時のらせん
なんのために生まれてきたの、
なんのために生まれてくるの?
帰ってきたのは瀬川くんで、彼から受け取った薬を飲んでまたしばらく不快な熱の眠りに落ちながら私は、奈落の底まで沈んではシュールに歪んだパラダイスに浮上する、という実にもの苦しい状態のはざまで言い争う夫婦の声を耳にしていた。
「だから、わたしは界のそういうところが耐えられないの!」
と、緋乃がめずらしくも泣きそうな声で叫び、それに対して瀬川くんが静かだが猛烈に怒った様子でこう答えていた。
「耐えられるかどうかはどうでもいいんだよ、それが俺のやり方なんだから。」
「そうよ! だから、それが嫌、わたしはそれが辛い。界は、私のために何もかもあっさり切り捨ててしまう。それがどんなに大切なものであっても。私が望むのはあなたの幸福なのに」
聞きたくない……と弱った私は猛烈に思った。
時刻が夜か、それを通り越して朝になっているのがわかった。ひんやり湿った空気が少しだけ落ち着いた嵐に揺り動かされて家屋の中まで入ってきている。腫れて狭くなった喉でその大気をひゅうひゅうと細く吸い込む。潮の味がして、胸になつかしさがいっぱいに満ちた。
瀬川くんがためいきをついたのが聴こえた。
ふたりは、私が寝ている部屋のすぐちかくで言い争っているらしかった。
「緋乃、お前はぜんっぜんわかってない。……いいか? 俺は俺に嘘をついてないんだ。俺の幸福は、お前を愛すること、お前だけを偏って大事にすること。他なんてどうでもいいよ。お前のためなら人殺しもできる。あぁ、こういう言い方が卑怯なのか? けど、俺はお前のためにそうしてるわけじゃなくて、俺がそうしたいからそうしてるだけなんだ。それを理解してほしい。したいことをしているだけなんだよ。もうサイを投げたんだ、自分で。お前以上に大切なものなんて、俺には、ない」
微塵の躊躇もなく言い切った瀬川君があまりにも堂々と、大海のようにゆるぎなくそこに存在しているのがばりばり感じ取れたものだから、私は別の部屋で眠りながらも彼が今どんな顔をしているのか手にとるようにわかる気がした。きっと、怒ったように険しく眉をしかめて、ぐっと腰を落として、眼を逸らさないのだ。緋乃から。彼が傲慢に愛する娘だけをその視界に捕えて、逃がさないのだ。
神のように強くて、ある意味普遍的に心の中に居座り続ける巨大な存在。
ああ、瀬川くんって、いわゆる「パパ」の塊みたいな人かもしれない……。
私は思いながら、この島に来て以来じぶんがとても奇妙に自然なかたちで、自分の親きょうだいを思い出していることに気がついた。
それは私が自分で望んでやっているのではないにしろ、すごく重くて苦しいことで、だけどだからこそ、最中はどんなに首を締められた鶏のように目をむいて苦しくても、やり遂げた後は呼吸がふっと楽になった。海から上がった瞬間のあの時のように。そして振り向いて、太陽──彼らわたしの愛しいひと──が沈んでしまった闇を見つめると、わたしは決まって、自分がなにか大いなる静けさに包まれているのを知った。
それは、多分、この島がわたしに教えてくれた、すごく原始的な供養の方法だったのだと思う。やり方は荒っぽく、単純で、花も言葉も伴わないが、代わりに行き場を失ってほとばしる心だけをこれでもかと吐き出して歌った。
むかし、この島で多くの人が死んだから? それとも、神が降りてくる場所があるから?
……理由はわからないけれど、私はとにかく、島に入ってからずっと、祈りつづけていた。本土のあの回転の速い、コンクリートに統制された厳格な日々のなかでやれば、絶対に心臓がつぶされてしまったに違いない凶暴な悲しみと、この身に巣くった魔物と、ただ心ひとつで向き合って戦っていた。
「界、カイ……どうしてあなたはそんなに揺るぎないの? 私は、選べないのよ、あなたなしでは何も。会えてよかったってずっと思ってるし、そのことを疑ったことは一度もないわ。でも、怖いのよ。今しあわせで、それを失うのが。あるいはそういう感情を幸福っていうの?」
緋乃がすすり泣く。私は彼女が泣くのを見たことも聞いたこともなかった。
たぶん瀬川くんと出会ってから彼女は自分の……ひいては人の生々しさに触れ、その血と体液を宿した重い物体が感情というソフトウェアを登載した結果、どんなに絶望的に生きるということをしていくかという難題にぶち当たったのだろう。しかも結婚までしてしまって、自分だけではなく他人の人生まですぐ目の前に見ることになって、新しい命までお腹に授かってしまったと来たら今まで信じてきたものが崩壊するのも無理はない。
しかし瀬川くんは甘くなかった。たぶん、奥さんを抱きしめたりあやしたりはしているのだろうが、言うことに緋乃を救おうといった不毛な思いやりは見られなかった。彼は聡明だから、知っているのだ。
人間と人間が触れ合って広がるくらい曼荼羅を、壊す術も支配する術もこの世にはないこと。
「そうだよ。自分の大事なものを認識して、その重さを知ることだ。そしてそれと向き合って、両手を広げて受け入れることだ。丹をみろよ、惠さんを。」
「それぞれに戦って、何度も自分を死ねばいいって思って、呼吸を止めて。自分で自分を海の底に沈めて。あの二人を見て、思ったのよ、私。人って不毛だわ。ぜんぜん、報われない。それぞれの人生に多かれ少なかれ辛いことや悲しいことがあって、みんな自分の方が人より辛いか? とかそうじゃないかな? とか思いながら、けっきょくは自分っていう重い殻から出られないでいる。なのにどうして生きたいと思うのかな。あんなにボロボロになってまで? 答えはわかる気がするけど、全部じゃない。嫌なことのほうが多い。でも、私も生きたいの。あなたと。バカみたいに恋してる、今でも。ずっと」
「……混乱してるんだな、おまえ」
「ねぇ、島に来たらわかるかと思った。だけど、わかったらもっと不安になった。界は怖くならないかな、私、闇を孕んでるんじゃないのかな。光が痛いの、強すぎて。少し前なら何よりも求めたものが、今はなんだか、遠い」
「よし、よし。いいよ、わかったよ、しょうがないな畜生。」
いまやしゃくりあげ始めさえした奥さんに根負けして、瀬川くんは低くうめいた。ほんとうに、まるで父と娘だった。なんだかんだ言って緋乃は彼にしか甘えないから、彼も緋乃が可愛くて仕方がないようだった。
「落ち着くまで休もう。疲れてるんだよ。おまえは真面目すぎるんだ、いつも。物事をぜんぶいちいちそういう風に捕えなくてもいいのに。世界は、常に、ある一定の方向にしか進まないものなんだよ。結局はみんなどこかで繋がってて、明けない夜はないってことを知ってて、楽しいことや嬉しいことをいっぱい経験しながらずっと乗り越えつづけていくものなんだ。幸福は、ないかもしれない。その時々の状態が幸せだっていうだけで。」
「……ごめんなさい……」
「なんで謝るの。なぁ、緋乃。俺はそういう最高に楽しい思い出を、全部お前と分かち合いたいんだ。いつか俺たちがもっとすごく重い闇に押しつぶされそうになる時、お互いのうれしい思い出が、立ち上がるための強さになればいいって思うよ。」
私の父も、まさにこんなことを口に出して言い、そしてそれを実行する熱いタイプの男であったので、私は寝ながら風邪のためだけはなく胸を熱くした。いい男だ、瀬川くんはほんとうにいい男だと思う。自分がやりたいことをちゃんと分かっていて、好き勝手に生きているけれど、責任は全部取ってなにかを人のせいにしたりしない。
──正直に生きなさい、丹。
父がそう言ったことを突然思い出した。何年も昔に、喧嘩したあとに言われたことだった。言われたことすら忘れていたので、私は自分の胸に思わず手を当てて驚いた。人と人とが密接に寄り添い合うと、こういう現象がときたま起きる。たぶん、共鳴とかそういう感じで、心が呼び合うのだろう。
するすると想い出がほどけて、その言葉を言った時の父の様子が生々しく蘇った。冬の夜。もう千葉に移っていた。兄が兄の部屋でギターを練習している音が聴こえて、母はお風呂に入っていた。大事な話がある時は家族を自分の部屋に呼んだ父は、その時も例外ではなく、私を自分の和室に呼んで、畳の上に座らせた。雨が降っていた。畳の匂いが立ち込める感じが今日とすごくよく似ている。想い出が生きて、一瞬たしかに命を取り戻した。
──後悔しないように。何を選んでもいいよ、捨ててもいいよ。ただ、その時々に感じることを全力で感じて欲しい。そして忘れないでほしい。そういうことが全部おまえを作っていくのだと、お父さんたちが後ろで見ていることを知っていてほしい。
──放任主義っていうのよ。そういうの。身勝手すぎ
当時反抗期まっただなかだった私は言い返したが、大人だった父は小さく笑ってこう答えた。
──かもしれないな。でも、お前達の人生はお前達のものだからな。おまえが選んだ道ならお父さんたちは何も反対しない。絶対に。信じているからだよ。おまえたちをね。
「いいかい、丹。お前の名前の由来はね、お前が生まれた日に……」
ガタン、と大きな音がして、私は自分が寝ていたことを知った。
犬がどこかで泣いていてひどく煩い。ものすごく近くで泣いている気がした。胸に温かい重さが食い込んで息が苦しい。顔に、ざらりと熱い感触がした時には思わず飛び上がって眼を醒ました。
「きゃあっ」
「おお、起きた。ナイス、犬っころ。」
「……惠?」
私は心臓をドキドキさせながら畳に手をつき、脇を見た。壁に背を預けてふんぞり返り、黒いポロシャツを着た惠が笑っていた。首にタオルをかけてしめった髪をしている。あぐらを掻いた足元には、なにか分厚い装丁の、強烈なブルーの本が置いてあった。
子犬がうれしそうに畳を走り回る音以外は辺りが異様に静かで、私は自分がまたしても異世界に迷い込んだような気がした。枕もとに置いてあった水と薬を飲みながら、惠がわたしをじっと見ているのを感じる。
「なに?」
「いや。少しはよくなったみたいだから。」
「そうね。……呪って呪って呪いまくったの。いっそ祈りになるくらい。少し、すっきりした。まだ全部は、勿論、ぜんぜん、吐き出せないけど。しばらくかかりそう。でもきっと、ここが底だから、浮上できる、いつかは。これ以上悪くはならないって信じる。」
「そうだよ。きっかけはどこにあるかわからない。ある瞬間にいきなり、世界に色が戻ってきたりするんだ。どんなに面倒でも、嫌でも。前へ進まなきゃいけないから」
ほんとうに、そうだ。
私は思って惠の瞳を見つめ返した。そしてそこに今まで見たことのない静かな情熱のようなものが宿って燃えているのを発見して私は驚いた。
それは私が彼と出会って以来彼に感じていた、あの痛いほどの灼熱ではない。もっとピントが合った、もっと一定の方角を目指した、信念であった。
惠は見るたびその印象を違える。どこへ行っていたのだろう。
「めぐ。何だか、印象が変わったよ。」
「うん。実際、変わったんだ。言ったろう、見える世界が変わったって。おまえのおかげ。だから、これをやる。」
おだやかに言って惠は、足元の例のブルーの本を私の方へと差し出したが、私がまだ動くたびにふらついているのを見ると自ら本を抱え上げて近づいてきた。すとんと枕もとに腰を下ろして、まとわりつく犬をなだめすかしながら、私の眼をみて微笑みかけてくる。
となると、やはり彼がこの間ここに来た事は夢ではなかったのね……と思い、私は急に顔がかっと熱くなるのを感じた。もう認めざるを得ない。
惠が恋しい。どうしようもない。
「めぐ……緋乃と瀬川くんは?」
自分と彼の間に流れている熱い脈をごまかすように私は言った。惠は淡々と答えた。
「嵐が去ったから、浜辺を二人して散歩してる。少し状態が良くなったみたいに見えたよ。緋乃はもう告白したのかな」
「たぶん、まだ。でも、腹を割って話してたみたい。いま何時?」
「夕方の五時。あ、お前が風邪になってから丸一日経ってるからな。二十四時間。」
その事実に私は度肝を抜かれたが、惠はしょうがないよと静かに言った。私の足の上に写真集を置くと、枕もとに置いてあったマンゴーを取り上げて、巧みな包丁使いで皮をむきはじめた。
放って置かれることに不満を訴えて、子犬がわたしにじゃれついてくる。その様子が愛らしくも必死なので、私はもしかしたら、この子は既に私に属してしまっているのだろうか・・・・・・と考えてかなり重い気分になった。そして緋乃の気分がほんの少しだけわかる気がした。
人間なんて、自分ひとりを操作するのでもう両手がふさがっているのに、それ以上なんで子供を産んだりペットを飼ったりしてしまうのだろう。やはり寂しいからか。そしてその上優しくしたいと思ってしまうなんて、なんて身のほど知らずなことだろう。哀れな生き物だ。
「そのわんころ、お前が好きみたい。名前なんにするよ? 俺が飼ってやる。」
「名前かあ……なんか、人間て、バカだね。そんなものもしかしたら必要ないかもしれないじゃない。人間の価値観を犬にあてはめてるだけでさ。助けない方がよかったのかな。」
病み上がりで弱い思考の毒に侵され、私はついそんな情けない言葉を口走ってしまったが、それを聞いた途端惠は声を荒げて怒った。
「バカ言ってんじゃないよ。その子は生きたがってた、お前はそれを助けただけだ。わんころがお前を慕うのは当然だ。動物ってわかるんだぜ。心の清い人間と、そうじゃない人間との差が。一緒に生きてやれ。俺も一緒に責任取るから。そうしたらこの子はお前に全力で報いてくれる」
「……ごめん。」
驚いて私は思わずあやまった。惠はふっと眼を細めて笑った。ひどく優しい感じがした。ほれ、マンゴー、と熟れた濃い色の果実を差し出され、思わず口を開けて受け取る。青臭さともとれる独特の咆哮が口から鼻腔へといっぱいに満ち、舌の上で果肉はとろけた。おいしい。ものすごくおいしかった。
それを伝えると惠は誇らしげに笑って、自分もマンゴーを口に入れた。
「そうだろ。島は最高だよ。俺たちがちゃんと生きれば、それだけの分を自然に還してくれる。都会だとそのシステムが壊れていて、俺たちも世界もただ疲れていくだけだけど。島にいると、そういうの、感じないか? 悩んだら悩んだぶんいいことがあるよって、海も空も植物も砂も教えてる。」
「そう? ほんとうにそう? いいことって必ず自分に巡って還って来るもの?」
私は言った。我ながら、いやらしい言い方だと思ったが、惠はあっけらかんと答えてくれた。そういう飾らなさがとても好きだと思った。
「そうだよ。それを忘れるのって悲しいことだよ。あたりまえじゃん。小さい頃はみんな、自分ががむしゃらにやったことがいつか報われると信じてるからこそ、あんなに頑張れたんだと思うよ。親なり、兄弟なり、学校での表彰なりね。」
「そうだね。でも、大人になると、失うことを知るから。決して還って来ないものがあるって、理解してしまうから。だから辛いでしょ。絶望の縁、世界が断絶された場所にずっとしゃがみこんで、もう帰ってこない自分がいる気がするの。」
「うん。……それはもう、どうしようもないけど。ほんとうに、悲しいぐらいどうしようもないけど。だからこそ祈るという行為があるんじゃないの?」
「そうか……そうかもね。」
そこで急に、会話が途切れた。
喉にせり上げる熱いものがあるが、嵐は去っていた。海がまだ少しだけ音高く波を繰り返しているのが聴こえ、私と惠はふたりでそれに耳を傾けていた。わかりあって、伝え合って、そして好きだと思うこと。好きな人になにかしてあげたくて、何もできないけれど、全力で報いたいと思うこと。
そう、忘れていた。ずっと、いつだって、私は愛されて育ってきたのに、悲しみに負けてその愛を全て憎しみへ変えようとしてしまっていた。
わんちゃんが布団に半身を起こしているわたしの、腕と腕の間にすっぽり納まってきて私を見上げた。黒くて澄んだ、怖いほどに澱みのない眼と眼が合って、わたしは心の奥に妙な強さが立ち上がってくるのを感じる。
この子は私が守らなくては。
しかし、新たに生まれた強さに私がめらめら燃えていると、惠が横から、なんだかふてくされたような声でこう言って来た。
「ところで、丹。いい加減それを見てほしいんだけど」
「え?」
「写真集なの。俺の!」
なにっ、と思っていきなり写真集に意識を集中した。
深い青。インクをぶちまけたようなブライトブルーの海に一筋の光が強烈につきぬけている、一見絵のような濃いタッチの表紙。だがそれはまぎれもなく写真だった。
そう、私が初めて目の当たりにする惠の写真。
「すごい……生々しい。嘘みたいに濃い色」
私は思わず息を呑んでいた。惠の見ている世界に、その圧倒的に偏った物の捕らえ方に驚嘆せずにいられなかった。
惠が隣で緊張に息をつめているのを感じながら、表紙を開いて一ページ目に青い闇が息づいているのを見る。そしてさらにその中に、ぼんやりと感じられる漠然とした明るさがあって、その上に白い手書きの字体で
Ultimate BLUE.
と、印刷されているのもしっかり目にした。
恐らく惠の肉筆なのだろう。豪快だがやわらかい文字だった。
「最後の青、って?」
心臓が竜のように猛り狂っているのがわかった。私は惠を見た。顔が赤くなっていたと思う。彼は近くに、わたしのものすごく近くにいて、その吐息が感じられるほどの位置で自分の写真を見つめていた。伏せられた長いまつげがわずかに震えている。
はっ、と私が胸をつかまれたような気分になった時、惠は息を吸い込んだ。いきなり上げられた視線と、視線が強烈に絡む。惠は、重くもよく響く声でこう言った。
「やめたんだ。一度。この写真が、最後だった。」
「最後?」
「そう。何もかも一度やめて、この島に戻った。そうしたかった。だから、こういうタイトルになった。最後の青、最後の悲しみ、最後の人。」
そして、あまりにも唐突に、惠は彼自身について語り始めた。
私の手を握りながら、絶望的に悲しそうに。