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恋しあかばな  作者: 小糸
9/21

 

 薄闇のなか咲く花のように

 昼夜のはざまで泣くひとのように 

 ふるえる ふるえる この心

 強い光に焦がれながらも 恐れている




「反則だろ。」


 瀬川くんが言った。

 泳ぎ疲れたのと、いきなり旦那さんにつかまってしまったショックのために、またも寝込んでしまった緋乃に対して。


「放っておいてよ。あたしだってこんな弱い体は嫌だもん。面倒なら見捨てて、いますぐ。同情で傍にいられるほど腹がたつことはないのよ」


 籐椅子でタオルケットをかけられて横になりながらも、緋乃はけなげに言い返した。瀬川くんは「はあ?」と心底腹立たしそうにその指の長い手のひらで彼女の目元を覆った。


「何言ってんだ、バーカ。誰もそんなこと言ってないだろ。いいから大人しく寝てろよな。これ以上心配かけんな。ったく、ほんとにお転婆姫だよ、おまえは。」

「……心配してるのはそっちの勝手だわ」

「そーゆー状態に陥らせたお前が悪い。だまって寝ろ。」


 まだ怒った声だったし、言葉尻も切り口上で、聞いているこっちまで心臓が痛くなるセリフだったが、その眼を見れば瀬川くんが今どんな心境なのかは一目瞭然だった。

 同情ではない。哀れみでもない。その真逆で、希っている瞳。

 緋乃がその身に抱く秘密を話してくれるようにと、彼は切望していた。

 俺はお前の力になれない? 俺には話せない? なあ、何で言ってくれない?

 いくら夫婦でも他人だから、俺はお前に何があったか、残酷だけど尋ねるしかできないんだよ。辛いよ。お前がそれを嫌がってるのがわかるから尚更嫌なんだ。

 寂しいよ。話してくれよ、お願いだ。


「瀬川くんってメチャ分かり易いよな」


 やがて緋乃がすうすう寝息を立て始めた時、さんぴん茶を飲みながら惠が言った。親が子供を見るときの底ふかい、凪の眼をしていた。


「……熱がある。言わないで下さいよ、顔に出てました?」


 愛妻の額を手で押さえ、慈しむように撫でてから、瀬川くんはすこし離れたテーブルについている私たちを見た。立ち上がろうとしたので、いいよいいよと首を振って、わたしは疲れた様子の彼にさんぴん茶と軽食のサンドイッチを持っていってあげた。


「うん。ものすごく。俺はどうしたらいいんだ、って眼をしてたよ。入り江に取り残されたイルカみたいな」


 惠が言うと瀬川くんは笑った。


「イルカですか。土地柄ですね」

「というか職業柄だな。海好きだから」

「俺も泳ごうかなあ。この分だとお姫様、なかなか教えてくれなさそうだし。長期滞在になりそう」


 フー、と感情を押し込めるような細いため息を吐き出し、瀬川くんはごくごくとお茶を飲んだ。ひそめられた眉根に、彼が緋乃を見つけるまでどれだけ緊張しきっていたのかがわかる。顔色もよくないし、見るからにご心労だった。

 そりゃそうだろう。

 緋乃の性格を考えると、きっと全部自分の中だけで考えて、悩んで、決めて、ほんとうに何の痕跡も残さずに彼と暮らしている家を出てきたのだ。想像してみるとぞっとする。そして同時に、それでも彼女を見つけ出した瀬川くんの行動力に感嘆する。


「緋乃命なんだね。ほんとに」


 私が言ってみると、瀬川くんは恥かしげもなく頷いた。


「うん。いや、違うよ。そうでもあり、そうでもなし。俺は、緋乃が傍にいると生きやすいんだ。呼吸がしやすいっていうのかな。彼女は俺との間になんかすごく心地よくて、やさしい空気を作ってくれて、一緒に成長していけるひとだから。そういう人ってほかにいないんだ。あんなに気が強くて凄烈な性格をしてて、俺も決して『いい人』じゃないのに、それでも二人でいるとすごく楽。静かで、穏やかで、海の底みたいな空間ができる。」

「ものすごく強烈で、同時に静かな感情なんだな。」


 惠が扇風機の風向きを調整しながら言った。

 風が当たりすぎても、あたらなさ過ぎても緋乃のデリケートな体には良い効果を及ぼさない。その点彼女と幼い頃をこの島で共に過ごしただけあって、惠は手馴れていた。二度三度、扇風機の首をいじったかと思うと、もう次の風は緋乃にむかってこの上なくやわらかく吹いていた。

 サンドイッチをきれいに平らげながら瀬川くんはありがとうと言った。そして続けた。


「感情っていうか、状態にちかいんだ。結局結婚ってそういうことなんだってわかり始めた。自分にとって大切な場所ができること。生まれた時に授かった命じゃなくて、自分でもうひとつの命を作り出すこと。そしてそれを失う怖さを知って、なおかつ向かい合っていくこと。なにもかも二倍なんだ。あるいはこれから数倍になっていくのかもしれないけど」

「そ、それは何か、予定があるのかい? 奥様が妊娠してるとか?」


 ぎょぎょっとした私の胸中を代弁するように惠が言った。その言い方は分かりやすかったので、それじゃばれるよ! と私は思ったが、でも勿論黙っているしかなかったので黙っていた。

 すると瀬川くんはちょっとだけ怖い顔をしてこう答えた。照れをごまかす表情だった。


「……別に予定はないっすけど。いつできてもおかしくはないですよ。結婚してるんだし、俺も欲しいしね。子供。」

「それこそ溺愛しそうだねー」


 いっそ気持ちいいぐらいの愛情ぶかさに、くすくす笑いながら私は言った。

 いい男の子だ。恰好いいひと。


「うん。したいね。女の子がいいな。気が強くってかわいい子」


 まぶしいものを見つめるように眼を細めて、自分が誰なのか、どこで生まれたのか、ここがどこなのかも忘れたような状態で、瀬川くんは緋乃の髪をすくった。そしてそれをゆっくりと梳いた。


 子供が青空に浮かぶ飛行船をただ夢中で見上げている時のような、花火大会で次から次へと繰り出される花火を見送っている時のような、例えるならそんな種類の表情をしていた。

   

「つまり、スケールの大きい人物同士が結婚して、プラスとプラスで、無限に広がる空間を手に入れたんだよ。あの二人は。未来は見えないけど、永いものだって思ってる顔をしてた。」


 ざばっ、と海面から顔を出して惠が言った。私は太陽を背中に感じながらゆっくりと遠浅の海を泳いでいる最中だった。傾きかけているとはいえ、その光線はまだまだ勢いが衰えない。じりじりと肌が焦げる先から水に洗われていく感覚がたまらなく気持ちいい。思わず叫び出してしまいそうになる。

 ブルーグリーンの透明なやわらかい水のなか、手の届く場所に珊瑚礁のかたまりが点々と見えている。頭に上げていたシュノーケルをもう一度下ろして、私は海中でふたたび眼を見開いた。魚は霧散するように逃げたので見られなかったが、水の中で光の屈折する様子だけを見つめているのも楽しい。

 島ではなんでも楽しく感じられた。

 だんだん、そういう風になってきた。


「丹、話聞いてんのか?」


 岩陰まですいすい泳いでいった時、惠がしびれを切らしてそう追いかけてきた。ついに逃げられなくなったので、私は「聞いてますよ」ととぼけてみたが、彼には通用しなかった。


「聞いてねえじゃん。超楽しそうだもん」

「うそ。あたし、楽しそう?」

「それはもう。にこにこしてるよ。昨日と全然違う」

「昨日はどんな顔だったの?」

「無。なにもなかった。表情がない。死人みたいな顔してたよ」

「女に向かって死人とか言っちゃダメ!」


 私は再び冗談めかして言ったが、内心はぎくりとしていた。

 惠は正直、鋭すぎる。正面切って話すのが怖い。その眼も、笑顔も、ごつくて太い手も足も、彼は全てに勢いがある。

 生命力の流れなのか、未来への希望なのかこの世への愛なのか何だかわからないが、向かい合うとそれだけで強く押されて足元がふらついてしまうのだ。

 瀬川くんみたいに言葉が激しているわけではなく、態度が荒々しいわけでもないのに、惠は見ているだけでこちらの眼を焼いてしまいそうな灼熱をその身から発散していた。わたしはそれが怖い。

 それに、惹かれる。


「……丹って何で俺から眼をそらすんだ?」

「え」


 離れた島の上、生い茂る椰子の木が風にゆれていた。いつの間にかまたも惠から離れて泳ぎ出そうとしていた私は、背後からかけられた声に思わず振り返った。

 惠が無駄のない動きで自分も水中にもぐり、それから私の横に並んでくる。濡れた頭が現れたのは、どきどきするほど近い位置だった。


「なあ、なんで? 俺ってそんな怖いかね?」

「そ、そんなことないよ。それを言うなら瀬川くんの方が強面だと思うよ、私は。」

「でもいっつも顔見てもらえないからさ。初めて会った時、って言っても昨日だけど、その時は眼を合わせたけど、でも俺を透かして海を見てたからね、きみは。なーんにも眼に入ってないって顔をして。今日になってようやく命が灯り始めた感じだな、って思ったらコレだもんな。」

「惠って率直なんだね」

「でないと生きていけないよ。嘘をついたり、本音を言わなかったりしてると後でつけがくるんだって、今までの人生で嫌というほど思い知らされた。」


 まるでお爺さんが言うようなセリフを吐いて、惠はひゅっと息を吸い込んだ。彼が何をしようとしているのか私もわかったので、反射的に同じ事をする。

 ふたりで同時に水没すると、そのまま浜まで競争した。

 水を掻いて、水に圧力をかけられて、ただ先を目指す。そこに何があるから行くのではない。ただ進むだけの道がある、だから行く。

 いまは呼吸が苦しくても、いつかきっと楽になると、知っているから。


「勝ったー」


 浜に最初に上がったのは私だった。お腹についた砂を払いながら振り向くと、惠がものすごく悔しそうな顔をしてやはり上がってきた。

 緋乃が言っていた、彼は子供だ、野生児だという言葉を思い出し、そうかもしれないと納得した。

 精神年齢だとかそういう問題ではなく、その魂のかたちが、肉体に納まりきらない何かが。

  惠をいつも楽しそうに、そしてほんの少し、辛そうに見せる。


「くそう。さすがイルカ、早い。泳ぎがうまい」

「でしょう。東京の高校でも、水泳部に所属している子よりか全然速かったんだよ。」


 ビーチパラソルなどはないので私たちは浜の端っこの、天然の岩のアーチの下に腰掛けて涼んだ。急に熱から解放されて肌が痛みを訴えだす。この感覚も久しぶりで、私は自分が一週間でどれだけ焼けるか、半ば楽しみで半ば切なく思った。

 だってきっと、千葉に戻って日焼けの跡を見れば、この夢が夢でなかったことが証明されてしまう。なんども思い出して、胸が痛くなって、そして忘れられなくなってしまうのだろう。

 愛しい初めての男から離れた夜のように。


「水泳部? たしかにそんぐらいのレベルはありそうだな。入部すりゃよかったのに。そしたら今頃スポーツ選手間違いなしだよ」

「プロとか、無理なの。一つのことに人生を限定して、捧げるような選択は、あたしはできないの。きっと弱いのね」

「どうかな。選べることは何かを捨てられるっていうことだからね。冷たいことでもあるよ。」


 岩陰はトンネルのような形になっていて、私達の声をよく響かせた。その残響が消えるのを待ってお互いに口を開くから、必然的に、無駄な音は少なくなる。豊かな間が生まれ、花がそよぐ音や波音に凝縮されたその間は、なにかとても貴重なものに感じられた。


「でも、それでも私は、うらやましいわ。わたしは選んでいきたいもの」

「何を選びたいの? 丹は、何を決めていかなければいけないの?」

「なんだろ、生きることを。進むことを。でも、例えこれ以上ないって自分では言い切れるほど最良の選択をしたとしても、人間は神様の奴隷にしか過ぎないのかもしれない。その手のひらの上で踊らされてるだけなのかもしれない。そう思うとくやしくって、眠れないくらいなのよ。目覚められないくらいなの」


 惠は私を見た。やわらかい眼差しをしていたので、今度は私も眼を逸らさずに彼を見つめた。お互いに何か喋るかと思ったけれども、結局どちらも口を開かず、なんとなく波音に流されてしまった。

 それでも、それはまるで、クリスタルのように幾万もの心の交差を反映した、美しい沈黙だった。


 壊したくない、永遠にこの空気が閉じ込められればいい、と思った。

 わたしは膝を抱えて、惠は膝を伸ばして、それぞれ同じように感じているのが確かにわかった。

 瀬川くんの言った意味がすっと臓腑に染み込んできた。緋乃が傍にいると生きやすい、呼吸がしやすいと言った言葉。さっきは単にものすごくウマが合うカップルなんだな、興味深い、と思っただけだったけれど、今は違う。

 きっと、この、共有している感じだ。

 同じ空間を、すごく心が似ているふたりだけで分かち合えて、そこに映る色を、立つ香りを、同時に体感できる感じ。言葉など必要なくて、むしろ無意味で、お互いにまったく別の方向を向いているのに、それでも自分という存在のどこか一点が強烈に相手と共鳴しているのがわかる。 

 その瞬間はあっという間に終わってしまうけれど、とても美しくて甘い。眠くなるほど心地いい。麻薬のように妖しい力を持つ。

 こんなことを何回も何十回も繰り返してきたら、それはお互いぞっこんになってしまうのも当たり前だよね……とわたしは思い、瀬川夫婦が今なにしているかと考えた。同時に、自分がいまどこにいるのか、そしてそれはいつまでの滞在なのかということを全て一気に思い出してしまってかなり落ち込んだ。

 近いうちに帰りたくなくなるのが予測できる。きっと7日目を待たずにわたしは泣き出してしまうだろう。

 その心境を知ってか知らずか、またしても鋭く惠が言った。


「丹って、いつ帰るんだっけ。」

「……今日を入れて、あと六日。」

「そっか。そのあとって、どうすんの? 千葉に戻るの? そもそも丹って何でここに来てるんだっけ?」

「大学に戻って卒業する。千葉に帰るよ。ここに来たのは、羽伸ばしのため。惠が言ったんじゃない、昨日のあたしは死人みたいな顔をしてたんでしょう?」

「悲しいことがあったのか?」


 惠は海を向いた横顔のまま言った。わたしは、少しだけ迷ったあと、ちいさく小さくうなづいた。

 胸の中で茨のように絡まりあうどす黒いツタは、少しの間は忘れていられても、やっぱり私の中から消えているわけではない。 

 息が重くなるのを感じながら、呟いた。

 

「悲しいというより、辛いこと。切ないこと。」

「そっか」

「うん。でも、乗り越えたいの。だから来たのかな、この島に。」

「……そっか。」

「うん。」

「でもさ、こんなことを言うのは不謹慎かもしれないけど、でも、丹。俺は。」


 お前と会えて嬉しいよ、と惠は言った。波音にも混ざらない強い声で。

 ものすごく嬉しいよ。なんでかわからないけど。でも、ほんとに、今この瞬間も。


 うれしくて胸が割れそうなんだ。



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