呪縛
記憶を解いて
今、報いたい人がいる
「一緒に暮らした人がいたんだ。女の子。お互い若かったし、すごく好きだったんだけど、どっか決定的に冷たい関係だったんだよな。恋人というよりルームメイトで、友達。俺たちは何があってもすごくドライだった。どんなに辛いことがあっても、悲しいことがあっても嬉しいことがあっても、お互いに自分の殻は壊さずに、自分の中で感性を処理している感じ。俺はそれが居心地よかったんだけど、彼女はストレスに感じてたみたいなんだよね。
彼女……編集者だった。雑誌の編集をしてて、若いのに有能で、ある程度は自分の意志を押し通せる立場にあったから、俺を贔屓してくれてね。駆け出しだったのに、すごく応援してくれた、うれしかったなあ。付き合ってくれって言って来たのは向こうの方で、その頃の俺は仕事に困ってたから、まぁ打算が全くない関係とは言い切れなかったけど、それでも段々、本気になった。彼女は知的でモダンだった。公私を隔てず頑張れて、いつでもぱりっとした服装に言葉遣い。海が好きな人だったから、よく一緒に旅行に行った。モルディブ。バリ。ハワイ。地中海……。でも、沖縄には来なかった。彼女は沖縄が嫌いだって言ってた。垢抜けないし、人々はみんな怖いくらい親切だし、日焼けするし、なんだか一度あの空気にはまると抜け出せなくなっちゃいそうだから嫌だって。そういう人だったんだ、つまり。人に弱さを見せられなくて、そのせいでどんどん疲れていってしまう、ある意味では確かに強くて、でもまたある意味ではすごく脆い人。心が固かった。融通が利かなくて、だから俺もあんまり干渉しなかったんだな。いや、それは言い訳かもしれないけど。だけど一緒に暮らしていて彼女がどんどんおかしくなっていくのはよくわかった。俺は仕事が増えて毎日がめまぐるしくなっていって、海外にもしょっちゅう行ってたし、その頃にはもう一緒に暮らしてたアパートにはあんまり帰れなくなっていた。時々帰ると彼女は彼女で忙しくて、会社に泊まったりしていて、会えなくてさ。
でも、会うことが少なくなっても声が聞ければ安心したし、そのぶん次に会う機会がものすごく貴重だと俺は思ってた。黙って写真を撮って……うん、あの頃撮った写真のなかには、彼女のためを思って撮った写真がかなりあるんだ……撮って、現像して、飯を作って。大切に大切に彼女の帰りを待った。バカだよな、俺。そんなことしかできなかったんだ。そういう自分のスタンスが彼女を追い詰めてるなんて、知りもしなかった。」
惠は呪いを解かれたように喋り続けた。淡々と眼を伏せて言葉を並べていくその様子が、つまり彼にとってこの話は完全に過去なのだと、もはや失われた悲しみの遺跡なのだと物語っていた。惠は確かに今ここに、私の眼の前にいる。だが彼の一部はその遺跡に閉じ込められてもう戻ってこないのだ。私たち他人は元より、彼自身でさえ手が出せない彼の中の暗黒。それに触れられるのは恐らく惠の話している編集者の彼女だけで、私はそれに対して憎悪に近い嫉妬の念を抱いた。
殺してやりたいとすら思った。惠にこんな寂しい顔をさせる人。
だが圧倒されていたために声は出なかった。ただ彼の声が、その言葉の色合いの輝きが形成して眼前に立ち昇ってくる女性のイメージが、衝撃を伴って私を打ちのめした。
いつの間にかわんちゃんが私の腕の中で丸くなって寝始めていた。惠はそのベージュの温かい体にそっと手を沿わせながら、息をみじかく吸って続けた。
「久しぶりに会った時にやっと気付いた。彼女はあんまり笑わなくなっていた。俺は、彼女に休むように勧めた。仕事が忙しすぎるんだ、体が壊れちまうぞって。だけど優しくしようとすればするほど彼女は頑張る。気を張って、俺の手をはねのける。私はあなたみたいに自由人じゃない、心に羽が生えてないの、そんないつもひらひら身勝手に動ける立場じゃないの。そうやって言われた。
……俺はその時はただむかっとして、喧嘩になっただけだったけど、今思い出して思う。あれは彼女の魂が俺の魂に嫌悪を示していたんだ。いつもひとつ所にじっとしていられない。自分で好きなように生きてる。勝手に遊んで、勝手にどこか飛んでいって。憎かったんだろうな。きっと。駆け出しの頃は俺がかわいそうに見えたのかもしれないけど、いざ少し有名になっちゃったら、俺がうらやましく思えたんだろうな。無理ない。自分が徹夜してる時に俺は世にも美しいインド洋の真珠の首飾りの上で写真とってるんだもの。嫌われてしまっても当たり前だ。何も言う権利がないよ。
気がつくのが遅すぎて彼女は段々愚痴ばかり俺に吐くようになった。最後にはお互い口を開くと喧嘩するからってあんまり喋らなくなってさ。俺はバカだな。なんで彼女のために仕事を捨てられなかったのか。もっと何かしてやれなかったのか。仕事が正直めちゃくちゃ忙しかったし、楽しくてたまらなかった。もう彼女と一緒にいるのがしんどくて面倒だったから別れを切り出したんだ。そしたら彼女は妙な反応をした。喜んでいるようでもあったし、ヒステリックに怒ったり、さめざめと泣いたり。気が狂っているみたいに見えた。丸一日話し合って……ハハ、殴り合って、罵り合って、っていう方が正しいかな。あの時に戻って、彼女に優しくできるなら、今俺はなんでもする。それぐらい酷い別れ話だった。お互いの持ち物を壊しまくったし、茶も投げつけたし。昭和のコントみたいだったよ。俺はなんで彼女が、そんなに疲れた顔をしてるのにすっぱり別れたくないのか理解できなかったし、彼女は彼女で俺のことを冷酷だと言った。お互い若かったのかな。そんな言い方で片付けていいなら。
……いや、でも、やっぱりそれは違う。俺はもっと彼女のために何かして上げられたと思う。手遅れになる前に気がついてあげられたと思うし、優しくしてあげることはできたと思う。誰にでもできることなんだから。
でも勿論、今更気付いても遅い。別れ話をした翌日に、彼女はいきなりいなくなった。置手紙っていう、古風なやり方でメッセージを残してね。忘れない。今でも思い出せる。イラついた字での、殴り書き。玄関のドアに張ってあった。
“惠。もうダメです。私はあなたのように、自分で何もかも切り開いていく力はありません。ごくふつうの、なにかに属していることに安心する、都市に根ざした魂なのです。あなたはちがう。あなたには羽がある。一人で戦える強さと残酷さがあるのよ。そう、冷たいの、あなたはとてつもなく冷酷だわ。あなたの選択はすべてあなたが生き易くなるためのものでしょう? あたしはもう疲れました。消えます。お腹の子供は殺します“」
「め……」
ぐみ、と私が彼の名を呼びきる前に、惠は首を横に振った。犬から手を離す。自分で自分を許さないという意味の行動に見えたので、私はむっとして、もう一度、強固に彼の名を呼んだ。
「惠。だから、緋乃の」
「うん。そう。妊娠に気付いた。美並さんと全くそっくりだった。どことなく悲しそうな顔、言い出せなくて、そのことに罪悪感を抱いていて、だけど気がついて欲しい、っていうね。お前と一緒に緋乃が島に来て以来、俺は思い出しっぱなしなんだ。ずっと考えてる。当時の自分の感じていた気持ち、住んでた部屋の匂い、美並さんのイラついた顔、ほつれた髪の毛。全部そっくり思い出してしまって、気が狂いそうだった。死にそうだった、文字通り。島じゃ、死のうと思えばいつでも死ねるからな」
「めぐ!」
私は悲鳴を上げていた。彼の言った言葉は私が心の隅でずっと思っていたことでもあったからだ。
だけど、私たちはそうできると知っていながらも何故か前に進まなくてはいけなくて、今はもう今ではなくて、未来などないけれど常に変化していなければならない。その流れの中でなにかを失ってから気がついてももう遅いが、そのあまりにも酷な世界の理に誰もが疑いを持ってはいけない。
死にたい。立ち止まりたい。取り返したい。
それらの欲求に負けた時、きっと人は闇に染まる。惠がそのぎりぎりのラインで戦い続けていたということが、彼と近い場所に立っている私には痛いほどよくわかった。ただ私は腐っても生きたい、負けたくないと思う勝気な娘なので、彼よりは少し内側に立っているに過ぎない。
きっと生と死、正気と狂気というものは本当のところ、そのように背中合わせに重なり合っているきょうだいなのだろう。
「それは言っちゃダメよ、惠。だめ、死ぬなんて駄目、生きてよ。あたし惠、好きよ。面白いし、楽しいし、惠のそばだと笑えるのよ。島に来て、あなたと会えて本当によかったと思ってるの、嘘じゃないよ。あたしだって何か暗い一押しがあればあなたのように海に沈みたいと思う。わかる、すごくよくわかるよ。でもだからこそだめ! 光を追って……あなたは、許されたいと、許したいと思っているんでしょう?」
「丹の、そういうところが好きだよ。俺も。」
ちいさく笑って、惠は私の肩に顔を埋めてきた。私は思わず手を伸ばして彼の頭をしっかりと抱いていた。青の写真集の表紙が音をたてて閉じる。わんちゃんがみじろぎをするのが感じられた。
惠は、泣いてはいなかったが、自分自身に嫌悪を覚えて打ちひしがれている様子だった。黒く潮にぱさついた髪から強烈な海の匂いがするのを嗅ぎ取って、私は泣きたくなった。こんなに弱っていてもなにかに焦がれる気持ちは止めることができない。どうして人間は人間に何もしてあげられないんだろう、と思った。
こんなに好きなのに、近くにいるのに。
「……なぁ、丹?」
長い、ながい静寂があったが、それは無論完全な静寂ではなかった。海が、あるからだ。風が、吹いているからだ。神様に慈しまれたこの島は、その無防備なからだを常にいっぱいに伸び縮みさせて、自分の存在を疑うことなくその腕の中の命を守りつづけている。
私と惠はいまその懐に抱かれていた。彼が島に戻れたことを、私はほんとうに嬉しいと思った。
「なに? 惠」
「……丹が、この間海辺で言ったことば。私は選んでいきたいって、君は言ったよね。」
「言ったよ。そしてめぐは、選べることは残酷なことでもあるって答えたのよね」
「うん。実際そうだ、俺は残酷なんだよ。美並さんは正しい。全ての選択を自分のためにしてきた、自分のために何でも決めてきた。誰にもやさしくしないで」
優しさという言葉ほど、今のこの鎮痛な静寂をあざ笑う単語はなかった。私は惠を抱く手に力を込めた。それは動作を表す言葉ではない、性質を表す言葉だ。感情と肉体に染み付いた習慣がその人を、望むと望まないに関わらずある一定の方向に導いていく、羅針盤なのだ。
「めぐ。優しさっていうのはさ、意識して振りかざす武器じゃないよ、きっと。その人が元々持っているものが、自然ににじみでちゃった結果をそう呼ぶだけなんだよ。」
黒い頭の上に囁きかけると、惠は肩をわずかに震わせた。泣き出したのかと思ったがそうではなかった。彼は笑ったのだ。
「そうだね。その考え方も正しいと思う。今の丹が、自分ではそう知らずに、俺を導いてくれているようにな。」
「わたし? 私は何もしてないよ、自分をこの世に繋ぎとめるだけで精いっぱいだもの」
心からびっくりしてそう言うと、惠はまた、今度は声を上げすらして笑った。薄いTシャツの布地ごしに染み込んでくる彼の暖かい吐息を感じ、わたしはなぜか胸がじんと熱くなるのがわかった。なんだか私が彼をなぐさめているのか、私が彼になぐさめられているのかもう混乱してわけがわからなかった。あるいはお互い様、だったのかもしれない。
私たちはいま、共鳴しているのかもしれない。
「だからさ。そういうお前を見て、俺は眠りから醒めた。ずっと心を閉じていた。カメラもしまって、島に戻って、ただ海と空と風を受けて。何をしても何も感じられなかったんだ。移り行く景色は心に入ってくるのに、あまりにも疲れてたからそれを自分で処理できなくて、でも俺はカメラマンだからそれを写真に撮らなければいけない。許容量オーバーになりそうだったんだ。だから全部やめた。何年も何年もかかった。ここまで来るのに。抜け出せるようになるだろうかっていつも怖かった……ほんとうに怖かったよ。一生、こんな、世界の裏側の青に溺れて、沈んで、窒息してしまうのかって。」
わかる。それは失われたものが余りにも大きかった場合、誰しもが経験する果ての見えない絶望だ。
たとえば亡き母がよくつけていたプルメリアの香水をふと雑踏のなかで嗅ぎ取った時、その場にしゃがみ込んで号泣してしまうほどの悲しみ。例えばもういない兄がほとばしる声でうたい上げた歌がCDショップの喧騒を縫って耳に届いた時の、胸をかきむしりたくなるような切なさ。そして例えばひとり暗い帰り道を歩いていて、父が教えてくれた歌が無意識に唇からこぼれ出てしまった時の、どうしようもない寂しさ。
苦しいばかりの感情にとらわれて呼吸もできない程痛めつけられるそれらの瞬間、私たちは確かに死ぬ。いつかはきっと元気になれるとわかっても、その時ばかりは一人で耐えるしかない。闇を吸ってしまう。孤独な夜の中で。
心のなかの光を食い尽くす眠れる野獣と誰もがひとりで戦わなければいけない。
……しかし、惠のそれをわたしが祓った、と彼は言ったのか?
「丹は知らないんだろう。お前のその在り方がどれだけ甘えなく、けれんなく、見るものの背筋を伸ばすか。それが強さだって名前をつけられるんなら、お前は間違いなく強いよ。信じられないくらいだ。人は強いんだな? 血は熱いものなんだな? そんなことを、お前を見てると思うよ。思い始めたんだよ。心が、動き始めるのがわかったんだよ。えらい。お前は、大事な人がいなくなっても頑張ってる。頑張れてる。ほんとうに偉いと思うよ」
「やめ、て。」
たまらなく喉が痛み、私はかすれ声を発した。さっきの惠のように首を振る。惠が顔を上げようとするのを、彼の頭を抱く手によりいっそう力を込めて阻止した。耳の奥で血が流れる音がする。心臓の鼓動が早まっているのだ。
誉めないで。今はまだ報われなくていいの、あたしは皆を見送りたいの、涙なしで。泣かないで。
笑って今までありがとうって、手を振りたいの。
「……泣いてるの?」
密着している体から私の震えが伝わったらしい。惠がそう聞いてきた。私は、
「泣いてない。泣かない。」
と強情に答えた。実際は熱いなみだが目頭に盛り上がり、今しもしずくとなって頬を転がり落ちていきそうな状態だった。潮の匂いが、惠の声が、膝の上でやすらかに眠るわんちゃんの体温が、私の弱りきった病み上がりの体にいきなり押し寄せてきて交響曲のように大きく深い響きを作る。全身の感性がいきなり研ぎ澄まされていくのがわかって私は混乱した。ああ、どうしよう。また今、一歩前へ進んだ気がする。恋が、望みが、あるいは友情がもたらすこういう鮮やかな優しさの瞬間を受けて、私達はどんどん変わっていく。そして二度とは引き返せないのだ。たとえどんなにもう一度会いたい人が居たって。
「なんで泣かないの? 泣かないことが強いことだとか、お前まさか思ってないんだろ?」
「いなくなってから泣くなんてずるいの」
「俺の好きなミュージシャンもそう歌ってたなぁ。」
惠がやにわに私の背中に手を回して抱きしめた。間に挟まれたわんちゃんが起きて非難の声を上げるほど、一瞬強く。私は彼の黒いポロシャツに顔を押し付けられる恰好になり、その固い熱い胸の感触と、ほのかに香る清潔な洗剤の匂いにますます涙を我慢することが難しくなった。惠が言った。
「止めるもんじゃないだろう、涙なんて。ただの塩水なんだから、出る時は出しとけばいい。お前の大事なひとたちがいなくなったのはお前のせいじゃないし、理不尽でも先に進まなきゃいけないことに変わりはない。」
「忘れたくないよ。変わりたくない、惠、わたし。」
「うん。でも、そうしなきゃいけない。いずれ、そうなる。俺たちは生きてるから。人間だから。抗っても無駄なんだ。」
「寂しいね」
「うん……本当にね。」
ついに涙が零れ落ちて、涙声で私はつぶやいた。惠の胸に頭突きをお見舞いする。暗い視界の下、わんちゃんが鼻を鳴らして私を見上げていた。ベージュの毛並みがほんのりと光り、銀色の視界にかすむ。
頭を信じられないほどやさしく撫でていく感覚がある、と思ったらそれはどうやら惠の手の平らしかった。彼は凪のように穏やかな声で言った。
「でも、俺はお前が生き残ってくれてよかった。それでお前が今どれだけ寂しいかは知っていても。会えて嬉しいと思ってるよ。前にも言ったけどね」
「もっとロマンチックな言葉にして」
「好きだよ、とか?」
くすくすと笑って惠は私を抱く力を弱めた。涙で顔はぐちゃぐちゃだし、病み上がりでひざの上に犬はいるし、ロマンチックなんて初めから望むことも難しいような状況だったが、惠は私のワガママを聞いてくれた。こちらの髪に指を絡めて顔を上向かせると、とめどなくあふれる涙を唇で吸い取った。
余裕のある、手馴れた仕草に、私はまたしても編集者の美並さんに猛烈な嫉妬を覚えたが、それこそが惠の歩いてきた大切な道のりだとわかってもいたので、あえて堪えた。永遠に純粋で、同時にまだまだ若い私からすれば信じられないほど広い世界を知る人。惠。
「たぶん、会ったときからずっと好きだったよ。」
やわらかい唇が私のそれにそっと触れてきた時、胸に未知の空間が広がるのを感じた。宇宙のように広大で濃密でありながら、同時に今この瞬間だけを封じ込めたように淡い。私はまた泣いた。永遠を知った、と思った。
このひとが好きだ。すごく。
愛しさのあまり死も一瞬忘れるくらいに。