ひかりふる、
みんな何も言いませんでした
でもあたしは
みんなが何を言いたいかわかっていました それは、
“Say you love me.”
妊娠。
緋乃が? あのきれいなお腹にこども?
だとしたらどうしてわざわざ故郷に戻るの?
というかそもそも、惠は何故そんなことに気がついたの?
移動と水泳の疲れによってくたくたになっていた私は、惠の妙な一言によってノックアウトされ、翌日昼まで眠ってしまう……はずだった。
現実は違った。耐えず打ち寄せるやさしい波音のおかげで朝9時にぱっちり眼が覚めた。
起きてしばらくはぼうっとしていた。カーテンの向こうからでも強烈にその存在を主張する陽光と、どこか部屋の外、家のなかに響いている歌声に、自分がいまどこにいるのか本当に思い出せなかった。
あれ。ここ、わたしの家だっけ。お母さん、今日は体調がいいのかな、起きてるのかな。
そこまで考えて突如、頭から闇を浴びせかけられたような感覚にからだが戦慄する。
……そうだ、ここは島。わたしは一人になってしまったんだった。
それは動かせない事実であって、失ったものは取り戻せない、と私はもう何度もなんども絶望とともに実感したのに、またこうやって思い知らされてしまう。
悔しくて涙が出そうになるが歯を噛んでこらえ、神への憎しみを飲む。
そうしてしばらくじっとしていると、不思議なことだが、止むことのない穏やかな海の音が、行き場のない後悔と悲しみに八方ふさがりになってしまっている私の心を包み込み、ひたひたと守ってくれるのがわかった。
本土だと、それがいっとう大事なことのように感じられて、捨てられないこと。
もっと家族に何かしてあげられたんじゃないかとか、もっと優しくすればよかった、母の病気は私が招いたんじゃないかと思うこと。
そういうこと一切が、海のそばだと、首のまわりから離れて流されていくのがわかった。
とても楽になると同時に、とても切なくて、私は黙って目を閉じる。自分の肉体が融けて、魂とか精神だけの存在になって、この地に雑じるのを感じる。
でも、なにもかもがとろけてわけがわからなくなったその状態の中に、時おり強くきらめく閃光があって、私はそれを忘れたくないから眼を開く。手を伸ばす。
感謝とか、家族の思い出とか、今ここに生きていられる喜びとか、これからもそういうものを作り出していける可能性とか。
強くなって、この手から、離したくないと思っている。
ショートパンツとタンクトップに着替えて起きていくと、きらきらまぶしい日差しの中、緋乃が庭に水をやっていた。大きな帽子をかぶって、長いスカートにキャミソールという南国らしい恰好がすっかり島人らしかった。
「緋乃」
と、縁側に足をかけて呼ばわると、彼女はホースを片手に振り向いた。そしてあでやかに笑った。水のこまかい飛沫がプリズムのように光を反射させて彼女を彩った。
「あ、丹。おはよう。よく眠れた?」
「うん、すごく。……そしてよく起きれた。感動してる」
「ちゃんと食べて、ちゃんと動けば。人間は健康でいられるのよ。きのう夕食を食べさせたのがよかったのね、きっと」
「緋乃、朝ごはん食べた?」
「まーだよ。これから作るわ」
「あ、いい、いい。今度はあたしが作る」
妊婦にそんな労働させられない、と思ったのは口に出さず、私はそう言った。大体また彼女本人の口からその事実を告白されたわけではないし、惠の思い違いかもしれないのだ。
台所に立っていって何があるかと冷蔵庫をのぞく。惠が持ってきた大量の野菜以外には、やはり彼が持ってきたのであろう瓶入りの梅干と漬物などがあったが、それだけ出すのではじじばばの食卓だ。ちょっと考えた結果、冷や汁を作ることにした。暑くなりそうだし、これなら朝から野菜が食べられる。
古びた銀色のキッチンでさくさく野菜を刻んだり、梅肉をすりつぶしたりしてせっせと料理していると、緋乃がやがて水まきを終えたらしく家の中に入ってきた。豊かな深い声でムゼッタのワルツを歌っている。上機嫌らしいのは明らかだ。
台所にいる私の手元をのぞき、フムと頷くと、「冷や汁。何年ぶりかなー」と笑いながら彼女はお皿を三枚取り出した。
三枚ということは惠がまた来るのか! となかば喜び、なかば呆れつつ、私は黙って料理を続けた。
しかし内心では、緋乃の下腹に宿っているかもしれない新たな命が気になって仕方がなかった。
彼女の、ほそくて白い優雅さにみちた指にはめられた、金輪の話を聞きたかった。その恋の話を。
自分であたらしい命を生み出すことができるというのはどんな気持ちなのか、心からたずねてみたかった。
ねぇ、緋乃。
……それはわたしにもできること?
「丹、今日はなにをするつもり?」
いただきます、と両手を合わせた後、箸を取った緋乃はいきなり言った。
私は自分で作った冷や汁の味を見ながらしばし逡巡する。
「なにって……うん、おいしい。ちょっとしょっぱいかな? ……なにもすることないから、ぶらぶらする。ごろごろする。泳いで、散歩して、寝て、また泳いで。」
「めぐとは遊ばないの?」
「来たら遊ぼうかな。彼、ひまそうだしね。緋乃はどうするの?」
「泳ぐ。あと、お客様から逃げる。」
「おきゃ? 逃げる?」
「うん。怒り狂って飛んでくるのよ、文字通り。会わす顔がないの。だから丹、できるだけメグと一緒にいてね。あたしと一緒じゃきっと身内の論争に巻き込んじゃうから、逃げて……」
「まって、ストップ、話がサッパリ。お客様ってだれ? なんで逃げる必要があるの? それに身内の論争ってどういう」
意味、と聞こうとして、私はその瞬間自分の質問の答えを自分でわかってしまった。
身内。
こんなド田舎島まで彼女を追いかけて、なおかつ怒り狂うだけの理由を持っている人物。そんなの一人しかいないではないか。
「もしかして旦那さん?」
聞くと緋乃はうっ、と詰まったが、見る間に意気消沈して、存外すなおに認めた。
「……そう。よく、わかったね。というか、よく知ってたね。私が結婚してたってこと」
「惠から聞いたよ。だめじゃん緋乃。緋乃が結婚するくらいの旦那様なんだから、相当レベルの高いひとなんでしょ、あんまり勝手なことすると嫌われるよ。どうしてフランスに置いてきちゃったの?」
「あの、ええと、なんていうか……」
緋乃は驚いたことに、まるで少女のごとくじわじわと赤くなった!
「うん、すてきな、人、なんだけど。愛してるんだけど。すごくすごく。大好きでどうしようもなくて、たまに何も手につかなくなっちゃうこともあって、そんな自分が嫌になる位なんだけど、でもなんて言うか、彼に非はまったくなくって。私の問題なのね。私が一方的に抱え込んで悩んでるだけなのね。故郷に戻りたかったの」
「なぜ?」
彼女の熱烈なご主人への愛に仰天しつつも、私はチャンスを逃さなかった。
緋乃の白い頬はいまや薔薇色に染まっていた。愛らしくもそれが他人の男のものと思うと妙になまめかしく眼に映る。うつむいた首筋のなめらかな曲線、ほのかに光る肌までもが紅い。
彼女は、決心するように息を吸い、それからちいさく呟いた。
「……あのね、丹。」
「うん?」
「赤ちゃん、が、できたみたいなの。わたし。」
惠の勘は当たっていた。
そのことにかなりのショックを受け、またそんな自分にも驚きながら、私はとりあえず頷いてみせた。緋乃は真っ赤になって頬に手を当て、なんだか泣きそうに目を潤ませている。
そんなに恥かしがることじゃないのに……
と、思ったので、実際それを口に出してみた。
「でも、おめでたいことなんじゃない? 結婚してるんだし、妊娠するのは当然の話でしょ。そんなに照れることでもないよ。子供じゃないんだから」
すると緋乃は猛然と首を振った。黒絹のようにつややかな髪の毛が柔らかにゆれて甘い香りがこぼれた。
「ちがうのよ! 恥かしいわけじゃなくって!」
「じゃなくって?」
「怖いのよ、わたし!」
きっぱりした、それは断言だったので、私は思わず返す言葉を失った。
緋乃は誇り高く孤高な女性なので、自分という迷宮の出口を他者に求めたりすることは決してない。その身にどんな理不尽なできごとが起きようとも絶対に負けはしない女性なので、いまのように弱音を吐いたということは、相当まいっているということなのだ。
旦那とうまくいっていないとか、慣れない外国暮らしが嫌とか、若すぎて母になりたくないとか、そんなくだらない問題ではなく、緋乃はもっと、その魂の底できらめく黒いものを見たような顔をしていた。
怯えきった顔だった。
私は何も言えずに黙ってしまった。彼女も、黙った。
急にしんとした家の中を、夏の香りをいっぱいに含んだ風が通り抜けていって泣きたくなる。
そのぬるさと触感のノスタルジー。
外ではすでに白い道がぎらぎらと光り、石垣の傍でゆれる紅いハイビスカスが爽快な青空向けて咲き誇っていた。茂みの向こうに海を隠している、濃い緑の低木ががさがさと揺れるのを見たときには、私は心底ほっとしたのと同時に胸が飛び跳ねてしまった。
惠だった。
「おっはよーございまーす!」
焼けた肩に太陽を背負って、白い歯でわらう彼はなにものにも縛られず、その意志ひとつ、魂ひとつで自分の立つ大地を選んでいるように見えた。
惠はいい男だと思う。彼のイトコと同じ性質を持つその生き方。自由で孤独な、ふるさとを見限った悲しい眼。
だがだからこそ、彼がいの一番に緋乃の妊娠に気がついたことが哀れだった。かわいそうだった。
だって過去に同じ経験をしていなければ、男が女の妊娠に気がつくことなんてないだろう。
多くのものを捨てて、それでもここに居る。生きている。前を向いている。
惠も緋乃も、ほんとうに強い人間だから、だから私は彼らが好きだ。
「めぐ。……おはよう」
縁側から直接上がってきた彼を見て、緋乃が淡くほほえんだ。この島に来てからはじめて彼女が見せた、心細げな笑みだった。
「おはよー。お、冷や汁かー、いいな。俺んちなんて朝から漬物三昧だぜ、もう死にてえよ。ジジイになった気分だもん」
がさごそと音をたて、今日もまた腕いっぱいに島のおみやげを持ってきた惠からは、潮と太陽の香りがした。
胸が締め付けられるのを感じて、私もそれを無視するように笑った。
「今日は何もってきたの、惠?」
「今日はー、聞いておどろけ! スイカとパパイヤとマンゴーだぞっ」
「きゃー、パラダイスって感じ。さっそく食べよ、食べよ。」
「わたし、包丁とお皿持ってくるわ」
緋乃がそう言って立ち上がろうとしたが、私はそれを制して立ち上がった。
「いいよ、私がやるから。緋乃は座ってて。」
そして台所に立ちながら、風にひらひら揺れるのれんごしに大きく声を上げた。
「惠も冷や汁いるー?」
「いる! ついでに飯も。」
「現金なやつね」
「いいだろ、物々交換だよ。」
戸棚を開けて、フルーツ用のお皿とナイフを取り出した。お茶碗も出して、惠に朝ごはんを作ってやる。
ジジっ、と、甲高い鳴き声を立てて、ふと台所の窓のすぐ外の木、むくげの枝の上にちいさな鳥が舞い降りてきたのが見えた。まるまる太って、花の蜜をつまみ食いしている、と思ったら、またすぐに飛んでいった。
鳥も花もただそこにある。生きているから食べて、成長して、自分のために最もいい場所を求めてその腕をいっぱいに広げる。 妊娠を知った緋乃が、なぜこの島に来てしまったのか、私はなんとなくわかった気がした。
来たかっただけ。お腹の子にこの空気を吸わせたかっただけ。
それで、追いかけてきて欲しかっただけ。
なにもかも無償で光のように降ってくる、あたたかい雨が欲しかっただけ。