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恋しあかばな  作者: 小糸
18/21

風葬

 

 島風やさしく 花枯れて

 舞い上がる鳥

 翼折れても




 緋乃は宣言した通り、その一日を徹して子供を奪おうと枕もとにやってきた死神と壮絶な戦いを展開し、何度ももんどり打ち、絶叫しながら、それでも決してあきらめようとしなかった。

 大量の出血があったし、お腹を蹴られたのか母体には損傷があった。

 戦いは長引き、夜を超えた。

 医師も疲労して倒れた程の長い時間、緋乃は一睡もせず身を襲う苦痛と戦い、瀬川くんはまんじりともせず病院の待合室で待っていた。私と惠は休むようにと何度も勧めたが、彼はそのたび首をきっぱり横に振って待ちます、と言った。あいつが闘っているのに俺がそばにいなかったら意味がありません、と。


 太陽が沈み、なめらかな闇が島を包み、やがて再び朝がやってきた。海が夜をするりと脱ぐようにまた柔らかに輝き、鳥が喉を鳴らして歌い始めた。無常の空に舞い上がりながら、ずっと変わらないこの島の旋律を。

 私と惠は犬の事が気にかかっていたので一端緋乃の家に戻り、畳の上に並んで寝ころんだ。交わす言葉などあるはずもなく、ただ手をつないで、犬を間にはさんで、まるで生まれた時からずっとそうしてきた兄弟のように共に眠った。

 寄せては返し、またすぐに寄せるさざ波のような実に不快な眠り。私は何度もびくりと身を震わせては目を覚まし、息もできないほど怖い気持ちになって途方にくれたが、そのたび惠がぎゅっと強く手を握ってくれた。

 彼はずっと起きていた。きっと自分が見ることのなかった水子のことを想っていたのだろう。惠にとってもこの夜は戦いであったのだ。この島で私がずっと戦ったように。全ての世界のすべての人にとって夜が戦いであるように。

 もう本当に、この夢が終わりかけていることを私は理解していた。


「丹。丹、高いところへ行こう。」


 惠がそう言って私を揺り起こしたのは太陽が空のだいぶ上まで昇った頃だった。私は犬を抱きながら起き上り、開口一番、


「緋乃は?」


 と聞いた。惠は答えた。


「連絡ない。だめだ、このままここで待ってたら俺、発狂する。高い所に行こう、丹。海を見よう。お前と行きたい場所があるんだ」


 すらすらと健康的に惠は喋ったが、その声があまりにしっかりしているだけに私は彼がいまどれ程心痛めているのか逆によくわかって、「うん」と短く答えた。腕の中の犬も尻尾を振って喜んだ。緋乃が勝ったらこのわんちゃんに名前をつけるんだ。私は決めていた。


「ありがとう。行こう」


 惠は淡く微笑んだ。光に溶けてしまいそうな笑顔だったので私は彼に駆け寄り、軽く抱きついた。


「歩いていけるの?」

「うん。すぐだ。小さな島だからね」

「緋乃と瀬川君、大丈夫かな」

「そのことも祈りに行こう。拝所でもある場所だから」


 彼の太い指先が頭皮を滑っていく。その彼なりの愛の言葉を私は忘れないよう心に刻みつける。これから先二度と会えなくなるとしても。この体温を、この胸の鼓動を、嬉しさと悲しみの入り混じった苦い気持ちを忘れる事ができるような人間に私は絶対になりたくない。そうなる位なら死んだ方がいい。


「めぐみ、」


 ある言葉を伝えようとした私の唇を、惠は手でそっと押えて首を振った。今はだめだ、と。


「言うな。まだ、ここでは。」


 そして縁側から先の外、いきなり青く切り取られた空を見つめ、言った。

 行こう。丹。あの青の近くに。


 低い緑を掻きわけて、惠と犬と共に島を登っているあいだじゅう、どうしてだろう、私は父と母と兄をすごく近くに感じていた。一歩足を踏み出すごとにその感覚が強くなる。彼等に近づいていく気がする。海の匂いが、波音が、鳥の声が、太陽が、ひとつの頂点にむかって集約しようとしていた。感極まるのがわかる。

 ああ、どうしよう、聴こえる。

 聴こえる、永遠のさよならが。


「青い……」


 かなりきつい砂の坂道をトライアスロンのように登らされただけあって、たどりついたその場所はまさに絶景だった。

 島で一番高い場所にあるらしく、視界をさえぎるものは何もない。空がこの身の周りに広がり、眼下には濃い緑と海が広がる。ブルーグリーンの透明な層をたたえるその波間を、時々白いしぶきを上げて魚たちが泳いでいくのがわかった。


「うん。青い」


 犬が嬉しそうに声を上げて崖っぷちまで走って行き、何かに向けてしきりに吠えている。私はその場に呆然と立ちすくんだ。体の中が怒涛のようにうごめいて、今、確かな瞬間が訪れようとしていた。花の色がこの色彩の中に揺れている。

 花、赤い花。私の名前の由来の──。


「命はめぐるって、思った」


 惠は急に言った。震えを帯びた声だった。私は喉元を食い破ろうとしている激情に困惑するばかりで答えることができなかった。海を見ると泣きたくなる、そうなってしまったのは、皆がいなくなってからだった。

 私は海から生まれた。皆と同じように。だからいつかこの青に還る。それがこの島で思い出したこと、心がばらばらになって、手足をもがれた虫のように弱いわたしがかろうじて喰らい付くことのできたちっぽけな真実。

 でも、今は、今はまだ──還れないんだ。

 島を這うように吹き抜ける強い風が私の体の中にも吹く。それは多くの命に触れてきた風。この島で人が愛し合うことを、殺し合ったことを、赤子が生まれてくることを、花が咲いて枯れることを知っている風。この風が道を作り、人と人を出会わせる。

 足もとの白い砂が舞って、海を背景に散った。生物の内臓の味を覚えているだろう大地。


「形を変えて、何のつながりがなくても、でも巡るんだ、きっと還ってくる。また会えるんだ、何度でも」


 犬が鳴いた。ハイビスカスの茂みを駆け回り、大きなアゲハ蝶を追いかけてあっという間に視界から消えた。私は目を見開いたまま涙をこぼしていた。惠の方を振り返り、「聴こえる?」と訊く。


「聴こえる? 呼ばれてる、わかるの、バイバイって、言ってる。お父さん、お母さん、お兄ちゃん。」

「うん。……きっと俺の子も」

「悲しい、でも、あたしは追いかけられない」


 全身の感覚が解放されているようだった。

 花と海の匂いに息がつまる。目は青と赤と緑にその機能を失い、視界が暗くなった。灼熱の太陽が肌から肉ひだへと入り込んで私と惠を一つの塊として焼いていくようだった。


「死んでもいいよ」


 ぞっとするほど優しい惠の声が耳元に響いた。私は今や彼と溶け合うアメーバだった。


「死にたくない」

「じゃあ、俺と一緒に行くか? 島に残るか?」

「行けない。あたしはこの島で歳を取れない。やりたいことがたくさんあるのよ。会いたい人がいるの、伝えたいことがあるの。そうじゃないと惠にももう一度、会えないわ……そうでしょう? 緋乃と瀬川君の赤ちゃんに、会いたくない?」

「会いたいよ、当たり前だろう?」


 いつのまにか惠も涙を流していた。しかし彼の涙は私と違って静かなもので、ただ水が目からこぼれるだけの現象だった。しゃくりあげもせずに静かに泣く彼の姿に、私は彼がいままでどれだけ孤独な夜を越えてきたのかと想像した。この小さな島で。世界に忘れられたようなこの場所で、満天の星の下、惠はずっと自分を殺し続けていたのだ。

 私は彼の胸をどん、とこぶしで思いきり殴った。憎い。この世界が憎い。明日からまた、たった一人で東京の雑踏を一歩ずつかきわけていかなければいけないそんなこと、想像するだけで狂いそうになる。

 この島を残して地球など滅びてしまえばいい、と思う。けれど私はそれでも絶望的に世界を愛していた。

 怒りにまぶたを閉じるとき、真赤な闇の中にいつも、いつも家族の笑顔が浮かぶのだ。もう握りつぶされた人たちなのに、彼等のその瞬間は永遠に私の中で生きていく、種だ。私が死にそうになりながらも足を踏み出すたび、指の間からあざやかな緑の芽を伸ばして傷ついた肉を包んでくれる。

 私も種を蒔けるだろうか、と考えるのだ。生きてさえいれば。

 

「惠が、好きよ。こんなひどい時に会わなければきっと、もっとちゃんとあなたを愛せた。でも、いま、弱ってるけど、それでも今なりにあなたを愛してる。だけど行かなきゃいけないの。あたしは。そう選びたいの!」

「わかってる。そういうお前だから、好きになったんだから。」


 泣き叫ぶ私を締め付けるようにして更に強く抱き、惠も肩を震わせた。彼の肩越しに私は青い、酷な空を見上げる。見てろよ、これから挑戦していく、その傍に上り詰めてやる。飛んでやるんだから、災いに何度翼折られても。

 自信はあるわよ。

 私は溢れるほどの愛を、ちゃんと受け入れられたのだから。


「俺の写真は祈りだと思ってた。今まで世話になった人への、これから出会う人への。傷つけた人への。だから光ばかり追っていたんだ。馬鹿みたいに。やさしさが全てを包めると思っていた。でも違ったな。けっきょく、自分のために撮ってた。汚い言葉でしか言いあらわすことのできないものはあるんだと知った。これからは……先へ続くものを追おう。光もそうだ。闇もそうだ。人間が撮りたい。笑顔、涙、血、体液、嬌声、そういうもの。永遠の輪をつないでいきたいよ。ずっと続いていくものを」


 惠は言った。

 私を解放して、手の甲で涙を乱暴にぬぐい、そして小さく微笑んだ。


「お前のためだけに光を追うよ、これからは。」


 丹。

 僕の青から生まれた赤。


 きっと、手紙を書くよ。



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