ひみつの宝物②
血まみれの手 海に沈んでいく
さざ波が洗い流す
私の色
丹が助けたわんちゃんがいるでしょう、と緋乃が言ったので、瀬川くんを筆頭として私たち一同はきょとんとした。この状況で、お腹の赤ちゃんの事ではなくて犬のことを話すなどと、緋乃はほんとうに大胆な子だ。
だが難しい顔をしている私たちに気付いたのか、彼女はふっとやわらかく笑って、やあねと言った。それだけで張り詰めていた室内の空気がやわらいで、瀬川君の大きな背中が大きなためいきに揺れるのが見えた。
「大事な話なのよ。聞いて。あのわんちゃんを海に投げ捨てたのが誰か、私ね、わかったの。私が今日浜辺で遭遇した男の子たち。あんなふうに髪を染めたり真黒に日焼けしたりしてるからいくつなのかしらって思ってたら、ほんとはまだ子供なのよ。大学生になったばかり。近所のおじいちゃんおばあちゃんが毎年島に来ては騒いで、浜辺にゴミを捨てて行ったり、バーベキューした火を消さなかったりするんだってすごく怒ってたのを聞いてるの。ほら、私の祖父母はこの島で死んでいったから、島の人たちは私もこの島の娘だと見なしてくれてるのね。いつか神様の天罰がくだるだろうさって言ってたわ。私たちがあのわんちゃんを海から助けた時には、私はもちろん彼らがやったんだなんて思いもしなかったけど、今朝ね。つまりさっきよ。界と散歩していた時に彼らが浜で例の如く騒いでいて、なんだか海に色々投げたりして遊んでたのよ。まるで魔女のサバトのようだったわ。ねえ界?」
「うん」
瀬川君は短く答えたが、奥さんから一瞬たりとも目を離さず、緋乃のちいさな手を両手で強くつつみこんで、今は言葉などいらないと考えているのが明確だった。
きっと目の前に生きている緋乃がいることが、彼女がその空気を、声を、匂いを伴って確かにそこに一人の女性として存在していることが、今の彼にとっての命なのだろう。緋乃のために生きる、という彼の言葉は伊達や酔狂ではないのだ。
私は思わず惠に寄り添い、その手を求めていた。彼は何も言わず私の手を握ってくれた。
少し黙って息を喘がせた後、緋乃は続けた。
「それで、私たちはああうざい、なんてインモラルな奴らなんだって思って引き返そうとしたんだけど、その時、嵐が去ったばかりだから、私たちの他にも何人か周りに人がいたのよ。飛ばされた持ち物を取りにきた人とか、浜につないでいた船の様子を見にきた人とか。そういう人たちのなかに、散歩がしたくてたまらない犬を連れて家を出てきたご夫婦がいてね。立派なラブラドールを二匹連れていたわけ。」
ラブラドール、という犬種に私は当然反応した。あの可哀そうな子犬の出生を考えたのだ。惠の手を握っている手に思わず力が入り、全身が硬直するのがわかる。
「ご夫婦は慌ててたわ。何故かと言うと、二匹のうちの一匹がいきなり走り出してリードが手から外れてしまったから。もう一匹もまるで近くに敵がいるみたいにものすごい勢いで吠えて、浜にいた人たちは皆なにごとかって振り返った。私たちも例外じゃなかったわ。ご夫婦の旦那さんの方が犬の名前を叫んで追いかけたんだけど、砂に足を取られて転んでしまったのを見て、界が代わりに犬を捕まえた。私も彼の後ろを追った。
その時だったわ。急に、あの男の子たちが顔色を変えて、びくびくしながら何か小声でしゃべってるのが聞こえたの。すれ違いざま、『やべえ、あの子犬の親犬じゃね?』ってね。
私はぱっと振り返ったわ。どの子犬の事なのかぴんときたから。だって、この小さい島でラブラドールを飼っている人なんて少ないじゃない。それに男の子たちは素行を疑われてもしょうがないほどの不良……というか人間ができていない奴らだったし。とにかく、それで、男の子たちがこう言っているのを聞くのに間に合ったのよ。
『あっちの岬で見つけた犬?』
『そうだよ、怪我しててうじが湧いてた、きったねえ犬! 俺らのパン食ったからってお前が切れて、そのまま海に放り投げたじゃん。』
『ばーか、違ってたらどうすんだよ、犬なんていっぱいいんだぞ』
『そうだよ、馬鹿じゃねえの、どうせバレねえよ、死んだに決まってるし』
『大体あれはあのクソ犬のほうが悪かったんだしよ』ってね。」
緋乃は音楽家だけあって、言葉に抑揚をつけてわかりやすく簡潔に語るのがとても上手だった。男の子たちの言葉づかいなど本当にほんものそっくりで(いや、実際に聞いてはいないけどさ)私は胸がむかむか煮えくりかえった位だ。最も、その場に居合わせた人物は皆わたしと同じ心持だったろう。
絶句している私たちにむかっていきなりにっこり笑いかけると、緋乃が言った。
「さあ、これでわかったでしょ? 腐っても気が強い私がその後どうしたか。」
もちろん、わかった。彼女は男の子たちを許さなかったのだ。その場でまたビンタか、罵倒か、わからないが何らかの制裁を加え、結果として海に突き飛ばされる羽目になった。嵐が去ったばかりの冷たい海に、身重の体で。
私は瀬川くんがかわいそうになってしまった。
緋乃の子供は当然彼の子供でもあるのに、緋乃はそれを思い悩み、彼に何も告げないままそんな無茶をして、結果こんな風にみすぼらしい島の診療所に横たわるはめになっている。
正しいことを正しいと主張して周囲を変化させることができるのは緋乃の素敵な部分だが、旦那さんのことを考えれば彼女はさっきそうすべきではなかった。
人をほんとうに愛するということは数多いる自分のうちの何人かを殺すことができるということだ。何かを手放せるほど愛さなければ、その恋によって得たものを守ることはできない。
でも緋乃はそうできなくて、だから、瀬川君に消えない傷をつけてしまった。
「……界。ごめんなさい」
提示部を終えて、緋乃は旦那さんを見上げた。瀬川くんの大きな背中はさっきからぴくりとも動かなかったので私は彼が怒っているかと思ったが、実際はそうではなかったらしい。逆だ。
瀬川君は、泣いていた。
惠がそう私に伝えてきたし、次に彼自身が発した声は涙に潤んでかすれていた。
「それで、お前はどうしたいの? 緋乃」
「……私ね、この島を捨てる。もう戻らないわ。」
緋乃は宣言した。それは私たちがつい今朝に話し合ったばかりの重大な決意だったので、私と惠は思わず繋いだ手に力を込めていた。
不思議なことだ。同じ朝にみんなが一斉に、同じことを考えていたのだから。
いや、もしかしたら、今朝に始まったことではないのかもしれない。
私たちはこの島に集った瞬間から共鳴し続けて、海の繰返しを、空の永遠を、ともに心に刻み、同じことを思っていたのだろう。
それぞれが抱える心の闇は全く違うかたちをしていても、きっと皆闘っていたのだ。
「あなたからもう、逃げないわ。ずっと自分がどこかへ帰れるんだと思って来たの。だけどそうじゃないのよ。場所が始めにあるんじゃないの。自分が帰る場所が大切なふるさとになるだけなのよ。私は、あなたを、受け入れていなかった。あなたはあまりにも私だけを愛してくれるから。他を排除してでも私のために何もかもしてくれるから。だから後ろめたかった。でも、わかったわ。そう感じていたのは私がずるかったのね。自分では何も決められなくて、あなたが行動するのを待っていた。甘えていたのよ」
気がつけば緋乃もまた涙を流しながら瀬川君の顔に手を伸ばしていた。
瀬川君は黙って身を屈め、彼女を抱きしめた。両腕を広げて、今までずっとそうしてきたように。始めからずっと、そうし続けてきたように。
「界。大好きよ。ごめんなさい、いつも傷つけてばっかりで、ちっともあなたの優しさに応えられなくて。でも、愛してるの。結婚してくれてありがとうって毎日思ってるわ。」
俺もだよ、と瀬川くんは小さい声で言った。ほとんど消えそうな声だったが、なぜかその声は耳に届いた。
私は惠をつついた。出ていくべきなのはさっきからわかっていた。
この夫婦はこれから山場を迎えて、また変わっていくのだろうし、それに私たちもまだ、話すべきことがあるのだ。
「海が恋しい。でももう必要ない」
「……ひぃ」
「だって、あなたが私にとっての海なんだもの。いつでも両腕を広げて、こうやって迎えてくれる。安っぽい言い方?」
緋乃は瀬川君の背中に爪を立てるようにして強く抱きついて、そう声をゆらした。
瀬川君は小さく首を横に振った。
「いや」
「……あのね、私」
そして緋乃はついに言った。
今までずっと言えなかったあのひみつを、告白した。
「──お腹にあなたの赤ちゃんがいるの」
私と惠は慌てて退散したがその頃にはもうふたりとも涙ぐんでいた。ちくしょう、切実すぎる愛だ。
互いのために何かしたいと思って、できないが、いま想っていることをすべて伝え合う。これこそが人と人との繋がり、それがもたらしてくれる希望というものなんじゃないだろうか。真実の愛だの幸福だのを追い求める人は忘れている。
愛は物体じゃない。ただの願いだ。
幸せであってほしいと思ってぼろぼろ涙してしまう、愚かでピュアな、心の塊だ。
「絶対、渡さない。死なせないわ。だからお願い、許して。あなたがそばにいてくれることが私の喜びよ」
「……うん」
ドアを閉める直前。瀬川君の震える声が耳に滑り込んできた。ふるえる、でも、これ以上ないくらい優しい声で。
彼は言った。
愛してるよ、緋乃、と。