ピュア・エゴイスト
愛してるよ。
いつだって、どこにいても。
でないと生きていけないよ。
ダンナさんは本当に来た。
奥さんとかなり似通ったふんいきを纏って……いや、放っていたのですぐにぴんときた。
人目を惹く偉丈夫だった。鼻筋の通った荒々しい知性を感じさせる顔に、何より、その、焔のように輝く独特の瞳。
夕飯の材料の買出しという名目で惠に車を出させ、港ちかくのスーパーに案内してもらっていた私はあっさり彼を見つけ出すと近づいていった。
とはいえ間違うとただの変な人なので、それとなく緋乃に電話をかけ、彼の近くで声大きめに、
「ヒノ?」
と、言ってみた。
ダンナ(仮)はすぐに首をねじまげて私を見た。
睨んだといえるほどの強烈な視線に奥さんへの愛を感じたので、私は彼と目を合わせてほほえんでみせた。
「うん、買い物に来てるんだけど。何かいるものある? え? 元気よ、大丈夫よ。島生まれは島にいるだけで元気になるの。ありがたいくらいよ。それより緋乃はどこにいるの? ……あ、そう。あんまり無理しないようにね。じゃあ今夜はお肉にしようね。はい、了解。じゃあねー」
電話を切ると彼が先に、予想よりずいぶん穏やかに口を開いた。
「この島の方ですか?」
大地が鳴るように低い、途方もなく深みのある声だった。
多くの人はきっと呑み込まれてしまうのが怖いから、反射的に体のどこかをがちがちにしてしまうであろう声。でも緋乃だったら、彼女のように強くて、同時によわい女性なら、躊躇なくその腕のなかに飛び込んでいくであろう声。
必要だったんだ、と直感した。
緋乃にはこの男の子が、どうしても必要だったんだわ。
「ええ、そうでもあり、そうでもなし、って感じかな。昔は石垣で生まれたけど、いまは千葉に住んでるの。あなたは?」
「元は本土の人間です。今は海外に暮らしてる。」
「この島へは何をしに?」
「人を探しに来たんです」
「ロマンチックね! お手伝いできるかしら?」
「たぶん。……手始めに俺は何をすればいい? 名前を名乗ればいい?」
「そうね。あと、これを見せてもらえる?」
言って、わたしは自分の左手を、甲を表にして彼に掲げて見せた。彼はそれにならい、私は納得した。緋乃と全くそろいの、金のリング。
「やっぱり緋乃の旦那さんだった。」
私が笑うと、彼もちいさく微笑んだ。黙っている時よりも甘さとやさしさをにじませる良い笑顔だったが、とてもさびしそうだった。
「そうだよ。旦那なのに置いてかれた。ひどい話だよな」
ちがう、置いていったわけじゃない。緋乃は確かめたかっただけだ。彼が追いかけてきてくれるか。彼が自分の妊娠に勘付いているか。そしてきっともう一度、彼とこの島の空気を一緒に吸いたかったのだ。
お腹の赤ちゃんと一緒に。
思ったが、私がそれを言っても全く意味はないので、代わりに次のようなセリフを吐いた。
「悲しそうな顔しないで。ちゃんと話ができるから。島の良さはそういうところよ。閉じ込められている代わりに、人と人との距離がぐっと近くなる」
「……ありがとう。あいつ、元気ですか?」
「すごく。だけど、あなたのことを気にして、そこだけが辛そう。愛してるのね、すごく。見ればわかるもん」
ここまで話して、道路を挟んだ向こう側から、大声で私を呼ぶ声がしたので振り返った。スーパーに置き去りにしてきた惠が、私を発見して走ってくる所だった。両手に白いビニール袋を持って車の行き交いを確認すると、実に身軽に道路を横断してきた。
「惠っていっつもスーパーの袋持ってるなあ。」
呟くと、彼はまた、今度はほんとうにただおかしそうに笑った。
「惠さん! ひさしぶりだ。」
「あれ、知ってるの? ……あ、そっか。親戚でもあるんだもんね。」
「うん。ねえ、それより、あんたの名前は?」
「あ、ごめん。丹、伊礼丹。」
まだ名乗っていなかったことに気がついて私は言った。彼は手にしていたボストンバッグをどさっと波止場のコンクリの上に置くと、私にそこに座るようすすめた。暑いし、たぶん、背が低いわたしが会話中ずっと自分を見上げていることを気に病んだのだろう。やさしい人だ。
ありがとう、と私はバッグの上にちょこんと腰掛けた。潮の匂いのうつった髪の毛が風にあおられて頬にはりつき、口に入ったのを手でのけた。なんだか幼くなった気分だった。
「珍しい名前だね。どう書くの?」
「丹花の丹。あなたは?」
「カイ。瀬川界。丹花で沖縄生まれってことは、ハイビスカスだね。」
名前の由来を一発で当ててくれた人は初めてだったので、思い切り驚いたわたしが仰け反った瞬間、惠がすたっと路肩に上がってきた。
「瀬川君! 久しぶり!」
満面の笑み。会って二日目だが、惠の笑顔には独特の力があることに私は既に気付いていた。真摯で嘘がなくて、明るい。生命力がある。
太陽に向かってどこまでも伸びていくような健やかなその表情に照らされて、瀬川くんもすごくほっとしたように、そして純粋に嬉しさを露にした。
「惠さん。おひさしぶりです」
言いながら、腕を伸ばして抱擁を交わす。外国ナイズされた動作だったが、仕事で世界中を飛びまわっている惠にはそれ以上の親愛表現はないようだった。がっちりとした腕を瀬川くんの肩にまわし、彼は顔をくしゃくしゃにしてその広い背を強く叩いた。
「あいかわらずでかいな! そしてハンサムだな! 仕事忙しそうだけど、こんな田舎島に来て平気なの?」
「妻のほうが大問題なんで。休みもらいましたよ。フリーランスのいいところですね。」
「いーいねえ。稼いでる?」
「まあまあです」
体を離して、澄み渡った海と空をバックに、気兼ねなく言葉を交わしあうふたりの青年たち。一人は愛する妻を追い、一人は自ら求めるものを探して、それぞれこの島にやってきた。
いい光景、と思いながら、私はふっと世界の低い位置から空を見上げた。
追うものも探すものも私にはない。ならどうしてここへ来たの?
自分自身に問い掛けてみると、答えは驚くことに、すぐ浮かんだ。
さびしかったから。
そしてそこから、枝葉が天に向かって育っていくように、更なる想いが生まれるのがわかった。みずみずしく、純粋な。見返りを求めない感情。
誰かに会いたかったから。誰かって、それはたぶん、
惠。
私たちは緋乃の家に戻るまでに車の中でたくさん、たくさん話をした。
お互いの出会い、好きなところ、嫌いなところ、一緒にしたこと、大学時代の思い出、きょうだいのこととか。あんまり勢い込んで話して、しかもお互い止まらなかったから、途中とちゅう本気で息が苦しくなった。
瀬川くんは言葉の選び方が的確で無駄がなく、時おり大きな身振り手振りを加えて理知的に語る男の子だった。職業は? と聞いてみると、惠に脇から突っ込まれた。知らないのかよ!
「瀬川くんはかなり有名な演奏家だぜ、クラシックの!」
「えーええー?」
私はきょとんとした。自分で言うのもなんだが、世情にはかなり疎いので、もちろんそんな事実は知らなかった。しかし、瀬川くんは何だか苦いような顔をしてこう言った。
「自慢できるような職業じゃないから。最近、転職を考えてんだ。自分では何も生まない、何も作り出さない。そんなのちがうだろ? 本当の意味の音楽はそういうものじゃないんだ。もっと胸になにかを灯して、焦がれて焦がれてどうしようもなくて、涙が出る。それが有名な作曲家の作品であっても、無名の作曲家の作品であっても、関係ないんだよ。だけど皆やっぱり枠にとらわれる。その中の魂の質が見えない状態になってしまう。良くも悪くもブランド志向の世界で、なにより自分がそれで食ってるから、嫌になるんだ。本当はシンプルに恋してるってだけなのに。俺にとっての音楽ってきっと、恋みたいなもんなのにな。」
彼が発する音楽ということばはとても甘いものに感じられて、私は恍惚とした。
そっか、愛だ、愛なんだ、と思った。
私も歌をうたうからよくわかる。音楽にかたちはない。それは眼に見える物体として私達の前に留まってはくれない。しかし、だから音楽を愛するのではないのだ。何かへの愛を、あふれてこぼれた感情を拾って、つむいで、織ったものが音楽なのだ。
「はじめに音楽があったわけじゃなくて、はじめにあったのは想いだってこと。そこから音楽は生まれたってこと。瀬川くんの言葉はそういう風に聞こえる。まちがった?」
惠が運転しながら言った言葉が正しく私の考えていたことを言い当てていたのでどきりとした。見てみると、瀬川くんは窓にひじをつき、今しも一番大きいカーブを曲がった道から、千々の光をまたたかせる青い地平線を遠く見つめていた。
「正解してるよ。」
言いながら、黒い瞳が溺れそうに切ないただ一つの感情をたたえているのを発見して、私は自分までその勢いを感じ、胸がくるしくなってしまった。
「少なくとも俺は、伝えたくて、届けたくて、音楽をやる。理由が必要なのかさえ、時々わからなくなるけど──それでも、たった一人のために。」
瀬川くんは、緋乃を本気で愛しているのだ。その魂を、肉体の全てをかけて。
この海のように、時に穏やかに、時に荒々しく、緋乃に寄り付く悲しみの全てを押し流そうと彼は生きているのだ。
それはなんてエゴイスティックで、同時にピュアな選択だろう。
「ピュア・エゴイスト」
思わず呟くと、そうだよと瀬川くんは笑った。
しかし、さて家に帰り着いてみれば、緋乃は玄関から丸見えの浜でナンパされていた。
相手は数人の男の子で、肩にシュノーケルやゴーグルを担いでいるダイバーたちのようだ。まっくろに日に焼け、メタリックに脱色されたぼさぼさの髪をしている。
青い水着を着た緋乃は路上の障害物を見る眼で彼らを見ていた。
この上なく不愉快そうだった。ともすれば彼らを蹴飛ばしてそのままこちらへ歩いてきそうな顔をしていた。
「やばいね……」
「やばいな……」
私が呟くと惠も同時に呟いていた。彼の隣でどさっ、と音を立てて瀬川くんが、ボストンバッグを肩から下ろしたからだった。
うわあ、浜で乱闘? 海を汚すことだけはやめてよね!
私は慌てたが、瀬川くんを止めようと手を伸ばしたとたん、今度は緋乃がダイバーを思いっきりビンタした。肉と肉がぶつかりあう、耳に痛い音が潮の匂いのたちこめる空気に響き渡った。
「Reserved!」
冷酷に唇をつりあげて笑った緋乃のセリフが合図になった。呆気に取られている私と惠からあっさり離れて、瀬川くんが浜へ続くゆるやかな坂道をすたすた降りていった。早かった。あっという間だった。
ダイバー達に背を向けて歩き出そうとしていた緋乃の前に立ち塞がると、彼はそのがっちりした二本の腕で、まな板の上の鯉のような恐怖しきった顔をしている奥さんをつかまえた。そして言った。
「ごきげんよう、お姫様。こんなとこで何してんだ?」
離れた位置に立っていた私の耳にもはっきり届く、世にも恐ろしい声色だった。
瀬川くんはあきらかに自分の声の効果を知っていて、それを最大限に活用していた。
彼の前で緋乃が、今まで見たこともないほど大人しくなっていくのがわかって、私は不謹慎にも笑い出したくなってしまったが堪えた。惠も同じように我慢しているのがわかったからだ。
「かっ、界、なんでこんなところにいるのよ!」
腐っても気が強い緋乃はせいいっぱいそう叫んだが、声は小さかったし、かすれていた。
私たちの立っている場所からは、瀬川くんは後頭部しか見えなかったが、緋乃は、頭の先から爪先までをもずぶぬれにした人魚のような姿がぜんぶ見えた。だからよくわかった。
彼女がどれだけ瀬川くんに会いたかったのか、怖かったのか、今も怖いのか。
ほんとうはその腕にすがりつきたいのに、伝えていない秘密があるからできない。だけど伝えなきゃ、という葛藤までぜんぶ、明るすぎる島の色彩のなかではっきり浮き彫りにされて見えた。
「何で? それはこっちのセリフだろ、どれっだけ俺が心配したかわかるか? 予告なしにいなくなって、冗談じゃなくて飯が喉を通んなかったんだぜ。なのに、やっと探し当てて来てみれば、こんな田舎島でナンパされてると来る。腹立たしいことこの上ないよ」
「田舎とはなに、ここには私の生家があるの、馬鹿にしないで!」
「馬鹿にされてるのは俺だろ? お前は俺の妻なのに、なんで旦那に何も言わずに逃亡してんだ?」
「馬鹿にしてるつもりはない、考えたいことが山ほどあったのよ。」
「へーえ。離婚について?」
「ちっ、ちがう! 誰もそんなこと言ってない!」
「なんにしろ説得力ないぜ、男にナンパされてんだからな。」
「ちがうって言ってるでしょう!? 話を聞きなさいよね、頑固者!」
「どっちがだ! 逃げ出した理由を言えよ、ワガママ姫!」
いつのまにか夫婦喧嘩が始まってしまっていた。しかも、二人とも弁がたつタイプなので絶望的に終わりが見えない。
ダイバー達はこそこそいつの間にか退散しているし、日は照ってくる一方だし暑いしで、私は美しい夫婦の辛辣な口論をBGMに惠にどうしよう、と聞いた。
「なんかすっごい状況になってるけど……とりあえず家に入れたほうがよくない?」
「そうだな」
この頃にはもはや隠しもせず声を上げて笑っていた惠は、ごめんごめんと眼に浮かんだ涙を手の甲で拭った。
「あー、おもしろ。すげえ毒舌。……そうだね、家に入ろうか。瀬川くんも長旅の疲れがあるだろうし、緋乃も肌白いから焼けるととんでもないことになっちゃうだろうしね。」
「笑いすぎよ! もしかしたら離婚ざたになっちゃうかもしれないのよ、惠!」
「ないでしょ。ピュア・エゴイストと、彼を愛してやまないお姫様。彼らはなんか、二人で一対って感じがするよ。緋乃は奥さんからお母さんに変わるようなつまんねえ女じゃねえし。」
そしてまたけらけら笑う。白い歯がまぶしすぎて、涙が光を弾きすぎて、私は眩暈がした。天がまわって世界が混乱する。まだ本調子じゃないことを思い出した。そして同時に、今朝は惠と瀬川くんと会ってからずっと、笑っていたことを思い出した。
本州だとみんなせかせかしていてあんまり長いあいだ一緒にいることはできないから、ここでの人間関係はすごく濃いものに感じられる。
だけど重くない。心地いい。
熱いけど、オーバーヒートは決してしないさらりとした熱。
「おーい、そこの夫婦! 暑いし、丹が疲れてるから、一端休戦して中に入りましょーよ! うまい果物があるよ~」
張りのある声を惠が上げて、緋乃と瀬川くんがこちらを見た。たしかにとてもよく似た色の、四つの宝石のような瞳が輝いていた。
「けっきょく、会えてうれしいんだね。」
なんだか馬鹿馬鹿しくなって私が言うと、惠はうんうん頷いてから、こう言った。
「痴話喧嘩、ってやつだな。」
ところで丹、あとで一緒に泳ごうぜ。