第三話
プロローグに「虚ろな記憶」を追加しています。
追加済みだと思っていたらしていませんでした(汗
入学式早々欠席してしまったが、結果としてそれ程目立つ事も無く教室の中に俺は埋没していた。
それぞれ有名な学院に在籍出来た事を喜び、良い成績を修めようという気持ちで高ぶり、他人の事をいちいち気にかける余裕を持ち合わせていなかったのが主な要因だろう。
こういうテンションは久しぶりに見るか。若いねー。
休憩中は知り合い同士でひっきりなしにあれやこれや話し、授業中は興味津々の顔で齧り付く様に教師の話を聞いている。
それでも飽き足らず押しかけ女房のごとく質問攻めに赴く生徒まで出ている。俺としては引き気味なのだが、ここではそれが当たり前の反応のようで誰もかれもが当然の事として受け止めている。
まぁ模範生って事なんだろうけど……
盛大なあくびを噛み殺しつつ、俺は出会って早々変な世話の掛け合いをした相手、少年に視線をやった。
少年は生真面目な表情で魔術書を開いていた。ざわつく周囲とは完全に断絶され、一個の世界を持っているかのような静謐さを湛えて。誰もが踏み入る事の出来ない一線を作り出しているかのように。
あの後、一度眠った後は嘘のように体調を取り戻し、それからは口を開かなかった。
あれだけ喋りまくっていたくせに、一つも、何も言わなかった。からかってみても、からんでみても、まるでそこに俺がいないかのような無反応しかなかった。関わりたくないという意思表示であったが、どうにも解せない。何が要因でそんな態度を取るというのか。最初からその態度なら別段気に止めはしないのだが、最初の反応を見た後では違和感がありすぎた。と言っても、関わりたくないと意思表示をする相手にわざわざ関わるのも面倒なのでただ眺めるだけなのだが。
「キルミヤ!」
「あ、はいはーい。なんすかー」
教師の何度目かの呼びかけ――だったのだろう。目つきが剣呑だ――にようやく気づき、俺は暢気な返事を返した。
まだ若い教師は、ご立腹の様子で空に描かれた文字を指して言った。
「この効果を答えよ」
「分かりません」
即答。
あまりにギブアップが早すぎたのか、教師は頬を引きつらせた。
「……キルミヤ、もう少し考えてみろ」
「え、いや、本当分かりませんって。ちっとも」
「…………私の話を少しでも聞いていれば分かるはずだが」
「え? そうなんすかー? あはは。ちっとも聞いてなかった。いやーすいません」
頭を掻き笑う俺に近付き、教師はおもむろに空をきった。その瞬間、俺の身体は縫いとめられたごとく固まった。
えぇ……学生相手に空切り? それはちょーっと大人気ないんじゃないんですか?
「そうしていれば嫌でも前を見ていられるだろ」
くすくすと忍び笑いがあちこちでもれる中、変な風が俺をとりまく。
あ。やべ。と思った時――
“いけない。君たちが動けば彼の立場が危うくなる”
ふっと風は収まり、誰も気づくことなく授業が再開される。後ろを振り向く事は出来なかったが、俺は背中に感じる視線にため息をついた。
関わるなという意思表示をするくせに、これだ。精霊とかいう輩の動きを、どうも少年は抑えている節がある。俺に何らかの魔術を扱われたり、危害を加えられようとすると決まって変な風が生まれ、その都度先ほどのような囁きが紡がれる。
屋敷に居た頃はこんな事は起こらなかったのだが、どうも周りにいるらしい精霊とやらは魔術に敏感に反応するようだ。もし少年がその反応を抑えていなければそうそうに奇異の視線を受ける事になっていただろう。自分一人の事ならば別にそれでもいいのだが、パージェスという名を名乗っている為そうもいかない。
……なんか、むかついてきた。今度グランに会ったらぶん殴ろう。よし、そうしよう。
心の中で固く誓い、俺はスムーズに実行出来るように授業が終るまで只管イメージトレーニングを敢行した。気付いたら授業が終わって術を解かれていたので、驚くほどの集中力を見せたと言って良いだろう。さすが俺。
それにしても固められたせいで、変に肩がこってしまった。ぐるぐると回してこりを解しながら椅子に座ると、俺の周りを取り囲むように同期生が数人集まった。
なんだなんだ? と視線を向ければ、
「お前、パージェス家の人間だそうだな」
そう言って侮蔑的な視線を隠そうともせず見下ろしてきたのは金髪碧眼のいかにもといった貴族坊っちゃんだった。
それを支持するかのように両翼に展開されるのは同じような色彩を持った、同じく貴族ぼっちゃんズ。
年はどれも少年よりは上のようだが、俺よりも若い。
「えーと。あんた誰? 知り合いだっけ?」
「誰が貴様などと」
金髪碧眼が口を開けば左右が追従した。
「そんなわけがあるか」
「フェリア様は元老院の円卓の一員、サジェス家の方。貴様などが同じ空気を吸うだけでも恐れ多いお方だ」
「そりゃすごい。それで? その恐れ多いお方が俺に何か用?」
全く意に介さない俺に、取り巻きは鼻白んだ。
「ほう。私が何者か分かってなおその態度か」
「何者って、ただの学生だろ? 用が無いんなら寝させてくれ。さっきの術のせいであんまし寝られなかったんだよ」
実際はイメトレに夢中で寝ようとしていた事を忘れていただけだったが、その辺を説明する義理もないので面倒くさいと手を振ると、フェリアなる坊ちゃんは鼻を鳴らした。
おぉ……鼻を鳴らすという芸風を生で見た。
「グランの弟と聞いたが……とんだうつけだな。貴様は」
「あいつは出来がいーの。俺は出来が悪いの。そんだけ」
「ふん。実の親にも見放されたのならば出来が悪いのは間違いないな」
実の親? と、内心いぶかしむ俺。そしてすぐに納得した。忘れていたが、自分は一応現当主の実子として扱われていたのだ。
何故に実子なのかと言葉を覚えた直後おっちゃんに聞いたら、ビビられた。生後一週間かそこらの記憶があるとはまさか思っていなかったのだろう。俺だって諸事情がなければ思わなかった。
それでもビビられながらもおかんが『何かあったら』そうして欲しいと手紙に残していたのだと教えてくれた。俺の事を実子ではないと知るのはパージェス家に古くから仕えている使用人ぐらいなものなのだが、パージェス家は財政状況から使用人の新人さんはいない。従って、ほとんどの人間が俺は実子ではないと知っている。
だが、こうしてそれ以外の人間には実子という事で認識されている。のだな、と初めて実感した。
……うん。思考力を大幅に使ってしまった。寝て回復しよう。
机につっぷし、ぐてりと寝る俺に興がそがれた坊ちゃんは背を向けたようだ。
「あーあ……お前サジェスを敵にまわすなよ?」
隣の席にいた、群青色の髪をした俺と同い年ぐらいの青年が苦笑交じりに囁いた。
俺は半目だけあけていた目をすぅっと細めた。
「なんだ、お前もそっちの人間か?」
俺の眠りを妨げんじゃねーとばかりに威嚇したら、パタパタ手を振られた。
「ちゃうちゃう。一応貴族と呼ばれる部類には属されるやろうけど末席も末席。あいつらに言わせりゃ貧乏庶民と変わらんさ。それよりお前、もーちょい真面目にしといた方がいいぞ。教師にあの態度は将来の職先が無くなる」
……似非関西人発見。
関西弁などこの世界に無いはずなのだが、イントネーションがまさにそれで反射的に関西弁に脳内変換してしまった。
「……おい? 聞いとるんか?」
「あー平気。俺、働く気ないし」
「はぁ? ここに来たって事は中央狙いちゃうのか」
やっべ。本当関西弁にしか変換されん。何だこいつ。
「ないない。あんたはそなの?」
「まぁ、稼ぎ頭として投資されたからなぁ。稼がないと家が潰れる」
「へぇ。そりゃご苦労様」
「お前は? 兄貴に続くんとちゃうのか」
「何で?」
「何でって、グラン・パージェスは出世頭やろ。そうなりゃ当然、家の人間がさらに登用されるんちゃうんか」
「やだよ。そんな面倒くさいの」
青年は目を丸くした。
「お前、珍しい奴やな」
「あんたはそーなの?」
「俺? そりゃ家の再興を期待されて送り込まれとるからな。実際は難しいやろうけど夢を見させるのも息子の勤めや」
「やるねー。俺なら逃亡してる」
青年は手を叩いて笑った。
「してないやろ。やる気がないくせに、逃亡せずに残ってる」
俺は頬を膨らませた。
「……かわいくない。むしろきもい」
ええ!? そこだけ標準語ってどゆこと!?
内心の動揺を押し殺し、平静を装いながら俺は非難の目を向けた。
「…………難しい年頃に向かってそれは傷つくぞ。どーすんだ、傷が残ったら」
「野郎の傷は勲章だ」
「うわー。汗くさー」
「はいはい。冗談言ってないで移動するで」
「あれ? 移動だっけ?」
身体を起こして周りをみれば、残っているのは二人だけだった。
「お前次が何か分かってないんか?」
「メシ?」
「……分かった。興味が無いってのは本当なんやな。次は初の実技や。場所は結界場、寝てないで行くで」
襟首つかまれ、俺はずるずると引きずられていった。
それにしても、この青年も物好きだ。さっきのような貴族の坊ちゃんたちの方が理解しやすいし、納得のいく言動を取ってくれる。が、この青年はわざわざ面倒な自分の相手を買って出ている。お人よしを超えて馬鹿じゃなかろーかと思うのだが、軽口を叩きつつも真面目に面倒を見ようとするのでそれは言わないでいた。
遅れずに行くと――正確には引きずられて――各々緊張した面持ちで整列していた。
俺と青年は後ろに並び――並ばされ――教師の登場を待った。俺が二つ目のあくびをして青年に殴られたとき、ようやく教師は現れた。
黒いローブを纏い、樫の杖をつきながら現れたのはいかにもそうですと言わんばかりの魔術師だった。
三十代ぐらいの男は、前置きも説明もなく唐突に蝋燭を取り出し、それに火をつけて見せた。もちろん、魔術で。そして蝋燭を配ると、同様の事をして見せるように言った。
生徒達は慌てて魔術書を開いて炎を灯す術を探し始め、既に暗記しているものは早々に蝋燭に火を灯し始めていた。見れば、早々のメンバーには少年も含まれ、彼は火を灯すと蝋燭を地面に置き、無表情でどこかを見つめていた。
壁を見てて楽しいのかねぇ。
「おい、お前も早く探せ」
小突かれ、俺は隣で必死に魔術書をめくる青年に気づいた。
「まだ探してるの?」
「何やってん。お前もさがせ」
「無理だって。俺、魔術書持ってきてないし」
「はあ!?」
「まあまあ。こすれば付くさ」
「アホか!」
怒鳴られ、俺は肩を竦めた。
「わかったわかった。真面目にすりゃいいんだろ」
仕方がない。俺はよっこいしょと蝋燭の前にしゃがみ込んだ。
青年は俺がようやく真面目に蝋燭に向き直った事でホッとしたらしく、改めて魔術書を開いた。
カチ カチッ
「かちかち?」
青年が俺の手元を覗き込んできた。
「お前、何やってんの」
「何だよ、話しかけんな。結構難しいんだぞ。よっ」
何度目かのカチカチの末、俺の手元に小さな炎が灯った。
よし、ついた。さすが俺!
どうだとばかりに青年を見上げたら、顔面に魔術書がめり込んだ。
「!!!」
顔面抱えてごろごろ転がる俺。
君……君ね、本の角って痛いって知ってる? 千ページは下らないぶっとい魔術書だよ? その角だよ?
いやーはっはっは。さすがに俺でもカチンとくる。人生二度目の俺でもきちんときた。
「誰がそんな方法で火を付けろって言った!」
「知るかボケ! 方法なんか指示されてねぇだろ!」
「阿呆か!? 魔術でに決まってるだろこの馬鹿!」
「あ、馬鹿って言った奴が馬鹿なんだぞ。やーいばーか」
「お前はガキか! さっさと真面目に火をつけろ!」
「真面目にやっただろ! 普通おが屑とか枯葉とか、そういうのに火の粉を移して火を付けるんだぞ! 蝋燭にじかに付けるのって結構難しいんだぞ!」
「だーーー! この馬鹿ガキ! いいから魔術で火を付けろ!」
子供の喧嘩を始めた俺達の周りには、いつの間にか一定間隔の間が取られていた。そして、いかにもといった魔術師の教師は俺達に歩み寄ると片手を挙げた。
「其はやすらぎの源 零々のゆえんたる汝をここへ」
ばっしゃん
「………………」
「………………」
突如頭から水を浴びせられ、俺達は沈黙した。
「キルミヤ・パージェス。
レライ・ハンドニクス。
後で補習の日時を伝える」
つまり、去れと。
「はーい」
「……はい」
俺はこれ幸いにと、そそくさとその場を立ち去った。
遅れて青年も、緩慢な動きの見本のような速度で出てきた。
「何で俺まで……全部お前のせいや」
そして何でか怒りの矛先をこちらへと向けてくる青年。
「騒いだのはお前だろ?」
言ったら、キッと睨まれた。
「どー考えたってお前のせいやろ! もっと真面目にしぃ!」
「真面目に火を付けたじゃないか」
「どこが真面目や! ……あー……もういい。アホ臭くなってきたわ」
「なんだよーふっかけておいて」
「やる気が無いって分かってたんや。俺が大人にならな」
「うわっ一人だけ大人ぶってるよー。困っちゃうよねー俺だけ特別ーみたいなー」
「お前なぁ……」
どっぷりと疲労を滲ませた顔で肩を落とし黄昏始める青年。これはちょっとからかい過ぎたかと俺は反省し、青年の気分が少しでも浮上するように明るく言った。
「そんな深く考えるなよ! 禿るぞ!」
「誰のせいや!!」
気楽に投げたボールが剛速球で返ってきた。
うむ。これだけ元気があればよいよい。
「だから肩肘張るなって~ どーせ魔術なんてノリと感覚が全てなんだからさぁ」
「ひとっつも使おうとせん奴に言われたぁないわ」
「つってもなぁ……魔術に魅力を感じないっていうか」
「はあ!? 何言うとんねん!」
「あ、最初はすげーなぁーと思ってたよ?」
手品師だと思ってたが。
そりゃまぁ某RPG、某アニメ、某小説のごとくと、あらゆるジャンルのファンタジー業界において、魔法の二文字は欠かせず、それに対して憧れを抱く者も多く居た。職場に堂々グッズを持ち込み一人悦に入っている同僚も居た。俺だって憧れと言う名の興味はあった。くそ恥ずかしい呪文だって使えるのならいくらでも我慢してやろうとさえ思えるぐらいには興味深々だった。
多勢に無勢を一発逆転。これぞ男のロマンだろう。
そんな状況に陥りたくないというそもそも論は見ない事にして、格好良さでいけば俺の中ではかなりの水準を維持している。杖の一振りで並居る敵をなぎ倒す。無双だ。爽快だ。そう考える俺が今まで魔術の存在に気付いて何もしなかったわけがない。俺だって試した。くそ恥ずかしい呪文だって真面目な顔して言ってやった。
「だけど、俺に魔術は向いてないんだよ」
がっくし肩を落として言ったら、青年は『何言ってんのこいつ』みたいな顔をした。
いや何言ってんのって、そのままだからさー。
「使おうとした事があるんか?」
「…………………あります」
鼻で笑われた気配。
何この心理的いぢめ! 分かってるよ! 師事なしにやろうとしても出来ないっていう一般常識は知ってるよ! けど考えてみろ! 居候の俺が、「あの~実は魔術を習いたくてぇ~(もじもじ)」とか無いだろ!! 既に化け物指定受けた後だったのに、いくらこっちの幼い身体の可愛さ駆使しても、それこそ『何言ってんのこいつ』だよ! てか、『こいつさらに化け物になる気か』だよ!
「そんなん出来るわけないやろ」
「っく。分かってる事を他人にも言われると無性にむかつく」
「拳握るな握るな。殴ろうとするな!」
スパンと頭を叩かれた。
あの……俺は殴っちゃダメで、あんたはおっけーってなして?
「一人で出来るわけがないんやから、これからやろ? ここに入れたって事はちっとは勉強してたんやろ? それを生かせ」
一向に俺の視線の意味に気付かず話を続ける青年。
まぁいいだろう。俺は大人だ。人生二度目の出来た大人だ。この程度で怒りはしないさ。
「勉強なんてした覚えはない」
「何を堂々と。そしたら試験はどないしたんや」
試験?
「……お前、受けてないんか?」
急に青年の目が不穏な形へと形態変化を始めた。
「そんなに見つめられても俺はノーマル。嬉しくない。つかキモイ」
「ふざけけるとこちゃうわ! なぁ! ほんまに受けてないんか!?」
あんまり必死に言うので、記憶を引っ張り出してみる。
俺は自分からこの手の機関に接触した事はない。従がって俺自身が受けに出向いたという事は無い。そしてニートで自堕落生活を送っていた俺の周囲でそんな事をしそうな相手はただ一人。
……あったな。
思い出した。思い出しましたよ。女かと思うほど筆まめで、都に出てからもせっせと手紙を送ってきていたグラン。その手紙の中に魔術の基礎を問うものが何度も入っていた。
何だ何だ~? こいつも魔術に興味ある口か? ぷぷ。一人で出来るわけねーじゃん。とか思いながら、来るたびに適当な事を書いていた。
Q魔術の基礎となる元素を答えよ
Aすいへーりーべーぼくのふね ななまがりしっぷすくらーくか
Q魔術を成立させる為に必要なものを答えよ
A愛と勇気と正義
Qまた、それはなぜ必要か答えよ
A魔法少女の基本装備だから
怒られた。
それでもって、何のために帰ってきたのか目の前に紙出されて、監視されながら三十枚にも上る問題用紙に解答させられた。
「あれだな………間違いなくあれだ」
「受けたのか?」
「遺憾ながら」
「なんでそこで遺憾になるんや」
だって学校とか今更めんどー。と、言ったらさらに殴られそうな気配がしたので、俺はごにょごにょと言葉を濁した。
「はー……まぁええわ。ちゃんと受けたっていうんなら、それだけの勉強してたって事やろ? それを生かしたらええやんか」
「それとこれとは話が違うんだよ。言っておくが、魔術は使えた」
「な……ほんまか!? なら!」
「使えるけど、使いたくないんだよ」
「……はあ?」
俺は『なんで?』という視線に耐えきれず顔を逸らした。
魔術はきちんと発動した。発動したのだが、結果が……俺、不器用さんでした。というだけ。これはもう使えない。人前では絶対使えない。それで泣く泣く魔導師になって千人切りルートは諦めようと決意していた所だった。
「使えるんなら使えば――」
俺は青年の言葉を遮って口を塞ぎ、傍にあった木に押さえつけるようにしゃがませた。
例の精霊さんとやらが運んでくれる声やら音は、体力が戻った後は元気よく復活してくれた。以前ほどの喧しさでないのは救いだったが、それでも授業中に教師の話をまともに聞く気も失せる程の威力はある。基本的に、俺にとってはうんざり要素の超高性能地獄耳だったが、ごく稀に役に立つ事もある。
〝まだ見つからないのか〟
〝申し訳ありません。舎の方には……〟
〝結界場かと。ここまで入って特定出来ないとなると〟
〝他にも同様の箇所はあります〟
一言で表すなら、不穏。
数ある雑音を電源オフにして聞き流しているが、その声は嫌に耳についた。言葉自体は咎められるようなものではない。が、声の質とでも言うのだろうか。それが不安を掻きたてた。
それにしても結界場かぁ……
結界場には同期生がまだ授業をしているだろう。本来なら、俺もそこに居る時間だ。
いやぁでもなぁ、俺がらみじゃないよなぁ………
嫌な汗を掻きながら、一先ず声の主が近くに居ない事を確認していると青年がもがき出した。
「静かに」
ここで見つかって、青年を庇いながら複数人相手に勝負するというマゾい趣味は持ち合わせていない。
「お前はここにいろ」
声の主はここから離れている。下手に動かれて鉢合わせするよりはこのままジッとしていた方が安全だろう。
これまで伊達に雑音に苛まれ続けていたわけではなく、ある程度は音の発生源を割り出せる。さすがに目の前というか、周囲の音かはるか彼方の音なのか区別がつかなければ日常生活は送れない。そこまでの道のりは今さら思い出したくもないが。
過去の黒歴史をちょっぴり思い出しかけていた俺は、人の気配を感じて速度を緩めそっと木陰に身を寄せた。
〝結界の可能性があるのは〟
〝療養室と教師塔、それから結界場です〟
〝三手に分かれますか?〟
大当たり。
覗いた先にはご丁寧にも顔を隠した男が三人、ぼそぼそと囁き合っている。どこからどう見ても堅気の人間ではない。
どーしよー。どーしよっかー。どーしょっかなー。あぁ俺、昔に比べて呑気になってきたなぁ。ガキの頃は慌てまくっておっさんのとこ駆け込んで呆れられて。普通は焦るよな? ガキの俺の反応間違ってないよな? 俺が呑気になったのは環境のせいであって俺は悪くないよな? うんうん。俺悪くない。
自問自答で一人満足感に浸っていると、有り得ないものが視界に飛び込んだ。群青色の髪から雫を垂らしたままの、おせっかい青年が息せき切らして走ってくる姿が。
なしてー!!?
「どうし――」
俺は素早く奴の口を塞いで木陰に押さえつけた。音を立てなかった俺を褒めて欲しい。本当に、褒めて欲しい。
「何でついてきたんだ!」
声は抑えたが、怒鳴り気味なのは勘弁。青年は空気を察してか今度は抵抗を見せなかったが、そのかわりとばかりに眉間にくっきりと皺を刻んで睨んできた。
睨むな。睨むのは俺の方だと言いたいのを我慢して口を塞いだ手をどける。
「いきなり走り出すからやろ。どないした」
青年にとっては説明不足だったらしい。
俺の所為かーー!!!
〝あまり時間はない〟
あぁくそ……あちらさんは動こうとしてるし……
焦っているというのに青年は緊張感の欠片も無く頭を出そうとしたので慌てて押さえつけるが、もう一度睨まれたので、仕方なく事情を説明する事にした。
「どうも学院とは関係ない部外者が侵入しているようだ」
「は?」
突拍子もない話に目を点にした青年。
百聞は一見に如かず。論より証拠とばかりに、あまり顔を出すなと注意して様子を見させる。
「なんやあいつら」
ようやく青年も事態を理解してくれるが、そんな『どういう事だこれは』という顔を俺に向けないでくれ。
「分かんねーよ。けど……」
「けど?」
「誰だ!」
うげっ!
うめき声はかろうじて抑えたものの、勘づかれてしまっては隠れていても仕方がない。青年を見れば、顔色が面白いぐらいに急降下して真っ青を通り越し真っ白になっている。
さぁこの青年に向かって逃げろと言ってきちんと逃げ切れるだろうか?
答えは明白。俺自身が恐慌状態に陥った事があるから言える。高確率で、身体がまともに動いてくれない。その状態で覆面男の内一人でも追われたら、まず逃げ切れない。
どーせならこういう場面は美女がいーんだけど……
「お前、ここから絶対出るなよ。いいか、絶対にだ」
「え、おまっ」
青年を置いて俺は木陰から姿を現し、相手に認識させた。男は三人とも剣を履いている。こちらは素手のみ。
今さらだけどまずくない? ねぇまずくない? これ、死亡フラグ?
「……学院の生徒、か」
くぐもった声で呟く覆面の男に俺は言いたい。学匠である青色の上着を着ている者で、学生以外に何があるのだと。あんたのボキャブラリーは枯渇しているのかと。
言ってもスルーされそうなので、俺は絞ったらたっぷり水が出そうな上着を外しつつ、男たちの左手に移動するようにゆっくり移動する。
「おっさん達、学院の人じゃないよね~。すんげーあやしいしー」
俺の軽口に覆面の男たちは視線を交し合っていた。殺るか? と。
リーダー格と思われる男が視線で肯を現し小さく頷いた瞬間、男たちは剣を抜き放った。
あはははは。きたよ。まじできたよ。やっべ……
俺は笑いそうになる膝に力を入れ、接近してきた男の間合いを外すように後方に下がりつつ途中まで脱いだ上着の袖を勢いよく抜いてよじり、振り下ろされた剣先を受け止めつつぐるりと一巻して剣の腹に肘を当て、そこを支点にして身体を捻り相手の手から剣を放させる。
それでもプロはプロ。戦意を失うどころか増して蹴りを繰り出してくるのを避けて、手から離れた剣を掴んで懐に入り距離を取られる前に剣の柄で顎を下から思い切り殴りあげる。
まずは一人だが、よっぽどお仕事大事なのか味方ごと殺ってしまおうと後ろから襲いかかってきている気配に溜息が出る。でも連携はあまり取れていない。リーダー格の男が連携に加われば逃げ道が無くなりそうだが、俺の事を過少評価してくれているのか動こうとしていないので、これぐらいなら大丈夫だろう。
「後ろ!」
え?
青年の声がした事に一瞬反応が遅れるも、俺は気絶した男を掴んだまま横手に飛んで背後からの攻撃を避ける。
「……もう一人居たのか」
リーダー格の男は呟き、姿を現した背年を見た。
こんのっ……
「馬鹿が! 動くなって言っただろ!」
「うるさい! 危なかったやろうが!」
怒鳴ったら怒鳴り返された。
え? ……え?? ここ俺が怒鳴られるとこなの?
ちょっと動揺しつつ、でも素直に受け取れない身体年齢の俺はさらに怒鳴る。
「俺は平気なんだよ! お前に心配されるまでもないんだよ! いいからとっとと逃げろ!」
「なっ! お前を置いて行けるかぼけ!」
青年。そーいうセリフは女の前で………言っちゃだめだな。言うって事は女を戦わせてるって事だよ。何してんだよ男が。
気絶した男をポイ捨てしてると残った覆面男二人は視線を交わし、リーダー格は俺に、もう一人は青年へとロックオン。俺は一気に間合いを詰められて一瞬にして鍔迫り合いに移行した。一撃を受けた瞬間にびりびりと手が痺れ、せり合う今も馬鹿力で押され、少しでも力を抜けば剣ごと叩き切られそうな勢いだった。それなのに視界の奥では魔術書を投げつけるだけで精一杯の青年の姿が入る。
命をかける事など貴族の青年には無かった事だろう。本を投げるという事だけでも動ければましなのかもしれないが、結果が伴わなくては意味が無い。
ああもう……
俺はガクンと膝をつき、男の重心が前のめりになった瞬間横に転がり起き上がりざまに剣を投げつける。追撃をかけようとした男は難なくその剣を弾くが俺にとってはそれで十分。手のひらを天に突き出し叫んだ。
「其は波動の素 零々のゆえんたる汝をここへ!」
声に応じるようにして俺の手のひらに火炎が生まれる。驚きにか目を見開く男に向かって、俺はそれを全力投球した。
ごうっ!!
唸りを挙げて業火へと膨らんだ炎は一瞬にして男を喰らい、さらに青年に迫っていた男も飲み込んで、その向こうに続く林の木々も包んでさらなる姿へと変貌しようとする。俺はもう一度手のひらを天に突き出し叫んだ。
「其はやすらぎの源 零々のゆえんたる汝をここへ!」
ざああああああああ
今度は叩きつけるような雨が一体を襲い、広がる炎蛇を消し去る。炎が通過した後は黒く炭化していたが、残念な事に男の姿はあった。さすがに無傷というわけではなく、焦げた服の間から覗く皮膚は赤く爛れている。
「お前らの相手は俺だろ」
これ以上やるなら、俺は手段を選ばない。
俺の本気に、リーダー格の男は目を細めた。
「貴様、白の宝玉の仲間か」
俺は答えず、弾き飛ばされていた剣を拾い、構えた。
「……退くぞ」
リーダー格の男が小さく言うと、もう一人が気絶した男を抱えて林の中へと消えた。俺は黙ってそれを見、気配が学院から遠のいたところで手にした剣を捨てた。
固まったままの青年の所へ行こうとして、上着が落ちているのに気付いて拾っていく。
「あーあ、ぼろぼろ……」
なかなかに高価らしい学匠の上着は、広げてみると刃を受けたところが切れて穴が開いていた。荷物の中に用意されていたのは二着なので、もう一着が駄目になったら面倒だ。
「お前……さっきの何や」
「ほれ行くぞ。ここに居たら面倒だ」
さっきの炎といい水といい、遠目でも派手に見える。ぐずぐずしていると教師達が駆け付けてしまう。
俺は青年の腕を掴みその場を離れようとした。
「何なんやさっきのは! お前……魔術」
「下手なんだよ。突っ込むな」
心底突っ込んでほしくない。分かっていたから使いたくなかった。
「下手!? あれで!? どこがや!!」
「声でけーよ。あいつらは引いたと思うけどそんな騒ぐなって」
「あ……」
不安になったのか、後ろを振り返りきょろきょろとする青年。
あ、まずった。まだ恐慌状態に近いわこいつ。
「おいおいおい。だーいじょーぶだって。あれはぜってー引いたから」
盛大に呆れて見せれば、怯えた目が俺に救いを求めるように向けられる。
これが美女だったら――美少女でも可。幼女……も、可――ガッツリ攻めに入るところなのだが、不幸にも相手は青年。
「そう……なんか?」
「ぷぷ。こわがってやんのー」
びびりまくっている青年の頬をぐりぐりと突いてやると、凶悪な目をして叩き落された。地味に手が痛かった。
「うるさいわ! それより、さっきのはどういう事や」
どういう事も何も事の成り行きは青年と一緒に見ているのだから、それ以上はない。何を言わんとしているのか分からず首を傾げる。
「なにが?」
「とぼけんな。何で魔術が使えないふりしてたんや」
あぁそっちかと納得。
「あーひっぱるねぇ。しつこい男は嫌われるよ? 女の拒絶の言葉は半端ない威力なんだよ?」
「話かえんな。何で嘘ついてた」
……うそ?
「嘘はついてないって」
ないない、本当ない。
俺嘘つかない。
嘘つくイコール後が怖い。
俺チキン、イコール嘘つかない。
「ついてるやろ! 魔術使えないふりして」
あぁーなるほどね、君の中ではふりも嘘だという事かぁ~。そう言われちゃうとそうなんだけど、でも使えませんって自己申告するような言動は取ってないつもりなんだが。
「してないしてない。使うのめんどーだから使ってないだけ。使えないなんて言ってないだろ?」
確認してみるが、青年の凶眼は悪化の一途をたどるばかりで改善傾向は一向に見られなかった。どころか、なにやら黒いものを滲ませて来たので俺の本能がヤバいと訴え、慌てて言葉を追加する。
「んな怖い顔で睨むなよ…………あのな、面倒だから言うけど、本当に巫山戯てるつもりはないんだよ」
「へぇ、そうなんか?」
青年の笑みが黒すぎて怖い。生ぬるすぎて怖い。
あまりに怖くて、俺は言う気ではなかった事までしゃべってしまった。
「さっきの術、俺はあそこまででかくしよーなんて思ってなかったんだよ。だけど、制御が効かない。小さいものになればなるほど制御から外れるから、人前じゃ出来ないんだよ」
この火と水の魔術、元はさっき授業で見たように些細な効果しかない初級魔術に位置する。それがどこをどう間違えばああなるのか俺自身にも分からないが、俺がやるとああなる。授業中に大真面目にやろうものなら蝋燭一本どころか何人燃やすか分からない。
つまり、千人切りコースは無理。味方巻き込み自爆コースなら可。という無能な俺。
「もしかして……だからか? 授業で」
「細かい作業は昔から苦手なんだよ。ほっとけ」
俺が視線を逸らせていると、笑い声が聞こえ、見れば青年が呆けた顔で笑っていた。
「何笑ってんだよ。気色悪ぃな」
「何でもないわ。……………なぁ、さっきの奴らを知ってるのか?」
笑われたのはまぁいいとして、俺は心当たりを一つずつ照らし合わせてみる。
あの手合いを引き寄せるのは俺ではなくてグラン。これまでにも何度かパージェスの周りをうろちょろしている者は居たが、どれも偵察という感じですぐにグランの手の者に潰されていた。
「分からない。多少の心当たりはあるけど、どうもそれとは違ったような……」
「心当たり?」
「グラン関係だよ」
「グラン……お前の兄貴か。あぁなるほどな。出世頭だから敵は多いかもしれんな」
「だけど俺の顔を見ても反応してなかったんだよねぇ………。ま、なんにしてもさっきの事は誰にも言うなよ」
「何でや? 教師には話さな。そうすれば警備を強化してもらえるやろ。犯人だって捜してもらえる」
そりゃあ捜すだろうが、相手が相手ならそれも意味が無いだろう。それに学院に対する行為でないとなれば各家の問題で、そこは自分ところで後始末してほしい。学院の責任もあるかもしれないが、それに振り回される他の生徒はいい迷惑だろうし余計な不安を与える事になる。
襲われるかもしれないっていう圧迫は結構きついからな……
無駄と思いつつ、俺は反論してみた。
「それは無駄だろ。ここにはあのサジェなんとかって坊っちゃんだとか、お偉いさんの子供がいるんだ。ざるな警備をしてやないさ」
「だからと言って、このままにしておくなんて出来るか? お前だって狙われるかもしれんのやで?」
……あ、そゆこと。
確かに目撃者の俺と青年は口封じに狙われる可能性はある。俺はグランの事もあるから今更気にもしないが、青年にとってはとんでもない話だ。
「……な、なんや」
「はぁ……まぁ、そうだよな。俺たちが標的にされるかもしれねーし。わかったよ。好きにしていいよ。但し俺の魔術については黙っててくれ」
「何でや? 教師に相談すればいいやろ」
恥をさらせと? 冗談ではない。
「なんでもだよ」
「……なんやそれ」
「さて、さっさとメシメシ」
それ以上の追及を遮って俺は元気よく歩き出した。
「お前そればっかりやな。補習の事忘れるなや。それ以前に着替えやけど」
頭を叩かれ、襟首掴まれて愛しの食堂から遠ざかってしまう俺。
………そろそろ、いいかな?
………………………いいよね? もういいよね?
俺はずるずると引き摺られながら、長く息を吐いた。詰めていた緊張を解いた途端、ガクガクと膝が笑いだす。
あ~やばかった。あぁいう切った張ったは俺は向かない。デスクワークならどんとこいだ。本当にどんと仕事を置いてくれた閻魔様は鬼だった……自宅の存在意義が掠れてたなぁ……
こちらでは本当の意味でのデスクワークは限られる。流通、産業、工業、農業、畜産、全てが人の手に頼るためデスク中心に仕事をする人間は殆ど居ない。居るとすれば高官ぐらいだろうか? 就職するなら窓際デスクワークがいいなと思うけど、そちらの道は果てしなく遠い。仮に成れたとしても国家に雇われるのは何かと面倒そうなので却下。
それならば身体を動かして働く方が気分も良く性にあっている。もちろん安全な仕事で。でも地元だと身分が邪魔して職にはつけず――というか、基本的に職は親のを継ぐ形となっている為、領主の実子とされている俺が働ける所なんて最初から限られている。家の仕事か、王宮へ何かの形で出仕するか。
パージェス家の仕事をすると周りが顔を顰めるのでアウト。王宮へ出仕するなんてチキンの俺が出来るはずもなくボツ。そしていつの間にやらこんなところへ放り込まれている現状。
グランのご期待には添えそうにもないが、勝手に期待したのは向こうなのだから、ここでどれだけ俺が落ちこぼれであろうとそこまでは知ったことではない。最低限、人としての常識ラインは保とうと思うが、それ以上は知らん。
段々むかつきが再燃してきたが、いい加減よれよれだ。剣を向けられるなど、前世で例えれば夜道で笑ってるオッサンに包丁向けられるぐらい怖い。獲物が長い分恐怖心も増す。前世の記憶保持者の転生者ならば何か特殊能力持っとけよと思うが、あるのは地獄耳と疲れやすい身体。
地獄耳と疲労し易いって嫌がらせのオプションかよ。
地獄耳はどうやら精霊さんとやらが関係しているようなので何かの能力的なようなものだともとれるが、実益と不利益を天秤にかければ不利益に大きく傾く。加えて疲労しやすいこの体。今年十七となる年齢を考えれば、二十歳超えて仕事をしていた前世よりスペックはいいはずなのに、その時より格段に身体が疲れるときた。
いや……まぁ……前の生は疲労を気の所為だと決めつけられてただけかもしれないけど………
気の所為だとしても、実際に身体が重くなって動かしにくくなるので性質が悪い。七歳とか八歳とか、まだ小さい頃はこういう事は無かったのだが年を経るにつれて悪化している。かといって、どこか具合が悪いわけでもなく、たらふくご飯を食べれば回復する。もしくは糖分を摂取すれば。
あれ? ただの成長期? いじきたないだけ?
う~んと前世の十七歳、高校生の時を思い返してみるが、何か馬鹿やっていた事しか思い出せず比較にならない。ただ、買い食いはよくしていたので推測はあたっているのかもしれない。こちらでは高カロリーな食事はおいそれと口に出来ないので。
うんうんと考え事をしているうちにいつの間にか自分の部屋に放り込まれていた。
暫く床に寝転がっていたが、いつまでもこのままというわけにもいかない。へたばっている身体をずりずりと引き摺って引き出しから皮袋を取り、中から薬包を取り出して中身を口に入れる。口の中に広がる甘味を飲み込んで一息。
あのスレンダーさんが砂糖をくれたのには驚いた。純粋な糖は滋養剤で値段も張るのに、一介の学生にあんなにも簡単にくれるとは思わなかった。出来れば定期的に頂きたいぐらいなのだが、こんな高級品をそう何度もくれるのだろうか?
「着替えた――何やってんねん」
俺は寝転がったまま入ってきた青年を見上げ指をさした。
「部屋に入るときはノックする。常識だろ」
「はあ? 今更お前が常識言うな。寝転がってないで着替え。ほらほら」
青年に急かされ、しぶしぶ俺は身体を起こしてもぞもぞと着替えた。それを見ていた青年が深い溜息をついていたので、俺は親切心を出した。
「溜息ついたら幸せ逃げるぞ」
「誰のせいや」
コンマ一も無い綺麗な即答は俺に匹敵していた。
くっ。この短時間でここまで技を磨いて来るとは……あなどれん……
「お前……今アホな事考えたやろ」
「はぁ~何いっちゃってんの? なんも考えてねーよ。なになに? お前の事でも考えてたとか思ったわけ? やっだー自意識過剰ー」
「じ……じいし? なんでもええわ。おちょくってないでさっさと行くで」
「は? どこへ?」
「どこって、ヴェルダ先生のとこや」
「ヴェルダ?」
「………さっきの、実技の担当教師や」
「なんで?」
「なんでって」
俺はパタパタ手を振って青年の言葉を遮った。
いやいや、青年の真面目さはよく分かった。それを止める気はないのだが、ちょっとね、俺にも限界というものがあるというか。
「俺もー眠いのよ。ほんともー起きてらんないぐらい眠くって眠くって、考えてみれば俺今日ほとんど寝てないわけだ」
「居眠りを睡眠に含めんな」
「ええ!?」
「驚くとこちゃうわ!!」
「だって! それじゃあどこで寝ろと!?」
「夜!!! 夜以外にあるかあ!!!!」
「ふっ……青年はおこちゃまだな」
「何!? 何の話してんの!?」
「え? 聞きたいの? もー仕方が――」
「するな!! 言うな!!! 聞きたない!!!!」
段々と興奮してきたらしい青年をどーどーと馬にするように宥めると益々興奮されてしまった。
「落ち着けよ。発情するなって」
「するかっ!!」
頭を叩かれ、俺は叩かれたところを掻きながらそれでも人生の先輩として忠告した。
「ったいなー。いきなりはだめだろー。もっと丁寧に優しくだな」
「変な言い回しすんな!」
「え? やっだー。何想像してんのー。きゃー不潔よーへんたいー」
「お……おまっ」
青年は顔を赤くして口をぱくぱくさせている。
面白い。実にからかいがいのある奴だ。と、遊んでいる場合ではない。限界というのは冗談でも何でもない。
「悪い。ほんと寝させてくれ。後で叱られでもなんでもするから」
言ってさっさとベッドに潜り込もうとして足元がふらついて豪快ダイブを決めてしまった。
「……お前、さっきので」
急に声に不安が混じったが、俺の意識はもう離れかけて手繰り寄せるのも辛かった。
「いんや~怪我はしてないよ~」
「怪我以外にあるんか?」
こいつ……微妙に鋭いな。
と、思ったところで俺は枕を抱き込んで眠っていた。