虚ろな記憶
加筆版のみの話です。
足がもつれる。息が切れる。心臓が嫌な音を立てて止まりそうになる。
家令の制止を振り切って馬がつぶれるのも構わず走らせ、つぶれた馬を乗り捨てて転がるように走る。
見つけた小屋は小さくて、夜だというのに明かりが灯っていなかった。
「エリー!」
戸を引きはがす勢いで開け放ち、私の足はその場で凍りついてしまった。
薄い月の冷たい光の中、血の海に倒れている――小柄な……
「………エリー?」
床に張り付いたまま動こうとしない足を引きはがし、一歩近づく。
血を裾が吸い上げその色を変える。
不確かなふわふわとする足で、一歩、また一歩と近づく。
「エリー」
よく、天気の良い日にお気に入りの丘で昼寝をしていた時のように、そっと声を掛ける。
こんなところで寝ているのは良くないよと。
風邪をひいてしまうと。
「ほら、エリーおきっ……」
喉がひきつり、声が出せない。
肺が痙攣したように、息が吸えない。吐けない。
真っ赤なドレスなんてお前、持って無かっただろう? そんなドレス、お前いつも派手だから嫌だと言っていたじゃないか……いつから趣味を変えたんだい?
「おきっ……て」
嗚咽が喉の堰を破って零れ出す。
認めたくないのに、目が無残に切り裂かれた華奢な背から逸らす事が出来ない。
「なん……で……」
あの男のせいか
もたげた憎悪を、違うと否定する。
エリーが望むのなら、私はそれを祝福する。どんな相手だろうと。
そうではなく、これは私が遅かったから。
私が、間に合わなかったから。あの愚かな父から家督を奪う事に手間取ってしまったから。
「ぁ………ぁぁああああああああああ!」
喉を引き裂いてしまいたい。
溢れる憎悪でこの身を焼き尽くしてしまいたい。
そうすれば何も壊さず、何も殺さず、私はエリーのところへと逝ける。
なのに、なのに出来ない。
理性がそれを阻んで、パージェス当主としての務めを果たせと縛り付ける。
何もかも全て投げ捨ててやりたいと思うのに、なのに出来ない。
頭の中が赤と黒に明滅して二つの意識に引き裂かれそうだった。
考える事を拒んで、私はエリーに手を伸ばした。
冷たい頬に掛かる髪をどけてやろうとして、髪が何かにひっかかる。
痛くないようにと胸元に絡まる血に濡れた髪を解こうとして手が止まった。
茫洋とした、薄い紫と視線が絡まる。
私は弾かれたようにエリーの腕の中から赤子を取り出そうとした。
けれどしっかりと掴んで離さないエリーから、なかなか取り出せない。
息を整え、私はいつもやるように優しくエリーの頭を撫でた。
「だい……じょうぶ。エリー? よくがんばっ……た、ね」
乱れそうになる呼吸を押さえつけ、いつものように優しく、子守歌を唄っていた時のように、ゆっくりと眠れるように、優しく語りかける。
「だいじょうぶ……お前の兄さんを信じなさい。この子は私が守ってあげるから。だから安心して……っ」
それ以上言えなかった。
パタリと腕が落ちて、私の手の中に赤子が転がり込む。その赤子を追うようにエリーから暖かな風が巻き起こり赤子を包み込んだ。
それはまるで、エリーが生まれたとき亡くなった母の時のようで、お前も母なんだなと思わされた。
薄い青の髪をしているエリーの子は、寒い夜の中長時間放置されていただろうにまだ生きている。
立ち上がろうとすると、くんと引っ張るものがあり、見れば赤子がエリーの髪を握りしめていた。
私は腰から短剣を引き抜き、エリーに謝りつつ髪を切った。
必死に母親の髪を掴むその手から、それを奪う事が出来なくて。
「エリー、すぐに戻ってくるから待っていて」
暖かな風に包まれた子を胸に抱き、私は来た道を走り戻った。
絶対にこの子だけは生かす。何があろうと、何者からも。
屋敷にたどり着いた時、髪は乱れ血だらけの私を見て使用人たちは悲鳴を挙げた。怪我はと近寄る彼らを邪魔だと退かせ、切れた息のまま書斎のドアを蹴り開ける。両手は子を抱くだけで、他にまわす余裕などない。
「何事だガーラント!」
家督を明け渡した癖にまだ書斎に居座る男を見据え、私は口を開いた。
「エリーが死にました」
「…………そうか」
「そうか。それだけですか」
「既に縁は切った。パージェスとは無縁の者………その赤子は」
「えぇ、エリーの子です」
白髪が入り、皺の数も増えた男は目を見開き慄くように後ずさった。
「捨てろ! 早く捨ててこい!」
「捨てろ? 何をふざけた事を。この子はエリーの子ですが、私の子でもあります」
「な……に?」
「私はこの子を私の実子として扱います」
「や、やめろ! そんな事をしてはパージェスは」
「どうともなりません。何も知ろうとしないあなたが言える事など何一つ無い」
「馬鹿者! 相手を見誤ったか!」
「見誤っているのはあなただ!!」
酸欠の頭で力の限り叫んで、鈍い痛みが走る。
だが、そんな事に構う余裕などなかった。目の前の男が自分と血が繋がっていると思う事もおぞましくて、憎らしくて、腹立たしくて、今この場で切り殺してしまいたかった。
「我がパージェスが重んじるものとあなたは相いれない。今直ぐここから立去れ」
「ガーラント! 誰に向かってものを――」
「パージェスの現当主は私だ。陛下にも認められた正式な当主だ。先代であるあなたに残された力は無い」
男は口を開けたまま戦慄き、私を睨みつけると無言で部屋を出て行った。
「………っ……は」
眩暈がして膝をつく。
「あなた!」
肩を支えられるが、腕の中の子が気がかりで駆け寄ってくれた妻に抱き取ってくれと腕を出す。
妻は血だらけの私を見て蒼褪めていたがすぐに理解してくれ、子を受け取ろうとしてくれた。だが、途中で顔色を変えて私の腕の中に戻した。
「ク……リス?」
「まって……ちょっとまってて」
クリスはスカートをたくし上げて走って行くと、すぐに七歳になる息子の手を引いて戻ってきた。
寝ているところを起こされた息子は目を白黒させていたが、私の姿を見てヒッと息を詰まらせた。
「大丈夫よ、グラン。お父様はどこも怪我をしていないわ。それどころかお父様はあなたの弟を無傷で助けてきたのよ?」
クリスは私とあの男とのやり取りを聞いていたのか、エリーの子を弟だと息子に言い聞かせる。
「お……とうと?」
「そうよ、さあこっちにいらっしゃい」
クリスの手招きで私の所までくると、グランは恐る恐る私の腕の中を見た。
グランが赤子の顔を覗きこむと、それまでどこも見ようとしなかった赤子の目がグランを捉えたかのように動いた。
「あ……」
それは見間違いではなく、赤子はエリーの髪を掴んでいない方の手をグランに伸ばしていた。
「グラン、ほら抱いてあげて?」
「クリス」
危ないと言おうとする私を首を振って沈黙させたクリスの顔は厳しかった。
「大丈夫、お母様も一緒にだっこしてあげるから」
グランの後ろからその小さな腕の下を支えるように腕を伸ばしたクリスに、私はわけがわからないまま、ゆっくりと子を渡した。
クリスはグランが取り落さないように慎重に抱き留め支えながらじっと子を見つめていたが、子がグランの青い髪を掴み目を閉じたところで息を吐いた。
「あなた、早く着替えてらして」
「どうしたんだ」
「何があったのかは後で聞きますが、おそらくこの子はあなたとグラン以外が抱けば――死んでしまいます」
最後にそっと耳元で囁かれた言葉に、心臓が変な鼓動を打った。
「さっき私が抱こうとしたら息が止まっていました。私も叔母様程ではないけれど、少しはわかります。エリーちゃんが必死で繋いでいるからこの子は生きている。この子もエリーちゃんに繋がれる何かがあるから生きようとしている」
だけど、それが無ければ生きようとしないの。
クリスの言葉に、私はすぐさま服を脱ぎ浴室の水をかぶった。急ぎながら血の匂いが落ちるように洗い落とし戻る。
寝室に移動していたクリスは赤子の肌着を用意して待っていた。
「あなた、エリーちゃんはどこに」
「西の森だ」
「そちらには私が向かいます。あなたはあの子に湯あみをさせてこれに着替えさせてください。やり方は傍にオーレを付けますから」
「まて、危険だ」
止めると、クリスは母に似た切れ長の双眸で私をきつく睨んだ。
「無事、ではないのでしょう? エリーちゃんがあんな状態の子を手放すなんて有り得ないわ」
「…………」
「ブノワとドナを連れて行きます。大丈夫」
「……………頼む」
「今は堪えて。あの子が落ち着くまでは」
「あぁ」
微笑むクリスの頬にキスを落とし、抱きしめる。
こんなにも暖かい妻がありながら私は一時でも死を考えてしまった。あの子が居なければ、本当にそうしてしまっていたかもしれない。
クリスは私の心が落ち着くのを待って離れると、家令に警備を担当している二人を呼ぶよう命じた。
私もグランの横でグランの髪を握ったまま眠っている子をそっと抱き上げた。
「グラン、起きられるか?」
「うん。だいじょーぶ」
握られた髪に合わせて身体を起こし目を擦る息子。
「なぁ……グラン」
「なぁに?」
「この子は……この子は、キルミヤと言う」
「きるみ、あ?」
「キルミヤ。キ・リーィヤ。遊ぶ風、自由な者という意味だ」
きっと、エリーたちが願いを込めて名付けたのだろう。その名を聞いただけでも、エリーがどれだけこの子を待ち望み、愛しているかがわかる。
「キルミヤ?」
「そう、お前の弟だ。
大切に……一緒に、育ててくれないか?」
育てたかっただろう。大切に大切に育てたかっただろう。見守りたかっただろう。
息が詰まりそうになるのを必死に隠して聞くと、息子は無邪気に笑って大きく頷いてくれた。
「うん! いーよ!」