移ろい宿り生まれ
暖かい。
最初に思ったはのはそれだった。
ゆったりとした気持ちで、何も焦らなくても良くて、何も気にしなくて良くて。微睡に囚わていればいいのだと教えられる必要もなく感じた。それで良いのだと。
……あれ?
良くなくない? 今日って打ち合わせだったよね?
気が付いて目を開けようとして驚く俺。
目……目がぁ~~
目が開かなかった。それどころか声すら出ず、身体も動かない。
え!?
何これ!? どういう状況!!?
金縛り!? 金縛りなの!? 誰か説明してーーー!!
ジタバタもがこうとすれどもちっとも身体は言う事を聞かない、それどころか違和感ばかりが返ってきて変な汗を掻く。
『あ……動いたわ……』
声が聞こえて、ピタリと動きを止める。
やけにくぐもって聴こえたが、確かに女の声だった。
うっそ……俺。連れ込んじゃってる?
なんてゆーか後々やっばい事になるんじゃねー?
やばいやばいやばいやばいと焦るが、身体を動かす手ごたえはいつもと違って、余計に焦って狼狽える。
『芽生えたな』
今度は男の声が聞こえた。
うそー! 何か男いますー!
複数名でやっちゃったのか俺!? やっべまじ覚えてねー! 覚えとけよ俺! 今時そんな経験特殊稼業の人じゃなきゃ出来ないって! まじもったいない! 本当もったいない! 流石日本人の心もったいない!
最後は意味不明の思いを迸りつつ依然としてもがくもがくもがく。でも動けない
なんなのこれ……
『ねぇあなた、本当にやるの……?』
『……すまない』
夫婦!? 夫婦なのお宅ら!?
なに人の家でやっちゃってんのよ!! あ。俺もまざったのか? よく許したなー。俺だったら有り得ん。嫁は俺だけのものだ。
『君は……この子を』
『はい』
子供? こどもがいんの? それはノーですよ? やっちゃだめですよ? 情操教育って言葉しってますかー? 夫婦だけならともかく他人の俺がいちゃだめでしょー。心にでっかい風穴あいちゃいますよー。
何とか動けないか、目が開けられないかと奮闘しながらも声に突っ込みを入れてみる。でも声が出てないので届かない。
ってゆーかさー。あんたら変にもがいてる俺をガン無視なの? さっきから二人だけの世界って気配がビシバシ伝わってくるんですけどー。若干俺居心地悪いんですけどー。
まじで勘弁してくれと疲れを滲ませていると、実際今まで感じたこともないような疲労に見舞われて眠気に襲われた。
……あー……なんか、すっげー……ねむ…………っちゃだめだから!!
はい! しっかりして俺!! 眠っちゃだめだから俺!! 今日打ち合わせが朝からあるんだから!! お客さんとだから!!!
根性フル稼働させて睡魔と対峙する。
『あなた……』
『……あぁ………大丈夫。さぁ行って』
あぁ……男だけ残るとかって……くっそ本当になんなんだよこの状況は!
俺はもやしだぞ! 旦那とガチンコ勝負出来るか! しかも地味に動けないという縛りつきで!
死ねと? 俺に死ねと言っているのか?
『大丈夫。大丈夫よ。あなたは私が守るから』
男ではなく、女の声がした。
? 奥さんが何で残って? どゆこと??
『お母さんが必ず守るから』
うちの母は若くありません。五十手前です。奥さんみたいに艶っぽい声してません。してたら怖いです。
まぁ落ち着こうか俺。落ち着け俺。どーせ俺に言ってるわけじゃないんだ。
『お父さんの分も……守るから』
な……んだよ……もー……本当に。何で泣いて……
再び強烈な睡魔に襲われ、抗う間もなく意識は闇へと呑まれていった。
ゆらゆらゆらゆら。
揺られ揺られ揺り揺られ。
ぬるま湯に浸かっているような心地よい微睡に、永遠ともつかぬ感覚に身を任す。
ゆったりとした気持ちで、何も焦らなくても良くて、何も気にしなくて良くて。
微睡に囚わていればいいのだと教えられる必要もなく感じた。それで良いのだと。
よくねーよ。同じ事二回目って俺は学習能力がないのか?
我に返り、己につっこむ。
さぁて? これは確実に遅刻コースで? 閻魔の怒りが俺にぶつけられると。
………このまま寝てたいなー
現実逃避は良くない。すぐに思考の軌道修正を図ろう。表層思考は遅刻という現実に打ちひしがれているが、本能の部分がこのままじゃまずいと告げていた。
本能じゃなくても身体が動かないという時点で普通に拙いが。
ぶっちゃけ、これ異常だよなぁ。
目が空かないわ身体が動かないわ。どうなってんだよ俺。
なんかぬっくいから風邪ひかなくてすみそー………俺まっぱ?
………。
……うん。まっぱだな。たぶんまっぱ。服の感触ねーもん。
あれから……ってーか記憶ねーからどれからかわっかんねーけど………少なくとも昨日は普通に戦闘服のまま寝たよな。力尽きて。
でも待てよ? 間違いなく俺は体力が無かった筈だ。それなのに特殊職業の方々と同じ経験が出来た、と?
無理じゃね? 俺もやし。 無理じゃね? 三大欲求の中で睡眠欲のみ極端に高いこの俺が。無理だろ。
あー良かった。まじで夫婦とやったんかと。いやないって。俺ないって。さすがにないって。ないない。
はぁーと溜息をつきたいが。実際には僅かに口が開いて息も出ない。
そうなんだよなぁ……息も出ないんだよなぁ。息出ないって死ぬよな? 全然苦しくないけど。
息してる感じも無いしなぁ……何で平気なのか。
うーんと頑張って身体を動かそうとすると、緩慢ながら手と足が少し突き出せた――気がした。
ぽん
ん?
足に柔らかい感触があたり、なんだろうと頑張ってもう一度動かす。
ぽん
やはり柔らかい感触だった。しかも包まれている暖かさと全く同じ感じ。
………えぇっとー。
ゆらゆら揺れてる。
暖かい。
目開かない。
身体がうまく動かない。
息出せない。でも平気。
そういえば腹減らない。
これだけ状況が整えられて、導き出せる答えっていうとぉー……
考えたくないし、アホらしい考えだとは思う。そんな事が本当にまかり通ってたまるかという気持ちが強いのが正直なところ。というか、絶対ありえねーと脳内にて即座に否定している。のだが、内心冷や汗をかきながら手のひらに、足に、身体に感じる全てに集中する。
風を感じない。暖かい以外の温度を感じない。自分をなんとか触るとふにゃりとした変な感触。耳には一定のリズム音が刻まれている。
自由にならない四肢に開かない眼。声を発する事はやはり出来ず、息を吸う事も吐く事も出来ない。それでも生命を維持している。
俺は拙い事に気が付いてしまった。
これは、あれだ。ほら、その、それ。それだよ。
認めてしまうのが怖くて曖昧表現で緩和を試みる。
………むりだー………俺むりだー……耐えられねー………
緩和失敗。
何に耐えると言えば、出産。
現状俺は胎児になっているとしか思えない。この俺でも恐ろしい程の眠気と絶えず聞こえる鼓動の音。そしてぬるま湯につかっているような暖かさ。そして腹が減らない。
出産は母親が大変だというのが世間一般の認識。それは俺も否定しない。
否定しないが、それは出産時の記憶が綺麗に無いから言える事だろうと俺は考える。
頭蓋骨変形させながら出てくるって………どんなホラーだよチクショー!!
帝王切開を望む! ぜひ帝王切開!! なにより帝王切開!!!
どうしたらいいんだ!? 逆子なら帝王切開行なのか!? それともへその緒を首に絡ませたらいいのか!?
と、そこまで考えて俺はさらなる事に気が付いてしまった。
帝王切開出来ない環境とか……ないよね?
もし、仮に、万が一、出来ない環境で逆子だったりへその緒首に絡ませてたりしていた場合は、間違いなく母子ともに大変な思いをし、最悪死ぬ。
ノーーーーー!!! 死ぬだめ! 死ぬよくない! てか苦しいの却下!
どうしたらいいの俺! どうしたらいいんですか俺! どうしたらいいのでしょうか俺っ……!
返答などあるはずもなし。
うぅ……せめて双子とかだったら『よし、お前先行け』とかいって蹴るなりして先行かせて、その後比較的楽して出るとかって手も使えたかもしれないのに……
残念ながら、胎内には他に誰もいない。
ぶっつけ本番で特攻をかけるより他ないという、まるで太古の昔より定められてきた運命のような答えが待ち構えている。
あそーだ。自我があるから怖いんだよ。消せばいいじゃん。
………。
………………。
………………………。
使うはずだった資料の出来具合から始まって、関わっていた案件の進捗具合に客との合意の確認、作業依頼を作っていたはいいが出していない事を思い出し、ぐるぐるぐるぐる廻っていった。
俺は仕事人間じゃない俺は仕事人間じゃない俺は仕事人間じゃない……
心頭滅却火もまた涼しの偽変換のごとく唱えるが、それを唱えている事自体が俺という自我を認識させている事に三十回程唱えたところで気付いた。
落ち着け、落ち着くんだ俺。いいからまず落ち着け。
と、自分に言い聞かせている時点で全く落ちつけていない事を自覚する冷静な部分が慌てる俺を嘲笑う。
いや、まじで自問自答してる場合じゃねーよ。本気でこれは非常事態だろ。わーわー騒いで乗り切れる類じゃねーだろ。
何とかバランスを保とうとする俺を宥めている中、俺の予測をはるかに上回る事態が起こった。
か………壁。
壁が、何となく、動いている、ように感じた。
ま……まぁそりゃ子宮だとしたら動くよねー。俺だって動くんだから動くよねー。生きてるんだから当たり前だよねー。
……。
待ってください。
待ってください。
待ってください。
人間何事にも心の準備というものが必要なんです。
特に俺のように繊細で極小の精神の持ち主にはそれ相応の対応マニュアルというものがありまして。
それにのっとって対応して頂かなければ後々にわたって傷やら禍根やら他人が聞けば喜びそうなものですが本人にとっては本当に一大事の事態になるのです。
つまりどういう事かと申しますと、
いきなり収縮開始しないでーーーーーーーーー!!!!!
あ! ちょ!? これどうなんの!? 俺どうしたらいいの!? 俺何週目!? ちゃんと十月十日経ってるよね!?
めちゃくちゃ意識はっきりしてるからちゃんと育ってるよね!? 医者いるよね!? 何で外の音が聞こえねーんだよ!!
外の音が聞こえない理由は俺が焦り過ぎて気付いてないだけ。と、後々解釈。
そもそも何で俺が胎児なんだよ! 逆行しすぎだろ!!
あ~子供にもどりてー……って、思ったけど、これは戻り過ぎだろ!!!
あっ! ちょちょっと待ってお母様! そんな追い出そうなんてひどいわ!! もうちょい息子の心の準備というものを!!!
動揺も焦りも全く無視され、たぶん子宮だろうと思われるが、それが狭まって『ほらほら早くいきなさーい』と追い立てる。
もはや気分は断崖絶壁でバンジーさせられる直前。後ろからどんどん押されてる感じだ。
………っやりゃーいーんだろーが。やりゃー……
覚悟を決めて、突っ張っていた手を身体に引いて周りの動きに身を任す。
グッと頭に圧力が掛かり、とんでもトンネルをゆっくりと進んでいく。
い……痛いっつーか、圧力が……圧力が……顔面が……
頭が出たと思った瞬間、つるりと身体も押し出され、なんかすごい勢いで顔やら身体やらふかれた。
「あぎゃ! あぎゃー! あぎゃー!」
やっぱり出た瞬間は『おぎゃー』だろ。と、それだけは用意していたのだが、誰の手だか知らない神速垢すりもどきにビビり過ぎてそんな考えもふっとび、気が付いたら変な絶叫を出していた。
そういや息出来た……息の仕方忘れてたらどうしようかと……
本当のぬるま湯で身体を洗われ、ふわふわとした布にくるまれているところで俺はボンヤリとしてきた。
声をあげ続けるのも大変で、呼吸が落ち着いたらもう後はどうでも良い気分で、眠いとか疲れたとか思う間もなくブラックアウト。
元気な産声をあげてくれた我が子に安堵が満ちる。
乳母に取り上げてもらった子を胸に抱き、その小さな手にそっと指を添わせると、ちいさなちいさな力でギュと握ってくれた。
どうしようもなく愛おしくて、何に置いてもこの子だけは守ろうと誓う。
あの人に抱いてもらう事は出来ないけれど、その分も私が一杯抱いて愛そうと誓う。
まだ薄い髪は私と同じ青褐色。目元はあの人そっくり。鼻は私だろうか。口はどちらだろう。瞳はあの人と同じだろうか。
これからどんどん大きくなって、いつか私の背も超えて、あなたは幸せになるの。絶対に。