ウタ
神に撃たれ
星が 墜ちた
……わたしの星
食欲はまったくなかったのに、頂いたたっぷりの夏野菜は信じられないほどおいしく、わたしの半ば死にかけていた舌を蘇らせた。
胃があたたまり、豊かな苦味と水分、しゃきしゃきした歯ざわりの良さがどんどん箸を進ませる。緋乃が隣で満足そうに眼を細めていた。
知っている。彼女はわたしを案じているのだ。口には決して出さないが、かわいそうだと思ってくれているのだ。
だからこの島旅に誘ったのだ。
ありとあらゆるショックで右も左もわからないような状態の私だが、その優しさは素直にうれしいと感じられて、食後、また散歩に行った海で泣いた。
白いビーチは、すばらしい赤に染まっていた。
光が頬を、手を、むきだしの腕を差して押して来る。熱くて透明で、自分が輝いているような錯覚を起こすほど、幾百万のまたたく光を惜しみなく反射させる海。
美しいな、と感じた。思ったのではなく、全身の細胞がこの光景を吸収しているのがわかっただけだ。だからどうしようとも、生きてて良かった、とも別に思えない。感性と感情は別ものなのだわ、と私はぼんやり悟った。
心がかちかちになっている。
前向きにも後ろ向きにもなれず、ただ、目の前には今があるだけだった。今この、私を食べそうに雄大な、巨大に暴れ狂うこわいぐらいの夕焼けや、
緋乃の気高い、秘められた優しさ。波音。美味しかった夕食。島。惠。
未来なんて知らない。結局は『今』になっていくんだから。
砂浜にどさりと腰を下ろして、島に夕闇が降りてくるのを、夕焼けが青く濃くその色彩を変化させていく時の流れに、私は乗っていた。
どれほど時間がたっただろう。
気がつけば辺りはとっぷりと暮れ、私は歌をうたっていた。
名前もない旋律、ただ海を見ていたらその波に寄せて胸がくるしくて切なくてたまらなくなり、どうにかしたいと思った結果、唇が動き出していたのだ。
浅瀬にくるぶしを浸して立ち、腹の底から次々あふれてくるものを音に変えてつないでいく。
はじめは細く、ちいさく。次第に声量を上げて。
かつて、島の女たちが愛しい男たちが無事帰るようにと願いを込めて歌をうたったように、わたしは自分の肉声に海を渡らせようと試みた。
このはるかな水たまりの向こうにいる。
もう戻ってこない、けれどいつまでも忘れられない人たちが。
こんなに、こんなに愛してるよ。今でも
兄を思い出していた。両親のように向かい合った位置にではなく、常にわたしの隣に居た人。
惠は私をイルカと言ったが、実はその形容をいっとうはじめに用いたのは兄だった。
──名前は赤なのに、丹はほんと海が好きだよなあ、青が。イルカみたい。
男のくせに妙に感受性の豊かなひとで、様々な分野に対してハイセンスだった彼は、ロックに命をかけていた。いつか絶対ビッグになってやるぜ!! と星の如くに燃えていたあの生き方に、わたしはどれだけ励まされたかわからない。
そしてそう思っていたのはわたしだけではなかったらしく、彼亡きあと彼の音楽は惜しまれて一枚のCDに結晶し、無名なのにも関わらずじわじわと評価を集め、いまや大きなCDショップでも取り扱われているほどだ。
葬式にはたくさんの人たちがきて本物の涙を流してくれたし、母の葬式も手伝ってくれた。
私は彼が好きだったから、そういうこと全てを、胸がはちきれそうなくらい誇りに思う。
すごく仲良しだった。前に付き合っていた男に嫉妬されてしまったほどだった。カストルとポルックスの気持ちが切実によくわかる。
人は誰しも自分の家族に対等を求めるが、それがきょうだいとなると尚更だ。
お互いの成長を知っているし、本気で傷つけあったことが何度もあるし、子供だけが持つ無邪気な残酷さで消せない罪を共に犯した。
私にとって兄は星だった。常に自分勝手に光って、わたしを照らしてくれた星。
その輝きが永遠に失われてしまったことが、だから、ひょっとしたら両親を失ったことよりも今、この胸に痛いかもしれない。
「丹?」
夜の浜は白く光って見えた。波音だけがやさしく繰り返されるただなかに立っていると何も思い出さないということは難しい。兄弟間の愛情が男女のそれに置換できるとしたら、私は兄を今まで付き合ったどの男よりも深く愛していた。たとえ私たちが恋人になれたとしても、きょうだいとしての関係があんまり心地よくて、最高に楽しかったから、わたしはやっぱり兄ときょうだいになりたいと思っただろう。
そういう感情だった。
あたたかくて、気取りがなくて、一緒に生活して、生きていることまるごとを包括したようなきらめきに満ちた。
「惠くん?」
後ろから聞こえた強い声にわたしは振り返って言った。
惠の姿はほとんど見えなかったが、その独特の声は聞き違えるはずがなかった。
「うん。緋乃が心配してるから探しに来た」
「帰らなくていいの?」
「ヒマなんだよ。売れてないもんだから」
「なるほどね」
くすっと思わず微笑むと、闇が幾層にも積み重なった向こうで惠も笑ったのが感じられた。
出会ってまだ何時間にもならないが、彼が既に心を許してくれていることを私は肌で感じ取って知っていた。
「きみの歌を聴いた」
ぱしゃぱしゃと音をたてて上がっていった浜で、惠は仰向けに寝ころがった。私もその隣に腰を下ろして言った。
「盗み聞きはよくない」
「あんだけ大きな声で歌ってたら誰にでも聴こえるよ。実際、緋乃は家ん中で興奮してたぜ」
「あら。具合わるいのにね、やなことしちゃったわね。」
「うん。……なぁ、丹、気がついた?」
「なにを?」
惠の大きな手のシルエットが白い砂の上を落ち着きなく動いているのを目で追いながら答えた。
ごつくて節くれだった中指に銀の指輪がはまっているのを発見して、そういえば緋乃も指輪をしていたことを思い出した。
左手の薬指。上品で控えめだが、見るからに豪奢で精緻な金細工。
「緋乃が俺たちにまだ言ってないこと。」
指摘された内容でまず思い立ったのは恋愛沙汰だった。
緋乃はあれだけの美人だが、その美しさはゆき過ぎている感があって、大抵の男は物として彼女を見ている。とてもきれいだ。スタイルもいいし色っぽい。頭のよさそうな顔をしてるけど、見た目だけかな。気が強そうな口だなぁ、軽軽しくは誘えないタイプだな。
「あたしの知る限り、緋乃を真剣に、その人格の根っこから見つめてくれて、なおかつ愛そうとしてくれた男はいなかったわ。みんな見てくれだけ考えて、緋乃を自分の隣に置きたいとか、そういう風に考えてる馬鹿者どもはいっぱいいたけど。だから彼氏なんてずっといなかったし、彼女も作りたいとは思ってなかったと思う。」
私が言うと惠は砂をひとつかみ、宙に投げた。反射する光がないその乾いたしぶきは、さらさらとあっけなく彼の手からこぼれおちて消えた。
「じゃあ、そこからして丹は知らないのか。」
「予想はつくけど。結婚したの?」
「そう。去年の今頃にね。本州で。いい式だったらしい。俺は行かなかったけど」
「旦那さんはどんなひと?」
「カッコいい男の子。可愛いとかじゃなくて、男らしくて、見るからに意志が強そうな。一度島にも来たよ。ハネムーンはいらないから、故郷を見てほしいって、緋乃が甘えたらしくてね。家はフランスにあるのに、彼はわざわざ来てくれた。」
「そう。……会いたいわ」
「会えるんじゃないかな。近々。だってさぁ、丹。俺の勝手な予想なんだけど、緋乃が俺たちに言ってないこと、いきなりこの島にきみと戻ってきた理由って、たぶんさ。」
回る天に星がきらめく。砕け散ったガラスのように。
顎を上げて夜空を見上げ、私は空に手を伸ばした。濃密な空気に、潮の匂い。ふれられそうななにかがこの身のまわりに満ちている。
「たぶん?」
聞き返すと、惠ははじめて、言葉につまった。
沈黙し、波音を聴くようにたっぷり何十秒も黙ったあとで、罪を告白するような調子でこう言った。
「子どもだと思うんだ。」
緋乃は、妊娠してると思う。