テンペスト
いなくなってから泣くなんて
ずるいよな
海の底。世界の果て?
必ず存在するのにどこにもない場所、そういうところに私は落ちた。ズタズタに引き裂かれた、体も心も折れてしまった。
いつのまにか何か、とてつもなく大事で巨大だった何かが私の世界から欠け落ちて、ヒビが入って、気がついたらいま壊滅しかけている。襲いくる嵐から身を救う手立てがない。寒いし熱い、飛んでくる邪悪な障害物をまともに頭から受けてしまう。絶望の炎が容赦なく肌を焼いて溶かす。
私は正直、いま旅行などできる状態ではない。だがどうしても来たかった、この島に。確かめたかった。
本当に私だけが生き残ってしまったのかと。
家族というこの世の全ての生き物が属するあたたかな血の砦から、まず父と兄が消えた。母もその後を追った。そして彼らは永遠に帰ってこない。
私はそのことを事実として知ってはいたが、愛されて生きてきた時間があまりにも長かったため、体が現実にちっとも追いつかなかった。お皿はいつも二人分以上出してしまうし、大学から帰るとき家に電話をかけてしまう。いま終わったよ。すぐ帰る。なにか食べたいものある?
そういうことを無意識の内にやって、あるいは考えて、はっと現実に還る瞬間を何度もなんども味わった。
ああそうか、もう彼らはいない。私だけ、私だけしかこの星の上に彼らと同じ血をもつ者はいないんだ。
そう考えて胸が虚ろになるたびに自分がどんどん弱っていくのがわかった。いつか元気になるとしても、これからしばらくこんな日々が続くのかと考えると本気で死にたかった。辛すぎた。
だから、緋乃に、島へ来ないかとさそわれた時、私は二つ返事で頷いたのだ。
焦がれるほどの青と碧と強い光。海へ続く白砂の道に自分ひとり立ち尽くし、その影がながく伸びてあかばなの茂みに重なるのを見る。
この島で目にする全てのものが、私は私でしかないんだと、この体にいくらもういない人々の記憶が染み付いていようがお前はこれからこうやって一人ぽっちで道を歩いていくしかないんだと、風にサトウキビがゆれるような調子で教えてきた。やさしく。だが永遠に変らない運動性とリズムで残酷に。
立ち止まらせて。泣かせて。帰らせてよ、甘えさせて。
目の前を通り過ぎていく、あるいはもうすでに通り過ぎてしまったものたちに手を伸ばすことさえできず私は地団太を踏んでそう泣き叫ぶが、島は何も答えない。ただ、波音を繰り返して、遠くに三味の音をかすかに響かせ、ぞっとするほど静かにそこにある。
私は自分の鳴き声が天に昇っていくのを聞きながら、この世にはどうしても見送るしかないことがあるということを知る。そしていきなり、半ばヤケクソで走り出す。空の下を、海めがけて、強い日差しを真正面から受けて。
そうだ、本当は知っている。どんなに辛いことがあっても、私は最後にはちゃんと伊礼丹になれるのだと。
「お母さーん、丹が熱出してるよ、すごい熱いよ!」
「ええっ、大変、お薬飲ませないと。ちょっとお兄ちゃん、お水を持っていってあげて、お父さんは?」
「お父さん、トイレに入ってる。」
「またなの!? お腹こわしたの?」
「昨日のお酒がきいてるみたい。」
「ああもう、じゃあいいわ、わたしが行く。一緒に行こう、お兄ちゃん。ほら、この体温計もって」
「うん。丹、大丈夫かなあ。」
ぺたぺたと廊下を歩く二組の足音。
風邪を引いていない時でも、わたしはわざと寝た振りをして、彼らが私について何か喋っているのを聞くのがたまらなく好きだった。
「……おにいちゃん、本当のことを言ってくれる?」
「えっ。なに、なにが?」
「昨日の夜。丹とふたりで何処かに出かけてたでしょう。台風が去ったばかりだったのに。どこにいってたの?」
「えーっと……怒らない?」
「場合によっては怒るよ。お母さんは、あんたたちのお母さんだもの。」
「じゃあ言いたくないよー」
「怒られるようなことをしてきたのね?」
「してない、してないよ!」
兄は嘘がつけない人だった。死ぬまでずっとそうだった。
「なんにもしてない、ただ、犬が死んでたんだ、怖かったから見に行ったんだ! 僕らなにもできなかった、犬が溺れてたのに、助けられなかったんだ……」
「犬?」
ああもうバーカ、お兄ちゃんの阿呆。心のなかで罵るわたしの元にやがて二人がやってくる。馬鹿な子ねえ、と母は私の枕もとにひざまづき、額の汗を拭いてくれながら言った。
「落ち込んでるのね。でもすぐに立ち直らなくてはだめよ。強くならないとだめよ。一度死ぬほど後悔したなら、次には絶対に後悔しないようにするのよ。丹、やさしい子ね、あなたは。だけどやさしいばかりで弱くなってはだめ。心を強く持ってね。お兄ちゃんもよ」
「僕も?」
「そうよ。二人とも、私達のかわいい子供なんだからね!」
今にして考えると、なぜ母はあんなことを知っていたのだろう。体が弱くて、いつも人よりほんの少し行動を制限されていたからだろうか。そのために心ばかりが大きく羽ばたいて、世界中を飛びまわっていたのだろうか。
なんにしろ、彼女はもう滅し、私が今思い出せるのはその人生哲学だけ、細くたおやかな声だけ。
やわらかくひんやりとした手だけ、だ。
「失ってから、誰かが、なにかがいなくなってから泣くなんて、いちばんずるいことよ。」
強い、ひとだった。最高の家族だった。
ひたいに何か冷たい感触が落ちてきて、眼が醒めた。
びくっと身を痙攣させて飛び起きた私は、その途端内臓という内臓が悲鳴をあげるような痛くて熱い体内の痛みに身をよじっていた。
「丹! ごめんね、起こしてしまった。」
「ひ、の?」
再びふとんに倒れ伏しながら私は、斜め上方にある彼女の顔を見上げる。雨が叩きつけるように、まだ降っている。この古い木造の家を壊してしまいそうな、かなり強い雨足だった。
そうか、嵐が来て、同時に熱を出したんだと思い出す。
緋乃がもう一度、動いたせいで落ちてしまったアイスノンを私の額の上に乗せながら言った。
「うん。惠が教えてくれたのよ、あなたが具合が悪いって。彼、すごく心配しているわ。もちろん私もよ。界が惠の車を借りて薬を買いに行ってくれてるの。ごめんね、後すこしだけ我慢してね。何か食べれそう?」
「無理。……ねえ、惠は?」
冷たすぎる氷の温度に顔をしかめながら私は言った。自分で情けなくなるほど弱々しい声で、相当ひどい風邪らしい、とわかった。
緋乃はつとめててきぱきと、でも私に気を使っているのがありありと伝わる答え方をした。
「家に帰ったわ。急用ができたみたいで。あ、でも、すぐに戻ってくるって言ってたから心配しないで、そうだわんちゃん元気になったのよ! 会いたい? 会いたいなら連れてくるわ、怪我はまだ治らないけど、今じゃすっかり元気なの。」
「うん、会いたいけど、怪我が悪くなるとかわいそうだから、今はいいや。緋乃、外、雨?」
「大雨。どうやら台風ではないようだけれど。嵐ね」
「惠と瀬川くん、大丈夫かなあ」
「大丈夫よ。彼らは強いから」
そこまで喋って、ことばが途切れた。
ごうごうと風が鳴り、海がその凶行に合わせて身を変容させ、たけり狂っているのがわかった。波が浜を通り過ぎて石垣を打つものすごい音が、耳が痛いほどに聴こえていた。
私はまだまだ高い熱のせいでろくに回らない思考をなんとか回転させようと務めた。瀬川くん、ほんとうに大丈夫? ああ、緋乃の横顔、心細そう。惠が来た気がするけれど、あれは夢?
浅く息が乱れる。首のうしろ、背中、足までびっしょり汗をかいていた。
頭が割れそうに痛いし、最高に気持ち悪かった。喉がからからだ。口を金魚のように開けてあえぐと、緋乃が気がついて水を飲ませてくれた。よく冷えた水が喉をすべりおちて胃にはいっていく感覚が心地よかった。
思わず深く息を吐き出すと、緋乃が言った。
「辛いね。丹」
「そうだね……けっこう、しんどい。」
単純に風邪のことを言われたと思った私は答えたが、彼女は別の意味合いで言ったらしかった。言葉はこう続いた。
「傷つくために生まれてきたんじゃないのにね。なのに私たちは弱すぎるよね。そうしたいわけじゃないのに誰かを傷つけて。傷つけられて。傷つくんだわ。あんまりあっさりと」
「ひの?」
「言っていいのよ。報われたいって。頑張ったらがんばっただけ素敵な思いをしたいって。愛されたいって。また笑いたいって」
「それは……たぶん、言っちゃいけないこと。」
汗だか涙だかわからないものが頬を流れ落ちるのを感じながらわたしはかすれた声で言った。緋乃は首を振った。左手が下腹部に当てられていた。
「言わなくてはだめ。だって、そんなにぼろぼろになるぐらい辛い思いをして幸せになれなかったら、丹はなんのために生まれてきたの?」
「わからない。それをわかる人はいるの?」
「わからない。でも、私は、少なくとも私は、愛する人たちを愛したい、笑わせたい、幸せにしたい。生まれてきた理由はわからなくても、今生きていきたい理由はわかるの。」
「それは緋乃が強いからよ」
「強くなんてないわ。ただ、弱さを認めてくれる人がいるだけよ。そして人は一人で生きられるわけじゃないと、知っているからよ。」
彼女は必死だった。平生と比べてひときわ輝いている瞳からそのことが痛いくらいに伝わってくる。私はもちろん緋乃の言っていることの意味はわかっていた。だが頷くことはできなかった。
頷くともう二度と、起き上がれなくなってしまいそうだった。
「私も強くなりたい。……選んでいきたい、自分で決めてゆきたい。あなたのように。瀬川くんのように。惠のように」
「丹、強いということは、弱さを知ることの裏返しよ。あなたはもう選択してるのよ。あなただけの人生を生きていくことを。だからそんなに辛そうな顔をしているのでしょ?」
「わたし、辛そう?」
「うん。とても、とても悲しそう。そして切なそうよ」
「……惠に会いたいな。」
夢を想うように私は言った。天井に顔を向けて、ひたいのアイスノンの冷たい感覚に目を閉じた。
「彼と会えてうれしい。もっと話したい、もっと通じ合いたい。わかりあいたい。ねえ、緋乃、ありがとう。あたし、緋乃、大好きだよ。心配してくれてるの、痛いぐらいよくわかる。だけどだいじょうぶだよ。最後にはがんばって立ち上がるから。そのためにここに来たから」
「うん。ねえ、でも、一つだけ教えて。」
玄関の扉が開けられる音が遠くでした。わたしはうっすら眼を開けた。
「なに? 緋乃」
「丹が今求めるものは惠なの?」
少しの間があった。緋乃のまっすぐな質問に、私が息を呑んでしまったからだった。求める、ということをいつの間にか自分が諦めかけていたことに気がつきながら、私は乱れる息に胸を上下させて、口を開いた。
「うん。だけど、それだけじゃなくて」
「うん」
「たぶん、わたしも。私自身も必要。絶望を切り開くちからが」
そう。私はいつだって、自分のことを誰よりも強く愛していたい。
そしてそれと同じだけ強く、惠のことを愛したいのだ。