01 凍える夜
大変お待たせいたしました。
少しでも楽しんでいただければ幸いです。
月光が細く差す。暗澹にさえ思える闇夜の中で、窓の近くに置かれたベッドだけが白く浮かび上がっていた。
「ねえ、サタン様」
その上で、清潔なシーツを幼い肢体に巻き付けて少女は笑う。
まだ十にも満たぬ少女――それなのに、彼女には何十年も男を誘惑してきた娼婦のような妖艶さがある。乾いた唇に乗せられたのは、嬌笑。細められた大きな瞳には男の劣情を煽るような色すらちらついた。
がりがりに痩せた少女の身体には治り切っていない切り傷や痣の痕が痛々しく残り、見目はお世辞にも色香にあふれているとは言いにくい。しかし、……それだというのに、その姿はどうしようもなく美しく艶やかだ。
たしかに、幼いながらも端正なその顔立ちは、十年後を期待させるほどの美貌の片鱗を既に垣間見せているのだが、今言う彼女の美しさというのはそういうものではない。彼女のその美しさは、生まれてから今まで両手の指で足りてしまうほどの短い年月のうちに経験してきたのだろう、その凄絶なまでの人生から来るものだ。おそらく想像を絶するような酷くつらい経験が、彼女を何百年も生きた《魔女》のように思わせているに違いない――他の人生を歩んできた者ならば、百年かかっても会得しえないほどの美しさが少女にはある。……つまり、運命だと、どこかの詩人ならうたうような。
混血。
口に出すのに一秒もいらないその言葉が、その意味するところが、こんな小さな少女の運命までをも狂わせてしまったのだ。本当ならば、もし彼女がただの魔物であったなら、生涯彼女と出会うこともなかっただろうに。
「……抱いて?」
小首を傾げて見上げてくる表情には、痛いほどの純粋さしかない。
『自分が不幸である』などとは、微塵も思っていないようすだった。
……人は誰も、生まれてくるところを選べない。ならばせめて、怨むことくらいできただろうに。
おそらく彼女は、死ぬ時ですら、他人の幸福を願って死んでいくのだろう。
混血であったばかりに、彼女の当然であるべき幸福は奪われ、暗澹渦巻く悪意の底へと追いやられた。
運命のシナリオをねじ曲げてまで、私と彼女の邂逅が果たされたのは、丁度一週間前のことだった――。
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それは凍えるような、冬の夜。
「路地まで探せ!」
「逃がしちゃならねえ!」
表通りから響いてきた男たちの声は、確実に怒気を孕んでいる。
細い月明かりが照らす街並み。昼前に止んだ雨の露が月光を反射して、路面を鈍く光らせている。そこをどたばたと駆け抜ける複数の足音は、刹那にも永遠にも似ていた。
身体全体が、心臓になったような心地がした。
切らせた息をできるだけ殺しながら、あたしは細い路地の、冷たい家壁に背中をつける。日が当たらないこの国では建物は基本的に水に強い材質でできている。だけど、そこに残った水滴が、雪にならなかった冷たい雨の残滓が背中にべっとりと張り付いて、その感覚が気持ち悪くて思わず顔をしかめた。
――どうしよう。
魚が溺れるみたいにまぬけな呼吸を繰り返して、あたしは、同じことを何度も自問していた。男は複数。追われるあたしは、一人。当たり前だ。でも、当たり前すぎるその事実が、ぎゅっとあたしの首を締めつける。
狭い路地に、一人きり。メインストリートからは程遠く、備え付けられた街灯すらその役目を果たしてはいない。ちかちかと変な点滅を繰り返して、あの細い月光とどっちがマシだろうって程度。さらに路地に入り込んだものだから、あたしは自分の足もとさえ見ることは叶わなかった。
「……どうしよう……」
思ったよりか細い声が出て、ずるずるとその場に座り込む。ゆるやかな坂になった石畳は、それでもまだ濡れていた。
足音は馬の蹄のように石畳を打って遠ざかっていった。男たちはどうやら、違う場所を探すことにしたらしい。とりあえずは難を逃れた、ようだ。
だけど、だけど、どうしよう? 男たちがまた戻ってきたら。探し忘れた路地があったと、この狭い隙間を覗き込んだら。――たとえ奴らが二度と戻ってこなかったとしても、あたしは、これからどうしたらいい?
あたしは、奴隷だ。帰る場所はない。
涙がこぼれそうになって、慌ててローブの袖で目頭をこすった。泣いてる場合なんかじゃない。探さなきゃ。助かる、道を。
凍るような冷たさの石畳に手をつけて、あたしは何とか起き上がる。弱音を吐いちゃいけないと、震える唇を噛み締めた。――大丈夫。まだ、歩ける。足もとはよく見えないけれど、一歩一歩、踏みしめるように歩を進めて行く。
路地を出ると、街灯のかすかな明かりがそれほど幅のない道路を照らしていた。そこにあの男たちの姿はない。まるで全ての生き物が息絶えてしまった世界のように、夜の中でしんと静まり返っている。……人っ子一人、見当たらない。アップタウンとダウンタウンが混在するこの街では、人の通りが面白いくらいに分かれている。ここはいわゆるダウンタウンだ。その中でも特に貧しい場所。人がいるとしたら、今まさに死を迎えようと凍える時を待つ浮浪者と孤児たちか。
変な話だ、とあたしは路傍の水たまりを見下ろしながら考えていた。片方では働いても働いても貧しくて、食べる物も手に入らなくて死んでしまう人たちが掃いて捨てるほどいるというのに、もう一方ではぶくぶく太って踏ん反り返っているだけで生きていける人がいるのだから。
――それが神さまに選ばれた、っていうやつなんだろうか?
そうだとしたら、神さまはなんて理不尽な存在なんだろう。あたしたちは生まれてくる場所を選べない。きらびやかなお姫さまもみすぼらしい奴隷も、ただ神さまの気まぐれの賜物なのだ。じゃなかったらあたしは混血なんて道を選びやしなかっただろうに。もしもそれが前世の業だっていうのなら、あたしの前世の罪の名を教えてほしいくらいだ。
「神さまなんて、いない」
言い聞かせるように言う、そう、神さまなんていない。この世には、そんなものはいないのだ。分かり切っている。
だからあたしは、あたしで生きていくしかない。
冷涼な空気を肺一杯に吸い込んだ。熱くなっていた目頭がゆっくりと冷めていく。
――生きていくしか、ないのだ。それでもあたしは、生きたいんだから。
見上げれば、三日月が笑うような弧を描いて夜空に浮かんでいた。
まるで、あたしを嘲笑っているかのようだった。
◇
この世界は、あたしが生まれるよりももっと前、それこそ何百年も前から大陸中央部の険しい山脈を境に真っ二つに両断されていた。
大陸を分かち、世界を分けたのは二つの種族。
《人間》と《魔族》――それぞれそう呼ばれている種族に、明確な違いがあるのかって聞かれたら、多分あたしは「……耳?」と呟いて首を傾げる。
そう。耳。耳は二つの種族の明確な違いだ。魔族の耳はとがっているが、人間の耳はまるくて小さい形をしている。……どうしてなのかと聞かれても、多分あたしは再び首を傾げるだけだけど。でもそれを見るだけで、二つの種族は簡単に見分けることができる。
あと? あとは……何だろうか。住んでいるところ。食べるもの。でもそれは種族のうちでも“国”という単位によって変わったりするから、種族の違いと言えるかどうかは微妙なところだ。種族のうちでも、あんまり辺境に行くとしゃべる言葉さえ違うらしいし。……二つの種族を分かつものなんて、あたしにはよく分からない。
でも、そんなよく似通った二つの種族は、それでも飽きることなく繰り返し争い続けている。二つの種族が歴史上に残すのは、常に血と死の跡。はたして最初に争い始めた理由は何だったのか。今ではもう分からないんじゃないかと思うけど。
けれど、それでもまだ争う理由があるんだとしたら、それは罪もない彼らが命を懸けるに値するんだろうか。
あたしにはよく、分からない。
――命より大切なものって、いったいなに?
「待ちやがれ、このガキ!」
怒声が荒々しい足音を立てて追いかけてくる。
上がる呼吸を噛み殺して、あたしは夜の街をひたすらに駆けていた。
――やっぱり、街から離れるんじゃなかった……!
さっきの自分の迂闊な行動を悔やむ。混血だからといって街の中心部から離れたのがいけなかった。まさか、男たちに待ち伏せされているだなんて。
「うっ……く、はあ……!」
路地を抜け、通りに出て、ひたすら走る。あまり狭い路地を通ることはできない。相手は複数だ。挟み撃ちにされれば、あたしはなす術もない。
曖昧に明滅する街灯も、頼りない月明かりも、あれほど欲した光が今はうっとうしくて仕方がなかった。上り坂になった石畳を頂上めざして走りながら、あたしは光から逃れるように顔を伏せる。――お願い、あたしを照らさないで。いっそ世界が全て真っ暗になって、あたしのことを隠してくれればいいのに。
でも、そんなわがままな願いが叶うはずもない。目を上げればやっぱり、うす暗い夜の中ではオレンジ色の光が等間隔を保ちながらあたしを監視していた。闇を払う濁った色の灯り。あたしの金髪は、それらをよく反射する。
「もうあきらめなァ、仔猫ちゃん!」
追いかけてくる男たちの声音にも、どこか余裕が混じってきていた。足音ももう近い。おそらく……、もう、振り向けばすぐ後ろ。
それでもあたしは走るのをやめられなかった。もう駄目だと頭で分かっていても、足が止まらない。後ろで口を開けて待ち構える恐怖に――、身を委ねることができない。
死にたくない。
死にたくなんか、ないのだ。
『混血だから』のひとことで生への執着を捨てられるほど、あたしは大人じゃない。
「あっ!」
急に、身体が空を舞う。つま先が路傍の小石を引っ掛けたのだ。
カツンと乾いた音がして、あたしは湿った石畳に容赦なく叩きつけられる。
――痛い。
ボロ切れに近いこのローブじゃ、あたしには何の保護効果ももたらしてくれなかったようだ。途端、右の足首に走る強烈な痛み。一拍遅れて膝がじくじくと疼痛を訴え出し、視界がぼんやりと霞んでくる。……何でよ、泣いている場合じゃないのに。
後ろからとどろくように響く歓声。男たちはあと数歩であたしに勇み飛びかかるところだろう。もう、逃げ場は、ない。
(ああ、かみさま!)
喘ぐあたしに、答えるものはない。……分かってる。いもしないやつに、何もできはしない。分かってたのに。強く拳を握ると、汚れた爪が手の平の皮を突き破った。
あたしはただ、殺されるのを待つ羊。絡めとられた運命から逃れる術なんて用意されていない。
ぎゅっと目をつむると、ふいに、いとしい人の顔が脳裏をよぎっていった。これが走馬灯というやつだろうか。でも流れていくのは思い出じゃなくて、ただただ、あの人の笑顔だけ。この国にはない、夜の深い闇をも払うあの日の光のような。
(ねえさま)
――もし、あたしがもっと強かったなら。
そう、あたしに強さがあったなら。……あたしが自分で生きていけるだけの強さがあったら、きっと、こんなことにはならなかっただろう。
あの人のそばにいられたかもしれない。あの人の力になれたかもしれない。あの人といっしょに、暮らせたかもしれないのに――
(つよくなりたい)
あたし、死にたくないよ。
「――生きたいか?」
「……え?」
あたしは思わず顔を上げた。だれかがそっと、あたしの耳もとでささやいたから。
でもそこには誰もいない。冷たい石畳の上。息巻くのは、細い月光が照らす薄闇だけ。……男たちさえ、男たちの怒号と足音さえそこにはない。
――どうして?
困惑して、さらに顔を上げる。あたしに飛びかかろうとしていた男たちはどうしたというのか。
けれど、その原因は、見上げればすぐそこにあった。
ゆるやかな傾斜を描いた坂のてっぺん。糸のように細い三日月を背にして。さながら英雄のように、黒い外套をマントのごとくはためかせ。
「随分と楽しそうだな、密航者どもよ」
――そこには、紅い眼をした《悪魔》が立っていた。
魂を売るのが同義なら、あたしは悪魔だってかまわない。
ただ、あたしは言うのだ。「ひとりぶんの命を下さい」と。
それがどれほどの罪になるかも知らないで。