ひみつの宝物①
こんにちは、ベイビィ。
あらあらどうしたの、道に迷ったの?
いい子だからね 泣かないのよ……
島の雨は海の味がするということを、私は惠のキスで思い出した。
ずっと忘れていた。そうだ、私たちは皆海のこどもで、この星に属するものはいつかその胎内へ戻り、そしてまた還ってくるのだ。わたしたちがどれだけじたばた足掻いても結局はある一点に回帰し、そして例えばこの雨のように当たり前のものに姿を変えることを、島は私たちに教える。
それが悲しくもあり、嬉しくもある。
私は惠がすぐにこの島を去ることをすでに悟っていた。
彼はこの島で生まれたが、もうこの島に魂を置いているわけではない。惠のそれは彼の肉体の中心に、瞳のなかに、背中の後ろに、大いなるたくましさでもって生えているのだから。
「いつ発つの?」
唇が離れた瞬間、わたしはごく自然にそうたずねていた。惠は驚いた顔さえせずに、ふっと、あの気持ちのいい凪の表情を見せた。
「あさって。ごめんな。」
「謝る必要なんてどこにもないじゃない。あたしも行くんだから。行かなきゃいけないんだから。」
「うん。でも、まだ時間はある」
惠は言った。私は頑張って笑ってみたが、ひどい顔をしていたと思う。悲しくてかなしくて、胸の中がずたぼろだった。
本州に帰っても私の一部は永遠にここに残るだろう。惠の瞳に、彼の唇の熱のなかに捕らわれて、閉じ込められるのだ。
きっと何度も泣く。呼吸を止めて炉端にしゃがみこむ。行き場のない愛の大きさに途方に暮れて内臓をかきむしりたいと本気で願い、でもそれでも歩いて行く。
海のない街で。空の狭い都で。本気で抱きしめてくれた人をけして忘れない。路地裏のぬかるんだ臭い道に足を取られて転んだら、惠のキスを思い出す。
私は惠にそう伝えた。彼は何かを言う代わりに私の背中に手を回すと、もう一度、まるで私がフラジャイルであるかのようにそっと抱いた。
けたたましい音で家の電話が鳴り響いたのはまさにその瞬間だった。
「緋乃が波にさらわれた。男どもにつきとばされたんだ。それで彼女、いきなり死ぬほど苦しみだした。」
電話は瀬川くんからで、彼は島の診療所にいた。緋乃が溺れたというのだ。惠とともにすっ飛んで駆けつけてみると彼は状況を実に簡潔に説明してくれたので、私と惠は恋の甘さも忘れて真っ青になった。
「男どもって誰だよ、何様?」
信じられない、と言った様子で惠が言った。頬にあざを作った瀬川くんの顔が思いきりゆがみ、私は、彼の拳もいちめんカラフルなあざで染め上げられているのを発見して胸が張り裂けそうに痛むのを感じた。世の中にはいろいろな人がいるのだ、とぞっとしながら知った。人を故意に、肉体的に傷つけて喜びを得られる類の人がわずかだが確実に存在しているのだ。
そして緋乃はその歯牙にかかった。
「……この間緋乃をナンパしたダイバーですよ。あのちゃらちゃらしたクソガキ共。俺が少し目を離したすきにまた緋乃に絡んで、あいつがこっぴどく追い返したら、今度こそキレたらしいんだ。それで緋乃は……ああ、くそ! 忌々しい、死ねばいいのに、あんな奴ら。クズだ。ボコボコにしてやったよ。しばらくは歩けないぐらいにな」
「いっそ殺してもよかったと思うぜ」
本物の殺意を隠しもせず悪態をつく瀬川くんに惠は理解を示した。瀬川くんは両手で顔を覆ってソファに座り込み、頷いた。私たちは診療室の外に締め出されていた。緋乃の容体は思わしくないようだ。たぶん、お腹の子供に強いショックが起きてしまったのだろう。
瀬川くんがもう妊娠の事実を知っているかどうか私はものすごく聞きたくてたまらなかったが、同時にこんな事態になるなら初めから伝えておくべきだったと後悔し始めてもいた。瀬川くんはそれほど打ちひしがれていたのだ。
唇は切れて血がこびりつき、朝見た時はこぎれいだったシャツはやはり血と泥と雨で汚れ、しかもボタンがいくつか取れて布地も破れていた。目も当てられないほどボロボロだった。彼がこの世で最も愛する人間を傷つけられてどれほど逆上し、情け容赦なく相手を制裁したのか、その壮絶な闘いぶりが想像できるようだった。
緋乃を奪われると瀬川くんは急激にバランスを失って見えた。
院内に途切れることなく悪態をまき散らす彼の姿が普段の冷静で聡明な様子とはあまりにもかけ離れていることに、私はこれこそが緋乃の恐れている彼の性質なのだ、と冷酷に考えていた。愚かな男。緋乃のためなら自分のすべてを棒に振れるほど彼女だけを溺愛して、その事が周囲に災いを招いたとしてもどうでもいいのだ。
「ボコボコにされたダイバーズが仕返しにくるんじゃない?」
私は言った。瀬川くんは即答した。
「その前に島を出る。帰るよ。……俺はこの島の人間じゃないからな。彼女が嫌がっても。連れて帰る」
「そうした方がいいんだろうな。」
今度は惠が認めた。私は悲しくなった。物事には必ず終りがある、とわかってはいても、それはいつだってこうして突然やってきて頭から私たちを食う。一瞬が永遠で最後だと知っていなければどんな出会いにも意味はないのだと痛感する。一週間にも満たない数日の夢だった。
でも、あと少し。もう少し。
島の小さなシルエットがエメラルドグリーンの海に遠ざかる光景がもう脳裏をよぎっていたが、それでも私は神様に拝んだ。
お願いだから、あと少しだけ。
「俺もあさってには島を出るから。みんな、一時に離散だね。丹も帰るし。ひどい6日間だなまったく」
「決めたんですか?」
「うん。みんながちゃんと決めてるのを見て、俺もしっかりしなきゃねって、思ったのさ」
「……俺が決められるのはあいつがいるからだ。命をかけて、彼女のためにすべてを。それが最良の選択だって思ってるから」
「知ってるよ。それで、その事が緋乃を追い詰めてることも知ってるんだろ?」
「ええ」
嵐の過ぎ去った島は恐ろしい静けさにつつまれていた。静寂はさびしい。ひっそりと声を交わす二人の脇をすり抜けて、私は緋乃がいるらしい診療室の扉のそばまで歩いて行って、そこに耳を押し付けた。金属と金属がぶつかりあうカチャカチャという音と、おそらくは医師であろう人の小さな話し声しか聞こえなかった。
……なかの子は……です、受け入れなさい……影響が。
ことばの断片だけが拾えた。全ては聞き取れなかった。
「それはあいつの問題だから。あいつの弱さ、というか、あいつはいろいろな事を知りすぎている。だから恐れる。俺にはどうしようもありません。彼女が決めてくれなければ」
「ねえ瀬川くん。緋乃が妊娠してる事実は、知ってるの?」
惠が唐突に言ったので私は思わず振り返っていた。今日の彼は雄弁だった。しかも、本来なら胸の中にしまっておく類の秘密をべらべら箍が外れたように喋っている。しかし視線が絡んだ先の彼の瞳がきらきらと輝いているのを見て、ああこれこそが惠の本来の姿なのだとわかった。
「に……?」
瀬川くんはしばらくぽかんと口を開いていたが、やがてかくんと顎を引き、唇を固く閉じた。そうか、と小さくつぶやいた声は重く、だが隠しきれない喜びに満ちていた。
手の下で扉が動くのを感じたので私は慌てて身を引いた。
「だからか。ああ、わかった。あいつの奇行の理由が。そういうことか。知りませんでした、もちろん。でも不思議だな。今聞くと、知っていた気がする。俺、気付いてたのかもしれない。その上で彼女の決断を待ってたのかもしれない」
「瀬川さん」
医者は外で待っていた私たちを一瞥してどれが旦那さまなのか混乱したらしかったが、とりあえずその名を呼んで瀬川君をあぶり出した。
事実を知った瀬川君に怖いものはなかった。彼は無言でたちあがり、小声で医師とひとことふたこと言葉を交わしていたかと思うと、そのまままっすぐ診療室のなかに入って行った。私たちは取り残されて困惑したが、待つことにした。緋乃が無事なのか不安で仕方がなく、訴えるように見つめると、医師は疲れた様子で黒い肌をこすった。
「何とも言えない状態ですね。水の冷たさで胎児が不安定な状態になっていて。後は母体の問題でしょう」
「死ぬ可能性もあるということですか?」
「母親にその可能性はありません。しかし胎児には、ないとは言い切れません。」
無表情に答えた医師の言葉に私は不意打ちを食らった。心の底から自分がなにもできないことを呪う。
予想だにもしなかったことだが、目に大粒の涙がにじみ、恥ずかしさに顔が真っ赤になるのがわかった。医師は頭を下げて行ってしまった。惠がおいおい、と小さく言いながら私の元へやってきて、兄のようにやさしく肩を抱いた。
「心配すんな。あの緋乃だぜ。そう簡単に子供を死神に渡すもんか」
べそをかく私を惠が診療室に引っ張っていこうとしたので抵抗した。馬鹿みたいに体が震えている。怖い。
「ふ、夫婦水いらずをじゃましちゃ……だめよ!」
「いいの。俺たちだって緋乃がかわいいんだから」
「いやだー、怖いよう。」
「抱きしめててやるから」
「ばか!」
「けっこう。」
そして結局ずるずると引きずられて入った先の診療室で、まさに瀬川くんが緋乃に口づけていた。唇ではなく額と頬だったが、その首の傾げ方も、寝ている奥さんの頭をすくう手つきも、永遠に変わらないような甘さに満ちていたものだから、私は赤面して惠を非難した。彼は肩をすくめただけだった。
「大丈夫?」
「……心配させてごめんなさい」
「謝らないで。お前が隠していたことを、話す時が来たんじゃない?」
瀬川くんは奥さんの手にまで口づけながらそう伝えた。緋乃はまっ白い顔に玉のような汗を浮かべ、傍から見ても具合は最悪だった。いつもは澄んだ紅色の唇が紫色になり、眼も潤んで息がひどく荒い。
旦那さまの手をしっかと握り、彼女はうなづいた。
「そうみたい。ねぇ、愛してるわ。私、決めたの。聞いてくれる?」
瀬川君はもちろん、と答えた。
この勇敢さこそが彼が緋乃にこんなにも一途に慕われる理由なのだ。