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恋しあかばな  作者: 小糸
12/21

嵐の訪れ

 

 永遠の歌をうたってくれ

 悲しみが永久に眠るように

 僕がきみに祈れるように




「子犬だなー、生後一ヶ月? 二ヶ月?」

「そんな小さくないでしょ、けっこうずんぐりしてるもの。」

「いやー、これ多分、ラブラの子犬だよ。だとしたらまだ一ヶ月くらいだと思う、瀬川くんの言う通り。」

「それにしても、なんで溺れちゃったんだろうね……?」


 小さな犬はビニールシートの上で丹念に濡れた体を拭かれ、サンドイッチの具のハムをもらったりして、しばらくすると元気を取り戻し始めた。

 食欲は旺盛だったので病気などではないようだったが、だとしたらあんな風に溺れる理由がわからなかった。

 人間のようなバカは例外だが、陸上動物は普通、本能で海に入ったりはしない。しかもこの子は惠の言った通りに雑種ではない。島の飼い犬としか思えなかった。

 皆でおかしいね、と言いながら子犬を取り囲んでいたところ、理由が判明した。

 瀬川くんが犬の前足をつかんで立たせ、その後ろ足に酷い怪我をしているのを発見したのだ。赤と白がまだらに入り混じるもも。

 私達の目は吸い寄せられるようにその一点に集中した。惠が息を呑んだのが聞こえた。私は、思わず彼のアロハシャツの裾を強くつかんでいた。


「あー、かわいそうに。ウジがわいてる」


 なんでもない事のように瀬川くんは言って、緋乃がそれに答えるように、白魚の如き手で、犬の傷口にうじゃうじゃわいているウジ虫を払い落とした。

 私は仰天したが、この夫婦にとって、それは本当になんでもないことのようだった。


「救急箱があればよかったのに」


 緋乃が言って、犬の膿と血がついた指先をタオルで拭うと、そのまま犬をくるんで抱き上げた。


「消毒できたのに。この怪我のせいで溺れちゃったのね、きっと。波にさらわれたんだわ。」

「だな」


 瀬川くんが相槌をうって、微笑むと、その大きな両手で犬の前足を握るとあやした。私はその表情に、夫婦が持つあまりにも高貴な優しさに、胸が射抜かれたような気分になった。自分がやさしくされた気がした。


「早く帰って手当てしてやろう。途中で獣医見つけられたら、そこに連れてってやってさ。惠さん、そろそろ帰ろう。」

「う、ん。」

「丹も。大丈夫? 体冷えてるだろ?」

「大丈夫だよ。ありがとう」


 今や辺りには強い風が音をたてて吹いており、一同吹き乱れる髪の毛を押さえながら帰り支度をしていた。

 なにかが、起きている、変化している、と私は嵐の音が島をすべっていくのを聞きながら思った。

 自分を守るだけでせいいっぱいの筈の私が、生きた人間と出会って、彼らを好きになった。死にかけていたわんちゃんを助けた。

 そして何もできないくせに何かしてあげたいと想っている。強くなって彼らのために飛びたいと。

 死と思い出と後悔に閉じ込められた、八方ふさがりの最悪な状況下、それでも生きた命に惹かれていくこの摂理。


 誰しもなにかを失って、それでも前へ生きていく。


 ぽっと音を立てて一粒の雨が降ってきたと思ったら、その後島は雨に飲み込まれた。花に、緑に、勢いよく天からの水は降り注ぎ、島を白く煙らせた。

 あわててパラソルをたたみ、道具を車に積み込むと、犬をしっかりと抱いて私たちは浜を後にした。


 犬の怪我は思ったほどひどいものではなかったらしく、清潔にして栄養を与えていればすぐに元気になりますよ、と医師は言った。だが犬の飼い主に心当たりは無いらしく、調べておくとは言ってくれたが、大きな謎がひとつ残った。

 犬が無事だと聞いて気が抜けたのか、私は家に戻って熱いシャワーを浴びた途端、急に疲れて廊下にへたりこんでしまった。

 雨の音が響く廊下はいつもよりずっと気温が下がって涼しくて、床は綺麗に磨かれていて冷たかった。明かりの無いその暗い場所から、私はすこし先の角、居間から漏れてくる光をみじめに見つめる。テレビニュースの音が聞こえてきていた。


 界、めぐ、何か食べる? お夕飯まで待てる?


 沖縄の天気に関するアナウンスの合間を縫って、緋乃の丸い声が通る。


 あー、待てなくはないけど、腹減ったよなあ。何かある? 惠さん、どう?

 うーん、俺も実はけっこう腹が減った。奥さん、なんか作ってくれませんかねえ。

 瀬川くんと惠が答えて、緋乃の声に母性のような甘さが滲むのがわかった。

 かまわないけど、そうするとお夕飯の材料が足りないかもしれないのよね。また後で買い物に出なくちゃ。惠、案内してくれる?

 もちろん! ってかさ、それなら、今夜は外食しようよ。お勧めのバーがあるんだ。ライブステージもあるから、奥さん歌がうたえるよ!

 もー、奥さんとかいう呼び方やめて! それに外食したらわんちゃんはどうなっちゃうのよ!


 そこできゃんきゃん、と元気に犬が鳴いて、私はふいに泣き出してしまった。

 よかった、と嬉しいのか、今のみんなの会話でなんだか無性に家族が恋しくなったのか、よくわからなかった。

 ただ胸から何かねじが外れたようだ。体に力が入らなくて、今まで流しきれていなかった涙までもが一気にあふれてくる。熱くて、自分でも信じられないほど大量に流れる涙だった。

 日焼けした肌に水分が染みて痛い。

 私は首からかけていたタオルでごしごし顔を拭いて、更に肌を痛めつける羽目になった。

 ……廊下の奥の明かりはあまりに温かくて、今のわたしには少し遠い。

 眠いから寝よう、と思った。心も体もすごく疲れていた。

 割り当てられている部屋にひっそりと戻ると、わたしは泥棒のように音を立てないよう気をつけながら布団をしき、そこにもぐると一気に意識をシャットダウンした。

 閉じた視界に星が散る。背中の後ろからゆっくりと眠りの世界が口を開き、私を呑み込む。

 海に飛び込むように逃げ込んだ闇の彼方で、誰かが私を呼んだのが聴こえた。


  丹?

   

 それは夢も見ない眠りだったが、決して永い眠りではなかった。文字通り死のような虚無と、不安を孕んだ唐突な覚醒、そしてそれが次第に冷めて胸をがらんどうにする孤独へ変化し、私は翻弄された。

 体はびくとも動かないし、頭も完全に思考を停止しているのに、ただ心だけが嫌な感じに熱を持っていて休まない。かなり辛くて、何度も声にならない声で叫び、ぜいぜい息を乱しながらもんどりうった。

 熱い、寒い、気持ち悪い吐きそう、と世界を呪い始めてやっと自分が具合がわるいらしいことに気がついた。


 ……この状況で風邪ひいちゃうのはしんどいなあ。


 私はふたたび泣きべそをかいていた。だって、具合が悪い時は人間どうしても誰かにそばにいてほしくなるのだ。特に熱が出ている時は意識がもうろうとして、自分がどこにいるのか、誰なのか、まったくわからなくなるから、熱のあまり布団にドロドロに溶けてしまいそうな恐怖と一人では決して戦えない。

 くるしい、と酸素を求めてあえぎながら私は、家族を失ったという事実とはじめて面と向かってご対面していた。

 今までも、彼等がいないことを実感させられる機会は何度もあった。葬式に墓作りに、引越しまで自分でこなしたのだから当然だ。

 しかし、それらはやらなければいけないことをやった事による疲れであって、悲しい虚しさだった。漠然とした孤独は私の目と鼻を濡れた布のように覆ったが、切っ先するどい刃となって心臓を刺しはしなかった。


 ──会いたい。


 きっと私は、心のどこかでわかっていた。そう思うことがあまりに自分に対してフェアじゃないと。理不尽だと。

 だからずっと眠らせていたのに、今、その馬鹿みたいに単純な切望は、わたしの胸を食い破ってこみあげてくる。


 会いたい、あいたいよ、お父さん。お母さん。

 お兄ちゃん。

 戻ってきて、また笑って、一緒にごはんを食べようよ。看病してよ。アイス買って来てよ。

 それでまた、みんなで輝くみたいに幸せになろうよ……。


 涙があふれて、まなじりから耳へと、音も立てずに伝って落ちた。


「丹?」


 もうこれ以上ない位卑屈な悲しみのどん底にひたっている私に、触れてきた声があった。


「丹。熱があるのか、具合がわるいのか?」


 うっすらと眼を開けると、なんだか真っ赤に染まったへんな世界で心配そうにこっちを見下ろしている男の子がいた。赤いサングラスをかけたような視界だったが、私は彼をじっと観察してみた。

 日焼けして真っ黒な肌。黒い髪の毛がその肌色によく映えている。大きな眼はすごく光っていて、熱を放っている。わたしは直視できずに目を逸らした。

 体つきは……屈んでいるのかな、がっしりした腕がまず二本見える。そしてそこからつながる厚い肩、意外に長い首。太ってはいない、どちらかといえば細身だ。

 野生動物みたい、と思って私は再び彼の眼に視線を戻した。すると今度はその瞳にやわらかく怯えたような色が浮かんでいたので、息を吐いて手を伸ばした。どうしたの、と言おうとした声は声にならなかったので、私は心の中で思った。

 どうしたの、なんで泣きそうな顔をしているの?


「丹……? すごい、熱があるよ。」


 彼の手が私の手を包み込む。肌色と体温の差が引立った。ひんやりとした感覚にうっとりしながら、私は自分がこの男の子の名前を知っていることを思い出した。

 惠。そう、惠だ。

 でも呼ぼうとしてもやっぱり声が出なくて、たまらなく悲しくなった。


「丹、なんで泣く? くるしいの?」


 うなづいた。触れられない人がいるの、呼び声がもう届かない人が。

 あなたもそうなってしまうの?


「ごめんな」


 握られた手の指に、指が絡んだ。太くてしっかりした、何でも掴んでいけそうな指だった。

 胸を数多かすめる別れの瞬間、置いていかれた記憶に、私は心底恐怖した。

 きっと彼も離れていく。でも、行かないでとは言えなかった。

 だって、行かなくてはいけないのは私も一緒なのだ。

 立ち止まって一時の甘さに溺れるより、手足を失ってでも先へ進んで強くなりたい。いつだって海でありたい。全てを受け止められる存在、ただ生きて、何ものにも支配されずに空を愛す。

 その心が伝わったのだろうか。

 惠は私の手をしっかり握ったまま、ゆっくりと、そこにやさしいキスをくれた。


「たん。今日、ごめん。またお前に無理させた。泳がせて、犬を助けさせた。何をしても無防備すぎて怖いぐらいのお前なのに。危険な目に遭わせてごめん」


 どうしてあなたがあやまるの? 

 私は思った。思っただけだから、もちろん伝わるはずもないのに、惠は首を振ってこう続けた。


「俺はお前を、辛い目に合わせたくないよ。なんでだろう。お前が寂しそうだから? 自分に似てるから? それとも強く在ろうとするその姿勢に、憧れるのか。イラつくのか。どれもちがうんだ、多分、自分でもわかってるんだ。丹、俺は。」


 惠は眉をきつくしかめて私を呼んだ。その発音の仕方に、ああさっき私を呼んだのは彼だったのかとわかった。


「俺はたぶん、お前ともっと話したい。もっと会っていたい、もっとお前を光の下に置いておきたい。熱があるお前にこんな事言って、ひきょうなことなのか馬鹿なことなのか全然わかんないけど、だけどそういう感情なんだ。わかるか? 丹、俺はおまえが可愛いんだよ。」


 熱が再び上がり出し、私はまた瞼が眼の上に降りてくるのを感じた。もっと惠を見ていたかったし、もっと彼の声を聞いていたかったから、抗ってみたが難しかった。猛烈に意識が弱っていた。蜘蛛の糸のようにそれは白く伸びて、切れる瞬間を待ちわびていた。


「自分で自分がよくわからない。たまらない、感情なんだ。何なのか、全然わからなくて。今日写真を撮って、驚いた。見える世界が変ってる。ちがう、変っていく。刻一刻と。解き放たれていくのがわかった。それはわかるんだ、だけど。丹。おまえが、俺にとって何なのか、俺は全然わかんなくて……。」


 惠は必死に言葉をさがしていた。

 私は、微笑んでいたと思う。よく覚えていない。もはやそれは夢の情景の一端になっていて、今思い出すとまったく現実味を帯びずに幻のような淡い色で心に投影されるだけなのだ。

 でも、それはとても悲しいけれど、同時に甘い夢だった。

 惠、と音をともなわず口だけで呟いてみると、彼はうん、と答えた。あいかわらず私の手を握ったまま、離す様子はまったく無かった。

  惠、惠。私もだよ。あなたともっと話したい。あなたの見てる、世界を見たい。一緒に。たくさん。できるだけ多く。

 あまり時間は、ないけれど……。


「めぐ、み。」

 

 命を削るようにしてその名を紡ぎ、今度こそ完全に目を閉じたわたしの手に、惠はまた、キスをくれた。




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