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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ライラック

作者: 高城飛雄

 この島に漂着して十日。俺は既に、生きる目的を失いかけていた。


 呆然と海を眺め、全てを失ったあの日を思い出す。


 ‐‐‐


 あの日、俺は全てを失った。


 運が無かった。そう言ってしまえばそれまでのことなのだろう。

 だがあの日、俺は部下を、苦楽を共にしてきた船員たちを一度に失ってしまったのだ。


 全力は尽くしたはずだった。

 敵艦隊の集中砲火に遭い機関が停止してからも、思いつく限りの対処はした上で退艦命令を下した。副艦長に後を託し、俺自身は艦と運命を共にするつもりだった。

 栄光の皇国海軍、その第六戦隊旗艦『ライラック』と共に、俺は海に沈むつもりだった。


 しかし、海の女神はそれを許さなかった。


 沈みゆくライラックの艦橋から見えた爆炎。黒煙の向こうに浮かぶ幾つもの艦影。聴こえるはずのない部下たちの悲鳴――。

 退艦した兵たちを救うべく駆け付けた駆逐艦も悉く被弾していき、俺はただ手元の羅針盤を叩くことしかできなかった。

 炎と煙に包まれた海に浮かぶ水兵たちを、ただ見ていることしかできなかった。


 眺めていることすら耐え難くなった俺は潔く自決することを決めた。皇王陛下から賜った軍刀を抜き、切っ先を臍部へ向けたのだ。

 だが、俺は腹を切ることすら許されなかった。

 逆手に持った刃で腹を貫こうとしたそのとき、激しい揺れが艦橋を襲ったのだ。衝撃で頭部を打ちつけた俺は意識を失い、気が付いたときにはこの浜に流れ着いていた。


 自分の置かれた状況を悟ったとき、俺は気が狂いそうになった。多くの同胞を失い、与った艦も失い、自分だけおめおめと生き残るなど耐え難い苦痛だった。

 だが軍刀も小銃も失った俺に、自決の手段は残されていなかった。


 ‐‐‐


 俺は何もないこの島にたった一人取り残されたのだ。


 いや、本当は一人ではない。


 俺は焚火を挟んだ向こうで横になる少女に目を向けた。

 ぼさぼさの赤い髪が焚火の明かりに明滅し、病的なまでに白い肌は薄明りに青く揺らめいて見えた。歳は十五、六だろうか。ボロ布のような服に丸まって、穏やかな寝息を立てている。

 そう。この名も知れぬ少女が居る限り、俺は一人ではないのだ。




 彼女のことは、俺もほとんど知らなかった。


 引き渡された際に受けた言によれば、この少女は敵国のスパイなのだそうだ。同盟国からの輸送船に紛れ込んでいたらしく、逮捕の後に数々の尋問を繰り返したが一切口を割ることがなかったという。

 酷い話だと、軍属の身ながら哀れに思う。

 俺がこの少女の身柄を引き受けたとき、少女の眼は恐怖に揺れていた。尋問と称して散々酷な目に遭ったのだろう。ぼろきれのような服の間からは痣だらけの肌が覗いていたし、歩くときは片足を引き摺っていた。


 年端もいかぬ少女が顔を歪めながら必死で付いてくる姿は、戦時下と言えど胸の軋む想いだった。

 しかし立場上スパイの疑いがある者を手厚く扱うわけにもいかず、俺は少女を艦内の監房に閉じ込め、せめてもの情けにと、まともな食事を与えさせることしかできなかった。

 だがそれも、海戦の只中に在っては些末事だ。偵察艇の送ってきた敵艦発見の報せを受けてから後は、彼女の存在自体頭から完全に消え去っていた。


「皮肉なものだな……」もう半分ほど顔を出した朝日を見ながら、俺は呟いた。

 ライラック轟沈の際、この少女は監房に閉じ込められたままだったはずだ。常識的に考えればそのまま水に呑まれてしまうものだろう。だが現実には退艦した部下たちの生死は知れず、艦に残されていたこの少女は命を繋いでいる。

 いや、寧ろ鋼鉄の檻の中に居たからこそ、あの激しい砲火の中を生き延び九死に一生を得たのかもしれないな。


 あどけない表情で眠る少女。皇国の軍人から尋問と称した酷い仕打ちを受けたにも拘らず、同じ皇国海軍の男である俺のすぐ傍で眠る彼女は、あまりに無防備だった。


 それだけじゃない。

 この十日間、彼女は意外なほど俺に懐いていたのだ。

 それこそ、彼女が目を覚ましたその瞬間から。


 ‐‐‐


 俺がこの浜で彼女を見つけたとき、彼女もまた砂の上に横たわっていた。あまりに青白い顔だったから死んでいるのではと思ったが、幸いなことに弱いながらも脈はあり、口元からは微かに呼吸の音も聞こえていた。身体には至る所に暴行の痕があったが、命に関わるような傷は見当たらなかった。

 衰弱した少女の寝顔を見た俺は何を思ったのか、ほとんど裸も同然の少女に自分の上着をかけ、彼女が目覚めたときの為に水と食料を求めて森に入った。


 自分でも、何故そんな行動をとったのかはわからない。

 部下と艦を失い、呆然自失となっていた俺は、何かに躍起になることでどうにか正気を保とうとしたのかもしれない。或いはほんの半月、それも監房内にいた不遇な少女に、他の乗組員と同じような感覚を抱いたのかもしれないな。


 とにかく、冷静になった頃にはもう浜に火を焚いていた。森で拾った枝に猪肉を刺し、炙るよう火にかけていた。水を溜めた貝殻をすぐ脇に並べていた。


 そして、少女は目を覚ましていた。


 俺は彼女に何度も質問を投げかけた。

 故国や目的、そして名前――。だが、彼女から答えが返ってくることはなかった。


 彼女は、口を利けなくなっていたのだ。

 こちらの言うことは理解できているようだが、彼女が口を開いても、声が出ることは一切なかった。俺は、彼女が体感した恐怖の重さを推察した。


 輸送船の船長の判断が間違いだとは思わない。戦時下に於いて、輸送船に紛れ込むような者を簡単に見逃すことが出来ないというのは理解している。

 なにせ戦争だ。遊びではない。皇国の存亡、民の生死が懸かっているのだ。

 少しでもスパイの疑いがあるような者は、確実に処分しなければならない。例えそれが、貧困故に必死で潜り込んだ一般人だという可能性があったのだとしてもだ。


 質問への回答が得られないと理解した俺は、問いかけるのを止めた。不思議と少女の眼に恐怖の色はなく、寧ろ俺に興味を抱いているようだった。


 俺が焼けた猪肉を差し出してやると、彼女は恐る恐るそれを受け取り、皮の端をちょこんと啄んだ。ゆっくり咀嚼し、やがて嚥下した彼女は、それから貪るように噛り付いた。

 余程腹が減っていたのだろう。もしすればライラックが最期の砲戦に入る前、食事の配膳を忘れられていたのかもしれない。だとすれば半日以上何も口にしていなかったのだろうから、艦の指揮を与っていた者として少し心苦しくなる。


 彼女はしばらく肉を食べ、果物を食べ、水を飲むと、ようやく落ち着いたように大きなため息を吐いた。その姿がどうにも可笑しく、俺は口にしていた果実の種を吹き出してしまった。

 すると彼女も釣られたのか、くすくすと息を漏らして笑った。月明かりに照らされた少女の笑みは年齢相応の可憐なもので、俺は自然と頬が緩むのを感じた。


 食事を終えた俺は、ふと海に入りたくなった。

 立ち上がり着ていた服を脱いで上裸になって、俺は海へ向かって駆け出した。

 打ち寄せる波に足を踏み入れ、月の下を浅瀬の方へ歩いていく。ズボンも靴もずぶ濡れになるが、海兵としてこの程度は日常茶飯事だ。腰辺りまで水位が来たところで一度潜水し、俺は水中から水面を見上げた。


 ユラユラと、月が水面に揺れる姿を眺める。

 穏やかで、静かで、幻想的で。二十年以上近くで過ごしてきた海が、俺を包んでいた。


 この海に幾百人もの同胞たちが呑まれた。この海の何処かに、俺の仲間が眠っている。

 そんな事実もまた、水が粛々と教えてくれている気がした。


 長い潜水を終えた俺は、海底を蹴って水上に顔を出した。

 深く深呼吸をして、身体の隅々にまで酸素を行き渡らせる。そうしてから浜の方を見た俺の目は、オロオロと打ち寄せる波に身を引く少女の姿を捉えた。

 まるで水を怖れるかのように、引いた波を追っては、寄せる波から逃れる。前進しては後退し、後退しては前進しをくり返していた。

 多分、俺を追って海に近付いたのだろう。だが彼女はどうやら海が怖いようだ。


「ほら、こっちだ。安心しろ。そう怖いものじゃない」


 自然と、そんな言葉が口を衝いて出ていた。

 少しだけ浜の方に近付き、右手を少女の方に差し出す。


 彼女はしばらく不安げな表情で俺を見つめていたが、やがて意を決したように脚を踏み出した。少しずつ波打ち際に近付き、波が退いた瞬間を見計らって一気に三歩前へ出る。そして再び打ち寄せる波を、脚を震わせながらも後退することなく迎え入れた。

 少女の足下を、波が抜けていく。瞬間、彼女はあからさまに身体を震わせたが、それでも両脚は確りと水の中にあった。

 パッと表情を明るくする少女。

 俺はそんな彼女を見て、どういうわけか幼い頃見た進水式を思い出していた。


 船渠の防水壁が開き、狭い渠内から湾へ進み出る軍艦。

 人の建造した戦う船の雄姿に、童心ながら興奮したのを憶えている。


 ゆっくりと俺の側まで来て、胸元まで海水に浸かりながら、差し出した手を掴んだ少女。

 その瞬間の彼女の笑みは、これまでの人生で見たどんな女よりも美しく見えた。


 この日、俺は彼女を『リラ』と呼ぶことに決めた。


 ‐‐‐


 朝日が完全に姿を現した。白い光が視界を染め、俺は眩しさに顔を顰める。

 と、右腕に柔らかいものが取りつくのを感じた。ちらっと首を振ってみた後、俺は軽く息を吐いて苦笑いを浮かべた。


「目が覚めたか、リラ」


 寝惚け眼のリラは、それでも可憐な笑みを浮かべていた。

 俺は締まらない顔で欠伸を漏らすリラを見て、こう言った。


「なんだ。寝起きのくせに、もう腹が減ったのか?」

「……っ!」


 途端にリラの顔は真っ赤に染まり、睨むような眼差しを向けてきた。


「なに? そんなに食い意地は張ってないって? 俺と同じ量食べるくせに、よく言う」

「…………」

「馬鹿言え。俺だってまだ二十八だ。それほど年寄りってわけじゃないぞ」

「……?」

「ああ、年の割にとはよく言われるな。海軍学校首席卒業の英傑、なんて持て囃されたものだが、今じゃあこの通り、負け犬だ」

「……!」

「そうか? ありがとな。だが、俺は多くの優秀な水兵たちと、それから皇王陛下より任された艦を失ったのだ。そのくせ自分は生き残り、こうして健全な身体でいる。誰の目にも明らかな負け犬だよ」


 リラは俺の言葉が気に喰わなかったのか、頬を膨らませて抗議の視線を送ってきた。彼女が俺にどんな幻想を抱いているのかは知らないが、悪い気分ではない。


 この十日間で、俺はリラの表情から彼女の言いたいことが解るようになっていた。

 それは俺たちの過ごした十日間が極めて密度の濃い時間だった結果であり、互いに互いを求め合った結果だとも言える。


 なにせ、この島には何もないのだ。

 食料を集め、薪を集め、寝床を整え、水を汲む――。

 この狭い島の中、軍人として一線にいた俺にかかれば苦労にすらならない。時間を持て余すのは当然の帰結だろう。


 誰もいない無人島に、暇を持て余した若い男女。どうなるかは明白だ。

 しかも、リラはどういうわけか俺から片時も離れようとしなかった。只でさえ一年の大半を女気のない軍艦の上で過ごしていた俺は、拒まれないことをいいことに、ついリラへ手を出してしまったのだ。

 初めて彼女を抱いた夜、俺たちはまるで獣のように互いを求めた。空が暁に燃えるまで、俺とリラは貪るようにお互いを求め続けたのだ。


 その夜以来、俺はリラの表情を見るだけで、彼女の感情が察せられるようになった。

 理屈はわからない。ただなんとなく、リラの感情が覗き見えるような、そんな気がした。


「…………?」


 ふと、リラが覗き見ているのに気が付いた。俺が黙ったままなのを疑問に思ったらしい。


「なんでもない。俺にはもう、今この瞬間しかないのだからな」


 そう言って、彼女の頭に手を置く。

 リラの髪は潮ですっかり癖が付いていたが、彼女自身は気持ちよさそうに身を寄せてきた。右半身にリラの柔らかさを感じながら、俺は水平線に目を向けた。

 どこまでも続く水平線は今日も穏やかで、艦影一つ見えることはない。




 それからどれだけの時間、海を眺めていただろうか。顔を出した朝日が昇り、天頂を超え、西に向かって傾き出した頃だっただろうか。

 穏やかな波の音だけが聞こえる中、俺はふと、腕を引かれるのを感じた。ゆっくりと首だけで振り返ってみる。

 そこには、少し前にふらふらと歩いていったはずのリラがいた。彼女はいつの間にか戻ってきて、興奮気味に俺の腕を引いて立ち上がらせようとしていた。


「なんだ? 便所なら一人でも行けるだろう?」

「……!」

「ああ、はいはい。わかったから、引っ張るな」


 面白いように顔を赤らめた彼女を見て悪戯心を満たし、それから立ち上がった。


 リラは俺の右腕を引いて、森の中へ足を踏み入れた。

 森といっても陽の光が差す明るい林のようなもので、別段危険があるわけでもない。一時間も歩けば島の反対側に出るような狭い森だ。未踏の場所など既にないと思っていた。


 だがリラが俺を導いたのは、俺がまだ見たことのない入り江だった。

 半月型の白い砂浜に、陽の光を反射して輝く海面。水は青緑に透き通り、波は穏やか且つ静かで、この島の中でも飛び抜けて美しい浜に思えた。

 にも拘らず、俺が目を奪われたのはその美しさではなかった。


「リラ、お前……」


 誇らしげに笑みを浮かべる彼女の向こう、砂浜のとある一カ所に、小さな舟が打ち上げられていたのだ。

 俺は唖然としながらもリラの頭を撫で、それから小舟に向かって駆け出した。


 近くで見ると、舟は思っていたよりもずっと確りした造りなのがわかった。修繕が必要な個所もなく、今すぐ海に漕ぎ出していけるくらいに上等な代物だ。多分、どこかの軍艦に積まれていた避難船が流されてきたのだろう。


「…………?」


 リラが窺うような眼差しで見てくる。見つけたはいいものの、近くでは確認していなかったのかもしれない。俺は彼女を安心させるためにも、振り向いて頷いてみせた。


「上等だ。よく見つけてくれたな」

「……!」


 リラは嬉しそうに顔を輝かせ、くるくると回った。純粋な笑顔が、彼女の心を何よりも如実に表しているようだ。

 自然と笑みが浮かんでくる。リラの笑顔は俺に安らぎをくれるようだった。近づいてみるとリラは俺に抱きついてきて、俺も彼女の華奢な身体を腕に抱いた。

 俺たちは互いの熱を感じながら、揃って砂の上に倒れ込んだ。







 その後、五日という時間をかけ、俺たちは出航の準備を整えた。

 水と食料を蓄え、切りだした木を削ってオールを作った。天候が万全になる日を待ち、雲一つない晴天の朝を出航日とした。

 夜明け前に起き出し、二人で揃って舟に乗り込み海へ出たのだ。


 リラと共に祖国へ帰るため――。

 そんなたった一つの目的のため、俺は広い海原へ躍り出た。


 生きる意味を失いかけていた俺が、何故もう一度故郷を目指そうと思ったのか。

 夜になってリラが寝静まった頃、満点の星の下で俺は幾度となく考えた。


 俺は、もう死んでもいいと思っていたはずだ。

 艦を失い、部下を失い、多くの同胞を失った。下された命令を果たすことも出来ず、敗戦の将としてあの島に流れ着いた。潔く自決することも出来なかった。


 なのに、どうして俺は生き続けたのか。自決の手段がないのなら、海へ飛び込めばよかったのではないか。力尽きるまで泳ぎ、海の底に沈めばよかったのではないか。

 そんなことを実際に考えなかったわけではない。


 では何故、俺は島に残り続けたのか。

 食料と水を探し、命を繋ぐ道を切り開いたのか。


 思いつく答えは一つだった。


 リラのためだ。

 あの少女のため、あの少女が生きていくため、俺は人間が生きるために必要なものを揃えていった。

 水、食料、寝床、安全、そして道連れ――。リラが生き、絶望しないために必要なすべてを、俺は揃えようとしていたのかもしれない。或いは俺自身すら、孤独な彼女には必要だと考えたのだろう。


 馬鹿な話だ。結局、彼女を必要とし、彼女を目的としたのは俺の方だった。

 リラがいなければ、今頃俺は生きてはいないだろう。間違いない。人間は一人では生きられないのだ。他人を求め、他人に求められることで生きようと思えるのだ。


 俺は帰る。

 故郷へ、俺があるべき場所へ、愛する少女と共に帰るのだ。

 生きて、死んで逝った部下たちのためにも戦い続けねばならないのだ。


 眼前に広がる星空。その中で一際輝きを放つ上弦の月に向かって、俺は手を伸ばした。




 航海は順調だった。少なくとも三日間は問題なく進んでいた。

 ひたすらオールを漕ぎ、大陸のある東へ向かっていた。


 しかし、それは突然俺たちの前に現れた。


 島を出てから四日目の昼。俺は海上に何かが浮かんでいるのを目にした。

 すかさず舟を寄せ、小波に揺れるそれを確認する。


 死体だった。よく見知った軍服を着た、若い男の死体だ。

 亡骸はうつ伏せの状態で波に揺られていた。緋色の軍服は、皇国の宿敵である帝国海軍兵のものだ。

 目を閉じ、暫しの黙祷を捧げた。敵国の兵とはいえ、同じ海に生きる男。息絶えた者にまで敵意を持つことはない。

 黙祷の後、俺は青白い顔のリラを宥め、再びオールを漕ぎだした。


 それから俺たちは、幾つもの遺体や船の残骸を目にした。乗組員の物であろう酒瓶や、破れた帝国の旗も浮かんでいた。中には皇国のものもあり、俺は込み上げるものを必死で堪えていた。


 だが、様々な遺留品が浮かぶその海は、やがて大きくうねりをあげ始めた。波が高くなり、風も強くなってきた。空は蓋をしたかのように暗くなり、遠くからは雷鳴が聞こえてくるようになった。


 俺は必死にオールを操って舟のバランスをとった。リラには態勢を低くするように言い、俺の腰元に掴まらせた。

 舟は激しい波に揺られ、最早転覆するのも時間の問題かと思われた。殴るような雨が降りつけ、波が不規則に身体を叩く。見る見るうちに体力を削られ、腕が重くなってきた。

 俺はオールを操るのを止め、失くさぬよう舟の内側に置いた。そして必死にしがみついてくるリラを抱きしめ、嵐が過ぎ去るのを待った。


 だが、無情にもそのときは訪れてしまった。


 何度目かわからぬ大波を受け、俺たちの舟は横倒しになったのだ。オールも食料も沈み、俺とリラは全身ずぶ濡れになりながら、反転した舟に掴まることしかできなかった。

 その後も波はしつこく俺たちに襲いかかる。顔や腕を執拗に叩かれ、あっという間に体力が奪われていった。

 そして、ついにリラが力尽きてしまったのだ。

 隣に掴まっていたはずの彼女がいなくなったのに気が付いた俺は、我が身を省みず荒れた海へ潜っていった。

 暗く淀んだ海中を掻き分け、リラの姿を探す。水圧で肺が潰れそうになったが、息継ぎもせずに海中を下へ下へと進んでいった。


 やがて彼女を見つけた俺は、目の前の光景に苦しさも忘れて見入ってしまった。


 穏やかな表情で目を閉じたリラは、板張りの床に横たわっていた。

 いや、床じゃない。

 あれは甲板だ。俺の記憶に深く刻まれた、あの甲板だった。


 俺の前に、愛すべき艦が座っていた。

 リラが横たわっていたのは、沈没したライラックの前甲板だったのだ。艦橋の辺りで真っ二つになったライラックは、俺の記憶にある通りの雄姿で鎮座していた。


(ここは、お前の墓だったのか……)


 俺は眠るライラックに語りかけ、それからリラへ近付いていった。

 ライラックと同じように、まるで眠っているかの如く穏やかな表情の彼女を、俺は残った力を振り絞って抱きかかえた。


(ありがとう、ライラック。お前のお蔭で、彼女を見失わずに済んだ)


 酸素不足で遠くなる意識の中、俺は海底に眠るライラックへ礼を捧げた。


 腕や脚に力が入らない。視界が暗くなっていき、心臓は破裂しそうなほどに痛い。

 それでも、俺は最後の力を振り絞って海面へ飛び出した。激しく喘ぎ、酸素を求めて深呼吸をくり返す。すぐに腕の中の彼女へ口付けをして、あらん限りの息を送った。

 リラの蘇生を願って何度も何度もその動作を繰り返し、やがて俺自身の意識も飛びかけた頃。


「…………」


 温かいものが、頬に触れた気がした。


「リ、ラ……」


 その感触を最後に、俺の意識もとうとう闇へ落ちてしまった。







 目が覚めたとき、最初に見えたのは灰色の天井だった。鋼板が剥き出しになった天井はよく見慣れたもので、ここ最近ずっと見ていなかったものでもあった。

 俺は、皇国海軍の駆逐艦に救われたのだ。

 聞いたところによるとこの艦は、ライラックを旗艦とした第六戦隊が沈んだ海域で生存者の捜索をしていたらしい。よくもまあ二十日近くも捜索を続けていたものだと、俺は半分呆れつつ安堵の息を漏らした。

 だが俺は、医者から驚くべき言葉が聞かされた。


 ライラックの沈んだ海戦から、未だ二十時間も経過していない、と。


 耳を疑うような言葉だった。

 医者の言葉を信じるなら、俺の過ごしてきた二十日近い日々は全て夢だったということになる。リラと過ごし、彼女との間に愛を育んだ日々は、偽りだったということになる。


 何かの間違いだと思った。医者が性悪で、俺を騙そうとしているのだと思った。

 俺を錯乱したと見做した医者は、俺を抑えつけようとした。だが俺は抵抗し、せめてリラに会わせて欲しいと懇願した。共にあの日々を過ごした少女が無事なら、俺の言葉も嘘ではないとわかってもらえるだろうと。

 だが、渋々頷いた医者に連れられて行った先で、リラは息を引き取っていた。


 膝が勝手に折れるのを感じた。頬を熱いものが伝っていくのを感じた。途方もない無力感がせり上がり、頭の中が真っ白になった気がした。

 絶望の中の光だった彼女は、逝ってしまったのだ。


 声もなく涙を流す俺に、医者は彼女の死因を語った。

 リラの死は頭部を強打したことによるものだろうと。それもつい最近ではなく、十日以上前のことだと。


 俺はまたしても耳を疑った。

 この医者の言葉が真実だとすれば、リラは島に流れ着いたときには既に死んでいたということになる。いや、あの日々すらなかったのだとすれば、彼女はライラックの監房内で既に死んでいたことになるのだ。

 ありえないことだ。なにせ俺はライラック轟沈の前日、彼女の様子を見に監房へ足を運んでいたのだ。そのとき、彼女は間違いなく生きていた。

 つまり、彼女が死んでから十日以上の日数を経るためには、俺の記憶通りにあの無人島へ流れ着いていなければならないのだ。それも、死体として。


 訳が分からなかった。医者の言葉と俺の記憶、そのどちらもが現実にそぐわないのだ。

 仮にどちらもが正しいとした場合、「彼女は島に流れ着いた段階で既に息絶えており、にもかかわらず俺と共に二十日余りを過ごし、ついには時を遡ってライラック轟沈後すぐに遺体が回収されている」と、このような結論になるのだ。


 リラの死に対する痛みと共に、俺の頭の中には大きな謎が残った。


 途方に暮れた俺は、艦の甲板に出て海を眺めることにした。


 甲板の端に立ち、救出作業を続ける哨戒艇を眺める。

 聞いた話に依ると、俺はライラックが沈んだ位置の丁度真上に漂っていたらしい。この点は俺の記憶とも合致している。リラを抱え、まっすぐ上に向かって泳いだのだから。


 海底で見たライラックの姿を頭に浮かべ、彼の船に想いを馳せる。


 俺は、ライラックを誇りに思っていた。

 艦船はよく女に例えられるものだが、俺にとってのライラックも正に愛する妻のような存在だった。初めて艦長に任命されたのも彼女で、彼女にとっての最初で最後の艦長が俺だった。

 沈むときは共にと、当たり前のように思えるほどだったのだ。故に一人だけ生き残ったと悟ったとき、俺は部下や同胞と共にライラックのことも悔いていた。

 俺にとって、ライラックとはそれほど大きな存在だったのだ。


「ライラック……リラ……」


 そういえば、俺はどうしてあの少女を『リラ』と呼んだのだろうか。


 答えは簡単だ。

 俺は彼女にライラックを重ねていたのだ。ライラックに感じていた愛しさと全く同質の感情を、俺は彼女にも感じていた。

 だから俺は彼女を『リラ』――『ライラック』の愛称で呼んだのだ。


 海中で見たあの光景を、俺は鮮明に思い出すことができる。

 ライラックの甲板で眠るように横たわるリラの姿。それはまるで、ライラックが人の身体を器とし、顕現したかのようにも見えた。


 もしも――。

 もしも、この感覚が正しかったのなら。

 『リラ』とは、『ライラック』の意志が乗り移った姿だったのだとしたら。

 息を引き取った少女の身体を借り、リラとして俺の前に現れたのだとしたら。


 もしも、妄想に近いこの感覚が正しかったのだとしたら――。


「なんて、そんなこと、あるわけがないな……」


 自分の妙な感覚に、思わず笑みが浮かぶ。

 丁度新たな生存者を引き上げたらしい哨戒艇から目を離し、俺は振り向いた。ゆっくりと甲板上を歩き、これからの務めを思い浮かべる。


「責任は取らねばならないな。だが、もしも再び艦を与れるのであれば――」


 もう一度、艦にすら愛されるような艦長になろう。




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