし必要だったら、自決する、相手は政治家だもんな、人が死なないと警察も巻き込んでうやむやにするかもしれない」
「やだっ!!」
愛想美は叫ぶ。
「そんなのやだってば! あんたが死ぬくらいなら、あたしが死ぬ! あたしが、あたしが、なんだったらあたしが股開くから! だから駄目!」
愛想美は顔をくしゃくしゃにし、涙を飛び散らし、髪を振り乱してしがみついてくる。
「……やる。俺は、やる。先輩たちの……ためなら、俺は、命を、使える。俺は、好きな女の子のためなら、……死ねる、相手が、愛想美、お前でも俺は死ねる、でも今は凛々花先輩達のために行く、行かせてくれ、今回のことは、俺の……失敗だから。見届けてくれ」
「なんであんたそんな馬鹿なの? おかしいよ、狂ってるって、もうわけわかんないよ」
なおも星多にしがみつく、小さな身体。
星多はこれが人生最後と思い、幼馴染の肩にそっと手を乗せ、
「愛想美、さっきは嘘を言った、ほんとは髪の毛よりも好きなとこ、いっぱいあるんだ」と言った。
見上げてくる小さな顔は、憔悴して怯えきった迷子の子供のよう。
「知ってるか? 人って、その人のこと思い出す時はさ、最後に会った時の顔を思い浮かべるんだぜ?」
もう泣きすぎて見るに耐えないほど愛想美の顔はグシャグシャだ、さすがに笑ってくれないだろうと思った。
せめて、愛想美には俺の一番いい笑顔を見せてやろう、そう思った。
星多は精一杯の満面の笑みを作って、
「俺、お前の香りが、好きだった」
そう言って身をかがめ、抱き寄せて細い首筋に顔をうずめ、思い切り息を吸い込んだ。
ずっと星多とともにあった匂いを、最後に味わっておこうと思って。
それが悪かった。
愛想美のブラウスは赤いヒモタイつきで、あまりにも強く息を吸い込んだせいで、そのヒモタイが香りとともに星多の鼻に入ってきたのだ。
鼻の奥までスポーンと入り込む愛想美のヒモタイ。
「…………」
最高のさわやか笑顔をした星多、その鼻の穴からヒモが生えている、みたいな光景、そんな星多の顔を呆気にとられた表情でみつめる愛想美、少女の長くきれいな形の眉毛がくにゃりと曲がって八の字を描く、しばらくの静寂、そして、星多の鼻粘膜を幼なじみの衣服がむずむずと刺激する。
「は、は、は……ぶぇっくしょい!」
思わずくしゃみ。
「ぶふぉっ! ……ば、ばか、あんた、ほんと馬鹿……」
シリアスな雰囲気で号泣してたはずの愛想美も思わず吹き出す。
星多もほんの少しだけ我に返り、恥ずかしくなって、でも最後に愛想美の笑顔をみられたからいいか、と思った。
「じゃあ、俺は行く。俺のほうが足早いからな、あとからついてきて、……警察、頼むぞ」
「だからやだって駄目だって!」
泣き笑いの表情で抗う愛想美を突き放し、
「愛想美、今までありがとな」
「星多ぁっ!!」
彼女の叫び声を背中に、星多は駆け始めた。
力の限り。
走る、走る。
あっと言う間に幼なじみの声は遠くなる。
身体が軽い。
星多の筋肉はその潜在能力を存分に発揮し、その関節はもっとも的確な角度で筋肉の力を駆動力に換え、骨はアスファルトを蹴る衝撃に耐えた。
もう、星多にはなにも見えない。
景色も、風のそよぎも、空の色も、なにも。
少女たちを救うためのマシーンとして、ただひたはしった。
さびれた商店街を抜け、橋を渡り、大通りにでてから路地に入り、居酒屋やスナックが立ち並ぶ道を走り、さらに公園を突っ切る。
そして、ついにたどりつく。
住宅街と商業地区の狭間にある、三階建てのコンクリートでできたでかい住宅。
山橋とかいう、変態政治家の自宅だ。
この中に、今、凛々花とツナがいる。
なにをされているのか、なにかさせられているのか、もうされてしまったのか。
絶対に、助け出す。
もちろん玄関はオートロックで、そこからは入り込めそうにない。
充血した目をぎょろつかせて、どこか侵入できる場所はないか見回す。
建物の横に回ると、三階部分には、二階部分の屋根を利用したバルコニーが張り出している。ルーフバルコニーってやつだ。たくさんの洗濯物が干されている。
あそこに、隣のビルの窓から飛び移れるかもしれない。
さっそく、隣のビルに入る。一階はコンビニ、二階は英会話教室。三階には知らない会社の営業所がいくつか。幸い、目当ての三階の窓は、ちょうど共用の廊下部分にあった。
右手に握りしめていた柳刃包丁をベルトに差し、窓を開け、よじ登る。
バルコニーまでの幅は二メートル、いや三メートル?
俺、立ち幅跳びでどのくらい跳べたっけ。
バルコニーの柵よりもこちらの窓の方が若干高い、絶対に飛べない距離というわけではない。
下を見ると、コンクリートで固められた地面に、忍び返しのトゲトゲがついたフェンス。
跳び損なって落ちたら、あの槍みたいなフェンスに串刺しになるだろう。
そうでなくても三階の高さなのだ、命を落とす確率はかなり高い、ってか普通なら死ぬ、助かったとしても今後一生車いすか植物状態確定だ。
ーー好きな女の為なら、悪くない死にざまだよな。
星多は、そう思った。
向こうのバルコニーまで、高さのせいか実際よりも幅が広く感じる。
心は死ぬ気でも、身体は危険に対して拒絶反応を示す。
膝が、震える。心臓がバクバクと飛び跳ねる。
落ちたら、死ぬのだ。
身体が言うことをきかない。
くそ、くそ。
歯を食いしばる。
その時だった。
星多は、聞いた。
バルコニーのテラス戸、その向こうから聞こえてくる悲鳴を。
大好きで大好きで大好きな凛々花先輩の、悲鳴を。
「いやだあ! もう、おしっこは、嫌っ!」
そして、ツナの鋭い声。
「やめなさい、やめっ、痛い痛いっ! やめてっ!」
瞬時に、恐怖は消えた。
なにを考えるまもなく、星多は、跳んだ。
怪物の巣。
魔窟。
そこから、少女たちを救い出すため。
たとえ死んでもいい。
そして、たとえ殺してでも。
救い出す。
絶対に。




