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恋しあかばな  作者: 小糸
20/21

美ら影

 

「丹がいつか結婚する時には、俺にバージンロードを譲ってよ」


 瀬川くんが言った。

 翌日、すっかり回復して元気になった奥さまとともに、一足先にこの島を発つ私と惠を見送りに来てくれたのだった。

 時刻は昼だ。腹がたつほどにぎらぎらと晴れ渡った空の下、私も笑った。

 とても悲しい別れのシーンのはずなのに、いくら体のうちを探ってみても涙の影は見えなかった。もう泣かないと故意に決めたわけではない、完全に前向きになっているだけだ。

 わたしの結婚式に出られる親族は確かにもういない。

 でも、友人だけで行う式というものもまた美しいではないか。そう思える。


 この島での数日間を真珠色に輝く濃い液体として、私は飲み干す。

 そしてその真珠色のものの名前をそのまま、本土へと持って帰る。


 そう思って眼を細めたとき、桟橋の先で惠と犬を抱いてはしゃいでいた緋乃がこちらへ駆けて戻ってくる姿が見えた。鮮やかな赤いスカートが海風に揺れている。


「ねえっ、丹、わんちゃんの名前は決めたの?」

「うん。」


 昨日の今日でこんなに走り回れるなんて、やっぱり緋乃は普通じゃない、ものすごくたくましい人だ……と思いながら私はうなづいた。

 彼女は、私と同じく名前に赤を抱く人。生の色に支配されている、悲しくも強いひと。

 だから永遠に彼女とはわかちあえるだろう、この島の旋律を、花の色を、海の果てに存在するであろうニラカナイの尊さを。

 そのことがうれしかった。


「決めた。光」

「ひかる?」

「そう。」


 私は緋乃の腕から子犬を受け取りながら喋り始めた。

 けっきょく、この子は私の犬となった。

 子犬の親犬とその飼い主がどさくさにまぎれてだが判明したので、きのう会いに行ってわんちゃんを返そうとしたのだが、子犬自身がわたしを選んでしまったのだった。


 飼い主は都会から越してきたという中年のご夫婦で、犬を連れて浜辺に遊びに行った際、子犬が行方不明になってしまってずっと探していたと言った。だがまだ越してきたばかりで島の内情がよくわからず、捜索が難航してなかばあきらめかけていたところ私が訪ねてきたらしく、二人とも涙を流して喜んでいた。


 が、この馬鹿犬、なぜか彼らより私を選んだ。


 私が彼らの家を去ろうとしたとき、ものすごい勢いで吠えまくり、足元にじゃれついて離れようとしなかったのだった。

 ご夫婦は驚き、ちょっぴりさみしそうな顔を見せたが、わたしが子犬を助けたという話を聞いたばかりだったので納得したらしい。けっきょく「その子をお願いします」と頭を下げた。

 そして現在に至る。というわけだ。


「私ね、闇を吸ってしまっていたの、ずっと。悲しみに捕らわれて。長い長い時間をかけて死に続けていたの。体の内が腐っていくのがよくわかったわ。この島のなにもかもが、訪れたはじめには指先にさえ届かなかったのよ」


 わたしは子犬のぬくもりを胸に感じながらしゃべり続けた。

 緋乃はその大きな星のような瞳をいっぱいに見開き、私から目をそらさずに聞いている。と思ったら、瀬川君がおもむろに近づいてきて彼女の腰に腕を回し、背後からぎゅっと抱き締めた。

 いつでも一緒にいるよ、同じ方向を見据えて同じ音を聴こうとするよ。

 だから行かないで。離れてしまわないで。

 そう、彼のしぐさ全てがせつないほどに語っていた。


「……でも、あなた達や惠と出会って」


 私はますます眼を細めて言葉をつづけた。惠が、いつの間にか、すぐ近くに寄り添っていた。そのぬくもりを日焼けした肌にやわらかく感じながら眼を閉じる。

 神さまが近くにいる気がした。

 この白い光の中で私たちを見つめて、嘲笑っているのか祝福しているのかはわからないけれど、いまそれぞれの旅路に出ようとしているこの四人に、その存在は確かに大いなる静けさをもたらしてくれていた。


「少しずついやされた。憎んで、吐いた。愛を見たし、泣いたし、好きな人ができた。嫌なこともうれしかったことも全部ひっくるめて全て、わたしのこれからを照らす光になったの。いま、私の体のなかには確かに太陽が戻ってきてる。だから、もう、見失わないで行くの。そういう意味でこの子はわたしの光のひとつ。本土に連れて帰って、ちゃんと一生を見届けるわ」


 瀬川夫婦はうなづいた。私の言っている言葉の意味を、彼等はきちんと受け止めてくれたことと思う。

 きっとフランスの自宅に帰って、いつも通りの日常に戻り、働き、休み、食事をする合間合間に、私のことを話すのだろう。惠の事も。


 ふたりとも元気かな、うまくやってるかな。

 この子が生まれたら会いに来てくれるかな? 


 そんな風なやりとりをして、大きくふくらみはじめたお腹を二人で撫ぜるのだ。

 とても遠いようでいて、それでいて近い絵。


「会いに来るよ。だから、会いに来て、丹。必ず。」


 瀬川くんが言った。その言葉に嘘の響きはない。この夫婦が喋ることはすべて、腹が立つほどに真実だ。だからこそ私は彼等のことを心から愛している。

 うん、と頷いて、きゃんきゃん鳴く犬の頭を撫でた。


「必ずね。ふたりの赤ちゃん、見たいし。落ち着いたら連絡する。大学に戻ってしばらくはばたばたすると思うけど。」

「待ってるわ。ねえ、この島に一緒に来てくれたのが丹で、ほんとによかった。」

「ありがとう。私も、そう思ってるよ。緋乃」


 微笑み合いながら言葉をかけあう合間にも、フェリーが輝く波の合間を縫って港へと近づいてくるのが見えた。この後わたしと惠は船で本島まで渡り、那覇空港から飛行機を経由してそれぞれの場所を目指す。

 かたや千葉、かたやアメリカという違いはあっても、私と彼には共通した衝動があった。

 それは何もかもを失った人間が世界の上でじたばたするヤケクソ加減ではなく、むしろ世界に挑んでいく、失うからこそ何かを得ることができると知っている、不思議な希望のようなものだった。

 まっすぐではないが天高く伸びて、ひとつの方向を目指している。


「じゃあ、そろそろ行こうか。」


 惠がはっきりとした声で言った時、私ははっと顔を上げた。フェリーの姿が視界をいっぱいに占拠するほど近づいていた。

 思わず瀬川夫婦の顔を見つめ、微笑みながら光を抱き直す。

 別れの瞬間、胸がいやな感じにはやるのはどうしてだろうと、子供のころからずっと不快に思っていた。

 でも父を失い、兄を失い、母を見送ったいまの私ならその理由がわかる。

 置いて行かれたくないからだ。

 そして、置いて行きたくないからだ。人間は誰しも。

 長い人生のなか、出会いというものが淡く発光する夜光虫の魂のようにもろく、短く、だからこそ美しいものだと知ってはいても、さびしくてどうしても泣いてしまうのだ。


「瀬川君、緋乃、元気で。いつまでも仲良くね」


 惠が瀬川夫婦をそれぞれ抱きしめている脇で、わたしはボストンバッグを肩にかけて足もとのコンクリを踏みしめた。今や完全にその姿を現したフェリーを見つめる。

 もしこの船が那覇につくまでに沈没したら私は本望だろうか、と考えて、とっさにいいえ、と答えが出た。本望なんかじゃない。

 少し前までならきっとそう思っていただろうけれど、今の私は知っていた。

 自分の命が自分ひとりで形成されているわけじゃないこと。親から、きょうだいから、そして恋人に友人から、その命のきらめきを分けてもらって生きていること。

 命は、すべてつながっているのだ。


「丹」

「はい。」


 惠に呼ばれ、私も瀬川夫婦と最後の抱擁を交わした。彼等の肉は熱く、やわらかで、とてもよく似ていた。


「じゃあ、また。」

「うん。……また」


 言葉はお互いに、もう出つくした感があった。短く微笑みあうと私たちは離れ、いやにあっさりと握手をした。

 フェリーがもうすぐ出立だという意味の汽笛を鳴らす。

 瀬川くんが、最後に光を抱かせてと言ったのでそうさせてあげた。


「なあ、おまえのお陰でみんな、この夏が忘れられないもんになったよ。ありがとうな!」


 彼は子犬の濡れた黒い鼻に自分の高い鼻を押し付けて、白い歯を隠しもせずに笑った。

 胸に押し寄せる波を感じ、私は思わず空を見上げる。惠はほほえんで、一足先にフェリーに乗り込んだ。


 そして緋乃は……


 彼女は、下腹部に白い手をあてていた。

 まるで聖母のような微笑みをたたえ、私がこれまで見たどの瞬間の彼女よりも清らかで強い、最高にきれいな表情をしていた。


 この人を好きになってよかった、生まれてきてよかった。そんな顔。


 白い鳥が一羽、大きな翼をはばたかせて空を横切って行くのに合わせて惠がシャッターを切った。

 わたしは、ずっと自分の手足を縛りあげていたなにかとても重いものが、音もなく砕け散るのを感じた。瀬川くんの手から光を受け取り、フェリーに乗り込む。そして惠の横で、緋乃にはきっと及ばないだろうけれど、自分にできる最高の笑顔を浮かべてみせる。


「じゃあ、本当に、さようなら。」


 船の上から、いつもより尚一層張りのある声を上げて惠が手を振った。瀬川夫婦も短く手を振った。彼等もきっと、別れの記憶はあまり好きではないのだ。


「会いに来て下さい、必ず。いつか二人で」

「うん。手紙をくれよ」

「あなたもください」

「書くとも。皆に、写真付きでね!」


 惠が笑いながら言った、その言葉が最後だった。

 フェリーが動きだし、白く輝く太陽めがけてその舳先が波をゆっくり切り裂き始めると、あっという間に波戸場はちいさく遠ざかった。


 私と惠は手を振るのを止めるとそれぞれに、遠ざかる島のシルエットをずっと見送っていた。



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