HIBISCUS・SYNDROME
花であって、丹。
すぐに散る、よわい、だけどまた絶対に咲く、強い花になって。
私はあなたに花であってほしいの。だからそんな名前をつけたのよ。
夏が来る。
あざやかに残酷に、弱い私たちを押しつぶすそれが。
私は夏がきらいだ。光が強すぎて誰もが輪郭を曖昧にし、アンモニアの匂いのなかでだらだら惰性の関係をつないでゆくから。
特に今年の夏はきっと最悪のものになる。わかっている。
けれどだからこそこのみじかい初夏の記憶は、てっぺんから海しか望むことのできない島の灯台のように、わたしを照らし、支えてくれることだろう。
悲しかった。切なかった。何度も泣いた。出会いがあった。
楽しかった。
永遠の初夏。
「……そっか、良かった。……うん、うん。じゃあ、今夜またそっちに行くから。うん、本当に良かった。やっぱり緋乃は強いね。……え? うん、わかった。じゃあまたあとでね」
緋乃の家に戻ったあと、瀬川君から電話がかかってきた。緋乃はやはり乗り越えてくれたらしい。
瀬川君はもう取り乱しておらず、普段のあの完璧な冷静さでご迷惑おかけしました、と告げ、これで安心して家に帰れますと息を吐いていた。
聴けば彼ら夫妻は三日後の便でフランスへ帰ることに決めたらしい。つまり緋乃はそれぐらい鮮やかに体調を回復したということだ。恐ろしい話だ。
まあしかし、これからも瀬川夫婦はその強烈な性格で多くの事件を呼び寄せ、だがそのたび確実に強くなっていくことであろう。
きっとこの島でそうであったように、本気で怒鳴りあって傷つけあって、だけどお互いの手はぜったいに離さずに、何度も滅んではよみがえることを繰り返してゆくのだ。
──不死鳥のように。
「惠! 緋乃、大丈夫だったって」
電話を切った後わたしは惠に告げた。彼は電話の間中、全身に緊張をみなぎらせて私を殺しそうな瞳でにらんでいたのだ。
「……そっか……よかった!」
私の言葉を聞くや否や彼は畳にべったりと突っ伏してそうつぶやいた。相当気を張っていたのだろう、かすれて情けない声をしていた。
「もうぴんぴんしてるってさ。夫婦そろって三日後にはフランスに戻るって」
「そっか。本当に良かった。じゃあこれで俺たちの初夏もおしまいだな」
「そうね。ねえ、惠。あたしの名前はあかばなのことなの。丹花の丹」
我ながら驚いたことに、わたしは唐突にそんなことをしゃべりだしていた。急に空気の流れが変わったのだ。
惠が顔を上げ、ほんのわずかその眉を持ち上げたのが見えた。奇妙な間が生まれる。
彼は畳の上で寝ているわんちゃんの丸い額に手を伸ばすと、ゆっくりと、いとおしそうにそこを撫でた。知ってるよ、とちいさな声が耳を打つ。
私はうん、と唇を笑みのかたちに持ち上げて、ついさっき庭から摘み取ってきたハイビスカスを水を飲むコップに落とした。大輪だが太陽の熱にやられて少し花弁が乾き、縮れている。透明な水のなかでそれはゆっくりと回転し、窓からの陽光をきらきら反射させながら動いた。
パレードの終わりに見る、メリーゴーランドのように。
「あたしを生んだ時ね……お母さんはすごい難産で、十何時間かかったらしいの。ずっと分娩台の上に磔にされて、ほんとうに辛かったんだって。死にたいぐらいだったんだって。でも、そんなに苦しくてもあたしのことは絶対生みたかったらしいんだけどさ。」
私は惠に背中を向けていたが、彼がちゃんと話を聞いていることをよくわかっていた。だから話し続けた。
「でね、その時、病室の窓からハイビスカスが見えてたんだって。朝から晩まですごい痛みに苦しめられて、薬と血の匂いにもうろうとしながらお母さんは気がついたらそのハイビスカスばっかり見つめてたんだって。」
「……生々しい話だな。だからハイビスカスなの? 名前の由来」
なんかそれって嫌だね、と苦笑したような音を惠はたてる。私はうん、とうなづいた。
「まあ、そうなんだけど。最後まで聞いてくれる? ふつうハイビスカスって一日草でしょ。」
「いちにちそう……ってなに、一日しか咲かないの?」
「そうなの。朝咲いて、夜にはしぼんでしまう花のことをそう言うの。」
だから、ほら見て。これももうしぼみかけてきてるでしょ。
そう言って、私は手もとのハイビスカスを惠に見せようかと思った。何と言うことはない行動だ。
しかしできなかった。
もう惠の眼を見つめる勇気が、私にはなかったのだ。正面から彼と向き合いたくない。恋を惜しむのは、離れたくないとガキのように泣くのだけは、絶対に嫌だった。
もう会えなくなるのに。
私たちは砂の上でたった一度愛しあおうとすら思わない。
だって、立ち止まれないのだ。やらなければいけないことがあるのだ。これから見つけていきたい夢がある。絶望的に走り続けていたい。
今、こんなに汗の匂いとか海の音とか、土のほこりっぽさとか、窓から見えるムクゲの花が揺れる様子とか、ちゃんと全部感じているのに、それはあくまでも借り物なのだ。ただの舞台。わたしたちが命を生やすことのできる場所じゃない。
「……それで、だから。ハイビスカスは一日草なのに、母が私を生んだ日に、夜までずっと咲き続けているハイビスカスがあったんだって。病室の窓から見えた花の群れのなかに、たった一輪だけ。たぶん単に気候の問題で咲いていたんだと思うんだけど、母は素直に感動して、勇気づけられたらしいの。だから私にそんな女の子になってほしくて、赤い花、ハイビスカスっていう意味でこの名前をつけたんだって。」
私の、声が、がらんと広い緋乃の家に響き渡っている。凛と澄んだ美しい声だと思った。きっと数日前にこの島の土を初めて踏んだ時とは全く違う声なのだろう。私は変化してしまった。島に癒され、死を憎み、恋を見つけ、友情と愛を知り。
「……サイテーな名前だな。」
かなりの間を置いたあと、ゆっくりと、かみしめるように、惠はそれだけを答えた。だからお前は丹なんだ、と。私はまたしても頷くことしかできなかった。今や喉元まで彼への好意がこみあげている。
吐き出せない。ただ、悲しい旋律として紡ぐことしか許されない。
この初夏のように酷な私の恋。
「丹って名前をつけられたからお前がそんな性格になったのか、それとも、元々そういう性格で、名前のせいでそんな人生を呼び寄せちまったのか、どっちなのかはわからないけどさ。でも、ひどい。サイテーだ。お前の親を……少し恨むよ。丹。
花はすぐ枯れるのに。摘まれるのに。切り取られて、醜い人間のさらしものにされるだけなのに。」
泣く事を許してほしいと私は思った。誰に?
惠にではない、死んだ親にだ。
彼等が与えてくれた名前を大好きではあるが、今はどうしても惠寄りの気分になってしまう私は、今だけ思いきりその意見を肯定したかった。そうだよと。さびしくて辛かったんだと。ほんとは誰かに抱きしめてもらいたくてたまらなかったんだと。
だけど、やっぱり、言えない。
かわりに口をついて出てくるのはこんな言葉ばかりだ。
「でも、枯れるからこそ強くなれるでしょ。よわくてもろいし、腐ると花ってすごく臭いけど、大地に溶けてまた新しく咲けるでしょ。摘まれても。たとえ切り取られても、時間をかけて何度だって咲けるのよ」
惠は何も言わなかった。その愛しい沈黙に、わたしは惠にずっと会いたかったんだ、と思い知らされた。
彼の存在を知らない時代からずっと、本能──意識の深い底──で、あるいはただ、直感で。
わたしはこのひとと出会う事をきっと願い続けていたのだろう。
「……お前が、歩いてきた道を思う。もっと楽にしてあげたかった。もっと笑わせてあげたかったな。それだけだよ」
ひっそりと惠は言った。日が傾き始めていた。
思ってもみない返答に、夢が流れていくように涙がほほを流れてゆく。
もう終わる夢。ぬるい水の底で泥に埋まって見上げた、美しい波紋が織りなした劇。
あるいは、もう、それは終わってしまったのだろうか。
「誰も死なせないでさ、涙なんか流させないでさ、幸せに……しあわせでいてほしかった。そう思うんだよ。誰のせいでもない。わかっちゃいるけど」
「惠……ごめんね。離れたくないって、言えない」
「うん。それがお前なんだ。丹なんだよ。だから、好きだ。だから──すこし、憎い。」
そこで私たちは今度こそ口を閉じた。
お互いに顔を見ず、眼に浮かぶものを拭おうともせずに、きっと声なく泣いていた。だけど抱きしめあうことも、口付けも、二度とできない。
だって今や過去より、未来の方がずっと長いもの。
そこでまた、どうにかして出会い直したいんだもの。
だから今この瞬間をこのまま封じ込めて取っておきたいの。
感情なんてそんなもの、犬の餌にもなりはしないけど。
だけどそれでも私はやっぱり、いつも愛を信じられる娘でありたい。
「すき、だよ、惠……」
だけど、と唇を食いしばって、きつく食いしばってお互いに泣いたその瞬間、私たちは本当の意味で別れを覚悟した。
この恋を島の空に、海に、放って逃がした。