into the dark
まだ消えないで
留まって
あと少しだけ 夢を見させて
翌日、はじめて惠が写真を撮っているところを見た。
いくら厳しく、あるいは優しく諭されてもいまだ妊娠を告白できないでいる緋乃が、瀬川くんに罪悪感を感じたのだ。彼にダイビングをすすめた。
「ダイビング? 俺が? 海の中に潜って魚を見るの? お前をナンパしてた奴等と同じ行動をしろって?」
瀬川くんは訳のわからない理由で最初は反抗していたが、私と惠が横で嬉々としてウェットスーツやシュノーケル、酸素ボンベなどを用意し始めるのを見て、段々その気になったらしい。
奥さんに、お前は行く? 行くんだよな? 家に一人で置いていくわけにはいかないよ、一緒においで。等々、いじらしいまでの気遣いを見せ、やがて身支度を整えるとふたりで玄関をくぐって出てきた。
「なかよしだねー」
「ほんとだねー」
既に車に乗り込んでいた私たちは笑った。
車は惠のものだ。大型のトヨタの四駆で、屋根にはサーフボードがセットされている。後部座席にはさっき積み込んだばかりのダイビングセットと、それから、アナログとデジタルの入り混じる写真道具がしっかり固定されて収まっていた。
今日のような日にはマンタがよく現れるんだ、と惠は言った。眼が輝いていた。
「マンタって、エイだよね。エイの一種」
私が聞いてみると、彼は生き生きと話し始めた。
「そう! すげーでかいよ、圧巻だよ、とぼけた顔しててかわいいし、でかいのに食い物はプランクトンというギャップ。丹、見たことないの?」
「ない。大体、石垣にいたのは子供の頃だけだもん。ダイビングとかシーウォッチングなんてお洒落なことに目覚める前だよ。」
「ばーか、おしゃれとか全然そういう問題じゃない、命だよ、命を見るんだ。すごいぞ。野生に圧倒されるぞ、恰好いいぞ!」
「でもなんで海の生き物だけ撮るの?」
「むかし俺たちと同体だった、兄弟だからさ。あるいは花嫁だから。引き離されたから、恋してるんだ。瀬川くんたちが音楽に恋してるみたいに」
「情熱的……!」
そんな話をしている内に瀬川夫婦が乗り込んできたので出発した。
惠の好きなペットショップボーイズを延々聴かされながら島の端まで車を走らせ、一同くだらないことで笑い合いながら、朝から最高に気分がよかった。天気は少しだけ曇っていたが、それでも海は青く、滲むような光が天から降っていた。
「うおー、すげえ。俺、沖縄とか海とかに幻想抱かない嫌な奴だけど、この海はほんとすごいね。きれいだね! 生々しい!」
白いパウダー状の砂の上を歩きながら、浜との境目もわからないほど透明な水に瀬川くんが感激した。さっきまではすましてたくせに今はめちゃくちゃはしゃいでる様子が可愛くて、好感が胸にあふれるのを感じた。
彼は日本人としてはかなり体が大きい方だが、やっぱりこうして桁外れの自然の前で見てみると、その肉体の規模は私たちと全然変らない。小さい。
見上げた空がまるで水面のように潤んでいるし、浜は永遠のようにゆるいカーブでどこまでも続いているし、もう何がなんだかわからない。
ただここに居て、ただ呼吸ができていて、生きている。そのことって素晴らしいんだと感じた。
私だけ生き残って、今こうして故郷の海を、出会ったばかりの大事なひとたちと見つめられている。
すごく惨めな気がしないでもないけど、でも生き残れたのは幸運だったのかな、と何故か思った。
「なんだか、何もかも馬鹿馬鹿しくなるね。」
「ほんとだね。来てよかったかも」
私の声に瀬川君がすなおに頷き、それからふと奥様の顔を見た。
「お前、もしかして、ただ帰ってきたかっただけなのか?」
「……それもある」
「なんだそのあいまいな言い方」
「だってホントにそうなんだもん」
「はっきり言えよ。それが俺たちのルールだろ」
後ろで話すふたりをさておいて、私と惠は妊婦のために用意したビーチパラソルやレジャーシートを広げ、居場所を作った。待ちかねて瀬川くんが泳ぎ出すと、惠もつられて行ってしまった。
弾けるような笑い声が浜に響き、なんだか楽園のような風景だ。
興が乗ってきたらしく、彼らは一端戻ってくると近隣のショップでボートを借り、そのまま一気にダイビングまで決行してしまった。惠はカメラを持っていった。
沖に浮かぶ船に手を振りながら、私と緋乃は日差しの下でサンドイッチを作って食べた。普通の味なのにすごくおいしくて、持ってきたコーヒーをアイスにして飲んだらぴったり合った。
丹はダイビングしなくていいの? と緋乃は何度もなんども心配そうに聞いてくれたが、私は彼女に気を使わせたくなかったので、「問題ないよ」とつとめて明るく答えておいた。
「まだ五日間あるし。やりたければいつでもできるし。それに、今は男同士の友情を大事にしてあげたほうがよさそうだしね。」
午前中はそうやってひとしきり遊んで、太陽が空の真上に昇る頃、やっと男の子たちが戻ってきた。
惠がふざけて私たちを撮りはじめたのはその時だった。
奥さんにタオルを渡されて笑う、真っ赤に日焼けした瀬川くんや、海風に白い帽子がさらわれないようつばを押さえる緋乃の細い手先、そして今しも海に入ろうとしていた私。
逃げる間もないくらいすばやく、そして豪快に、惠はばしばし瞬間を盗んだ。はじめは嫌がって走り回っていた私たちも、そのうち惠の、
「いいから、いいから! お遊びっていうか、記念撮影だよ! 好きなことしてていいよ、最高に楽しい瞬間だから残しておくんだ! なんにも悪いことじゃないだろ?」
というセリフに納得して、彼のするままに任せた。
惠は野生のヒョウのように俊敏にあちこちを移動しているので、撮られる側のわたしたちとしてもやりやすかったのだ。
カメラを手にした惠は水を得た魚だった。手ぶらの彼に足りない、何かへの渇きを、写真を撮ることによってぐんぐん癒している。彼にしか見えない、感じられない数多の瞬間を飲み干して、刻一刻と色を変えていく。
光を──惠は追っていた。
私を撮っても、緋乃を撮っても、瀬川くんを撮っても、そのなかに必ず何がしかの光源を見出せなければ彼はシャッターを押していなかった。
それはつまり科学的な意味合いの光だけではなく、例えば瀬川夫婦のあの燃える眼の輝きとか、今作られたばかりでタッパーの中に納められている美味しそうなサンドイッチとか、そういうものが放つ光のことも含む。
写真の世界なんてさっぱり知らないからよくわからないが、プロなだけあって惠の写真の撮りっぷりは見事だった。惚れ惚れした。
でも私は、なんだか彼が撮る姿を見れば見るほど、かわいそうになった。
なぜあんなにがつがつ光ばかりを追うのか。
あんなに多くのものを飲み込んで、なおかつまだ飢えた眼を、決して満たされない眼をしているのか。
昨夜の、月明かりに照らされた惠の眼を思い出し、たまらなくなって私が海に飛び込んだ時だった。
沖の島にレンズを向けていた惠が叫んだ。
「丹、犬!」
悲痛というか、怒ったような声だったので私ははじめ自分が怒られているのかと思った。しかし勿論そうではなく、慌てて姿勢を正して振り向いた先で彼は言った。
「波間、沖の方、子犬がおぼれてる!」
「犬?」
やっと話を理解した私は惠の指す海の一点に目を凝らし、確かにその波間にぼろくずのような、茶色っぽい物体が翻弄されているのを見つけた。
少し遠いが、いける距離だ。空はますます曇ってきているが、波はまだ穏やかだ。
大丈夫。
即座に泳ぎ出しながらも自分で自分を落ち着かせる必要があったのは、以前にもこういう状況に遭遇したことがあったからだった。いつもより力を込めて波をかきながら、思い出した。
あの日。こんな風に小さな犬が海に溺れていたのを見捨てた日。私はまだ幼くて、石垣島に住んでいた。台風が去った後の浜辺を兄と一緒に探検していた。あたりには椰子の葉っぱやちぎれた花々、ゴミや珊瑚の死骸がめちゃくちゃに飛んできていていつもの浜じゃないみたいだった。
宝捜しだねえ、と言いながら兄と身をかがめながら浜を歩いていると、ふと、怖いくらい澄んだ海の上で、ばしゃっと音をたてながら何か生き物が浮かんでいるのを見つけたのだ。
魚ではない。もっと大きくて、毛が生えている。自分たちと同じ哺乳類だ。
そんなに遠い距離ではなかったし、私たちは二人とも視力がよかったのでそれが子犬だということはすぐにわかった。だが、動き出すことができなかった。
何だか、信じられなかったのだ。自分と同じように肉を持ち、温かい血が流れ、心臓が動いている生き物がすごく弱って、今しも鼻先が永遠の水面に沈んでいこうとしている。後少し、あと一ミリで死ぬ。死んでしまう。
まだまだ幼かった私たちがはじめて触れた、それは絶望の蕾だった。こわくて怖くて、二人とも、気がついたら泣きながら浜から逃げていた。
同日の夜にもう一度懐中電灯を手に見に行ってみると、犬は浜辺で死んでいた。固くなったびしょ濡れの体を砂にはんぶん埋もれさせて、冷たい風に吹かれて。
開いたままの眼に泥がかかっているのを見て、私が泣いた。兄は何も言えずに黙っていた。今でも忘れられない大罪だ。
私たちはあの時、私たちしか助けられなかったあの子犬を、見殺しにした。
きゅ、きゅう、きゅうと子犬はぶるぶる震えながら恐怖に鼻を鳴らす。その小さくて冷え切った爪を私の肌につきたててくる。
強烈なデジャ・ヴに襲われながら、私はゆっくりとUターンして浜を目指した。頭の上で雲が濃い色に渦巻き始めていたのだ。
戻ると、惠が乾いたタオルを両手に持って広げて、私を半ば抱きしめた。
瀬川夫婦の手前だったのでかなり恥かしかったが、思い出と波に翻弄されて弱った私は抵抗しなかった。ふらついた足元に轟くような音を感じて、嵐が近いことを感じ取った。
海鳴り。
「ごめん、丹、ごめん。」
惠は何故かひたすら謝り、私の頭をがしがしと拭いた。その後ろから、
「丹、大丈夫!?」
と言いながら緋乃が飛んで来て、さらに、
「丹、はやくこっちに来て、犬も一緒に暖まらないと。風邪引くよ。惠も、そろそろ帰る支度しないと。雲行きがあやしくなってきた」
瀬川くんがパラソルの下で冷静に熱いコーヒーを作ってくれていた。
素晴らしい面々だわ……と思いながら私は惠をやんわり押しのけ、ずっと腕の中で震えていた茶色い子犬をタオルで包みこんだ。改めてその幼い顔を見つめる。濡れてヒクヒク動く鼻。怯えた黒いふたつの眼、垂れた耳。
こんな小さな命が、あの広大な海の上で生きたいともがいていた、死をはねのけようと頑張っていた。
そう考えるとたまらなくなって、助けられてよかった、と心の底から思った。今度こそ見捨てなくてよかったと。
でもこの嬉しさを私と唯一わかちあえる筈の兄は、もうどこにもいない。
それに気がついて、涙が出そうになる。