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恋しあかばな  作者: 小糸
10/21

思染めて

 

 ブーゲンビリアの花が咲く

 甘い甘い色が揺れる

 喰われて ただれて 溶けてしまいそう




 暮れなずむ海を見つめていると切なくなるのは何でだろうね。

 いまと同じ夕焼けが二度とないってわかるからじゃないか?

 そうだよね、今って、もう今じゃないもんね。ずっと動いてるもんね。

 だからこそきれいなんだろうけどなあ、世界って……。


 惠とそんなことを言い合いながら、夕日に沈んでいく影の長い道をゆっくり歩いていくと、眼の前の家の石垣からしわくちゃで黒いおばあさんが出てくるのと鉢合わせした。ブーゲンビリアが咲き乱れている綺麗な家だった。


「おばあ!」


 惠が叫んで駆け寄っていくとおばあちゃんはにかっと前歯の無い口で笑った。

 なんとも醜い顔だったが、それは私が惠に感じていたあの掛け値なしのまばゆさ、心の奥の、蛆がわきそうにじめじめ暗い場所をかっと照らしてくれる力に満ちたスマイルだったので、私は眼を細めた。胸がじんと熱くなるのがわかった。


「あらまー、恩納さんとこの、惠くんねー。久しぶりじゃないの、元気にしてたー? そこの女の子は彼女なのー? やるじゃないの、憎いわねー。」


 おばあちゃんはこのような内容のことをものすごい方言で話した。石垣と慶良間の違いだけではなく、年代の違いによって五十%ほどしか理解できない本物の島ことばだった。

 惠は現代日本人らしいうちなーぐちで応酬した。


「彼女じゃないけど、かわいいでしょう。ちっちゃくってイルカみたいだろ。子供のイルカ。おばあ、この間くれたドラゴンフルーツ、うーまかったよ! 親父がほとんど食っちまってさぁ、俺は全然食べれなかったけど。また頂戴ね、余ったときでいいから。」

「今あげるわよー、パッションフルーツをもらったんだけど、多すぎてあたしとおじいじゃ食いきれんと思ってたところだったから、ちょうどいいわー。そこのイルカちゃんも食べる? 食べるよねえ、じゃ、庭のパイナップルも取ってくるわー、ちょっと待っといで。ここにいるのよー」


 おばあちゃんは自分が何かをするために家を出てきたことをすっかり忘れたように、また石垣の奥に戻っていった。私は惠の傍に寄っていって、


「子供のイルカで悪かったわね。」


 と彼の背中を思いっきり手のひらで叩いた。海で日焼けしたからさぞ痛いだろう、と思ってやったのだが、島育ちの彼にさしたる効果はなかったらしく、惠は夕日の中で赤く笑っただけだった。


「いい意味だよ。」

「イルカ好きなの?」

「大っ好き。俺、生き物の写真って取らないんだけど、海の生き物だけは例外なんだ。イルカ、クジラ、マンタ。」

「じゃ、私もその内撮られることになるのかな。」


 完全に冗談のつもりで言ったのだが、惠にとってはそうではなかったらしい。

 彼は私の発言にはっと眼を見開いて、なにかはじめて見る異生物のように私を見た。

 夕陽はあと一歩で沈む。

 光の残滓が惠の精悍な頬のシルエットを浮かび上がらせ、私はそれが強張っているのを見て取った。


「……めぐみ?」


 彼がどうかしてしまったのかと怖くなって私がそう聞いたのと、家の中からおばあちゃんがどっさりフルーツを持って出てきたのとは同時だった。

 惠はすぐにおばあちゃんの方を向き、さっきと寸分違わぬ笑顔を見せたものだから、私は一瞬前まで自分が誰と話していたのか本気でわからなくなって混乱してしまった。

 胸がドキドキして、手に嫌な汗をかいていた。

 惠にあんな顔をしてほしくなかった、と、なぜか泣き出しそうな気持ちで思った。

 

「じゃ、気をつけてお帰りねえ。また来るんだよー」

「うん。丹、帰るよー。」

「……うん。」


 夕陽が完全に沈んだ。世界に青が降りてくる。

 差し出された手を掴んで、あわいブルーをかすませる白い道を先に進んだ。

 暗い帰り道を一緒に帰れる人がいる。

 随分前から一人で家路につくことが当たり前になっていた私からすれば、今この状況はとても嬉しいことであるはずだった。だがとても切なくて、胸のなかに何かがあふれてくる感覚がとまらなくて、寂しく感じてしまった。


 惠、惠。


 と、我ながら情けなくなるほど切実に、私は心の中で彼を呼んだ。

 どうしてだろう、あなたが傍にいると私、感情が水のようにあふれてくるの。


 底なしで止まらない、苦しいわ。


「おかえりなさい」

「おかえり」


 家に戻ると(とか言うとなんだかすっかり緋乃の家が帰る場所として定着してしまったようで切ないが)、夫婦喧嘩は一時休戦したのか穏やかな表情の緋乃と瀬川くんが迎えてくれた。

 普通の顔をして並んでいるのを見たのは初めてだが、改めて見るとやっぱりその眼や輪郭や、物言いに共通するものがあってお似合いだった。特に緋乃は瀬川くんが来てから明らかに顔色がよくなっていた。自分から逃げ出した手前、口には出せなかったが、やはり会いたかったのだろう。

 惠がただいま、と笑って、瀬川くんに重い重いフルーツの入った袋をバトンタッチする。なあにこれ、と緋乃が笑って、旦那さんが抱えた山のようなフルーツの中から、ドラゴンフルーツを一つだけ取り上げた。


「またもらったの? 惠は人気者なのね」

「しまんちゅが優しいだけさー。じゃ、瀬川くん、それを台所まで運んでくれ。宜しく頼むよ」

「すげー量。超重いんですが」


 苦笑しながらも瀬川くんは口で言うほど重そうな感じを見せず、そのおびただしい果物を運んでいった。


「喧嘩は終わったの?」


 ずっと気になっていたので聞いてみると、緋乃はきっぱり首を振った。


「私が告白するまで終わらないわ。」

「じゃあ早く言っちゃえばいいのに。瀬川くん、喜ぶよ? さっきだって子供欲しいなあって言ってたもん。気が強くてかわいい、女の子がほしいんだって」

「もう、ばか。はずかしいじゃない。……彼が喜んでくれるのはわかってるのよ。私だって、嬉しいもの。でも、産むのがこわいわけじゃなくて、彼のやり方っていうか、在り方が怖いんだよね。でもそれって私のエゴだから、言えないんだよね。堂々巡り。」


 緋乃のセリフは瀬川くんの存在そのものを否定することができるものだったので、私はぎくりとした。

 それは、言ってはいけないことだ。

 お互いへの愛情の保ち方に疑問を抱き、なおかつそれを受け入れていくのは、気が狂いそうになるほど恐ろしくて難しいことだ。

 だが緋乃は勇敢な娘だから、あえて口にして、飛び込んでいく。その素直さ、純粋さはあまりにも愚かだが、彼女がそうできるのは、他でもない瀬川くんがお相手だからなのだ。


「……でも、ここは東京でもパリでもなくて、島だからさ。なーんにもない、まっさらな場所だから。だから大丈夫だよ。最後にはなんとかなるよ。きっと言える、きっとふたりで最後には納得できる。」


 とっぷり暮れた島のなかで、ちっぽけな私は言った。本気でそう思えていた。

 ここでは時間にも規則にも、やらなければいけないことにも惑わされる必要はなく、その代わりに全てを自分の責任で決めて選ばなければならないが、そういう事に関しては私の友人たちはこの上なく強かったし、しなやかだった。 

 なにより彼らは愛し合っている。

 その事実があれば大丈夫だと私は思った。例え若さゆえの単純な考えだとしても、本当にそれが夜道の中光る月のように、神々しくて絶対的なものに思えた。


  「そうだね。なんくるない、かな。ありがと。丹」

  「そうよ、なんくるない、なんくるないさ。こんなこと」

  「ところで惠と仲良くなったのね?」

  「そっ……それはどうかな!」


  耳元にささやかれた言葉に、私は思わず体温を上昇させた。

 もう、いきなり何よと見てみると、緋乃はからかっているわけではないらしく、その大きな星のような瞳を表情ゆたかに光らせていた。

 ゆったりと、ゆらめく夜の光のようだ。私は思った。


「惠は強い人よ。そしてとても脆いひと」

「だから……なに?」

「だから、丹なら彼に反応すると思ったわ。」


 そして彼女は行きましょう、と言った。

 戻ろう、丹。一緒にごはんを作って食べよう。


「惠は今夜泊まってくつもりみたいよ。」

「えー、迷惑。ヒマすぎ。彼が居ると眠れないわ」


 それはあながち、嘘ではなかった。

   

 四人でわいわい騒ぎながらの夕飯はとても美味しくて、私は昨晩以上に旺盛な食欲を発揮した。

 イルカが肉をがっついてる! と惠がわめき、自分もかなり大量の肉を食べていたが、その内食べすぎで胃痛を起こし、畳に伏せる事となった。

 あらあらと緋乃が笑ってタオルケットを持ってきて彼にかけてあげ、瀬川くんは終止静かに島の地酒を飲んでいた。

 年の割に落ち着きすぎた夫婦だね……と思いながら私も地酒を含んだが、そうとう強い酒で、グラス一杯も飲まないうちに疲れていたせいか視界がまわった。

 あれ? と思って、くるめく意識に体が飲み込まれたのを感じた後には、もう場面が一変していた。

 瀬川夫妻はいなくなっており、部屋は真っ暗だった。テーブルの上はきれいに片付けられていたが、部屋にはなんとなくまだ焼肉の匂いが漂っていて、恐ろしく静かな夜の空気のなか、それは私を異世界に来てしまったような疎外感に突き落とさせた。

 がばっと起き上がってここがどこか確かめる。手の下は畳。視界がまっくらでないのは、少し離れた窓からぼんやり差し込んでくる月の光のせい。

 大丈夫、大丈夫だ、と自分に言い聞かせ、異常なほど弾んでいる息を整えようと試みた。

 簡単なことではない。海の前にいても、はやく起きてしまった朝も、静寂というものは嫌な思い出ばかりを喚起する。頬になにか液体が流れ落ちた、と思ったら、眼が濡れていた。

 涙だった。

 私、泣いてる。と思って驚きに顔を上げると、ふと横で惠が眠っていることに気がついて驚いた。

 いや、眠ってはいない。眼が開いている。


「……めぐ?」


  起きているの? 尋ねると彼は即座に答えた。うん。


「すこし前から。色々考えてた」

「かなしいこと?」

「たぶん。」


 月明かりに照らされて、彼のまつげが天井を向いているのが見えた。長いまつげだ。

 惠の声を聞いていたら、なんとなく動悸が落ち着いてきて、わたしは手元のタオルケットに眼をおしつけて涙を拭った。こういう夜は嫌いだ。

 現実と夢のさかいがあいまいになって、足元がぐらぐらする。自分が誰かわからなくなる。父も母も兄も、望んだら出てきてくれそうだ。

 もういないと、本当に知っているのに。


「惠。」

「んー」

「どうして、夕方、へんな顔したの?」

「夕方? ああ、カメラの話をしたとき?」

「そう。おばあちゃんに果物もらうの待ってたとき。」


 波音が、近づいて、遠ざかる。また近づいてはすぐに離れる。

 そのリズムが惠の息づかいと重なるのを聴いた時、私は人の中に海が流れているのかもしれないと思った。


「……どうしてかな。わかんない。ただ、言ったみたいに、生き物は撮らない俺が、ずっときみを撮りたいって思ってたことに気がついたんだ。それも、ただの被写体への欲望じゃなくて、なんていうんだろう。俺がそうしたいと思っているってことに。」

「それは私がイルカだからだ。」

「ちがうよ、そういう意味じゃなくて」


 惠はごろんとうつぶせに転がって、笑った。寝癖のついた髪のシルエットが見えた。体にも心にも、手を伸ばせば触れられそうだった。刻一刻と距離が近くなっていくのが感じられて温かかった。

 これは、夜の魔力だろうか。あるいは島の効果だろうか。

 それとも海の波音が、わたしたちに呪文をかけているだけなのだろうか。


「たぶん、丹はなんだか自暴自棄だから。走るときも泳ぐときもどこかヤケクソで、降り注ぐ光の恩寵に気付いていないみたいに思えるから。だからだと思う。」

「わからないよ、惠。私がそうだと、なんであなたが写真を撮りたくなるの?」

「そのうちわかるよ。伝えるよ」

「あと六日……ううん、もしかしたら五日のうちに?」

「必ず。なあ、ふぁむれうた、うたえる?」

「子守唄? うたえるよ。聴きたいの?」

「うん。」


 お願いされてはじめて、ああ、惠も怖いのか、と思った。

 この夜が、ではなく、こういう静かな闇の中に、溶け出してしまいそうな自分のうちの何かが。消したつもりでも決して消えない忘れ得ぬものが。

 そういえば今、彼はあの灼熱を発散していない。

 夜の中間地点でばったり巡り会ってしまったから私も気がつかなかったが、昼間の彼からすれば驚くほど冷えていて小さい。固まった溶岩のようだ。


「干瀬打ちゅる波音やー、我ん産ちゃる親のー……」


 瀬川夫婦を起こさないように、ほとんど鼻歌のように小さくうたい始めた。

 惠はここちよさそうに目を閉じて、その歌詞の意味をつぶやいた。


「干瀬を打つ波の音は……生みの親の子守唄」

「うたぬぐとぅにー、うたぬぐとぅに」 

「歌のような、歌のような」


 生まれ島かなさ

 島の志情きん肝に思染めて忘てなゆみ

 思染めて、思染めて


(生まれた島の愛しいことよ)

(その優しさこころに染めて忘れない)

(心に染めて 心に染めて)


 シュラヨイ シュラヨ にがたくとぅ

 シュラヨイ シュラヨ かなしょーり


「願ったことが叶いますように」

「あなたの夢が、叶いますように……」


 二人でひっそりと声を合わせてうたっている内に、惠は眠った。 

 私は身をかがめて、彼のひろい額にキスをした。 


 二日目の夜はそうして、過ぎていった。





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