プロローグ
あらすじにもある通り、本作はいちおう【魔王の恋と勇者の愛】の番外?作品となっています。
ただし本編とは多少、というかかなり!雰囲気が違いますので、ご了承くださいませ。
**単品でも楽しんでいただけると思います。
世の中、アナタが思っているほど甘くない。
禁断の実をひと口齧り、そう教えてあげた。
それでもいい。
蛇は言う。
失楽園へと続くこの道を、オマエが一緒に来てくれるんなら。
神に弓引くワタシの存在も、アナタがいるなら怖くない。
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――いい月夜だ。死ぬには、こんな夜がいいかもしれない。
思って少女は、冷たい石畳の床に転がったまま、ひとり渇いた自嘲の笑みを漏らす。
冷たくて寒い夜。爪先から凍るような。吸って吐く息から、言葉から、多分全てが凍って形になってしまうような。
そんな冷えた夜の上、見上げた先には月。三日月。欠けた月。
――あたしと“アレ”は、よく似ている。
思いながら、眺めていた。……だからといって、少女が覚えるのは同情ではない。むしろそれはある種の同属嫌悪だ。太陽の光を反射して輝く、イミテーションのかがやき。
所詮本物にはなり得ない。そうあきらめていた。誰が本物、偽物と決めているのかは知らないが。決められるとしたら、多分、それが“神さま”なのだろう。
――だとしたら、あたしは、神さまにさえ疎まれながら生み堕とされた“忌み子”なのだ。
「ばかみたい」
あたしもこんな世界大嫌いだよ、と。
吐き捨てるように呟いた。
その言葉が最後になることを、祈りながら。
◇
「ふざけんな、このガキ!」
ガシャン。狭い空間に、ガラスの割れる音がひとつ落とされる。
「わざわざ高い金出して買ってやったんだぞ!?」
「分かってんのか、あぁ、てめえ!?」
入り混じった罵声と怒号とともに、安い酒の注がれたグラスが頬を嬲った。――冷たい。
「よりにもよって混血の娘かよ……! あの奴隷商人、謀りやがったな! 次会ったら殺してやらあ!」
再び、フードから露出した肌をつめたい破片が叩きつける。ぴり、と頬に走る鈍い痛み。まるでそれを合図としたかのように、二度、三度。何度も安酒とガラスの雨を浴びた。もはや痛みなのか疼きなのか、判断がつかなくなるほどに。
「気持ち悪ィ、血みてえな色の目をしやがって! ……何とか言えよ、おい!」
「ふざけんな! 死んじまえ、このガキ!」
拒否も抵抗も、口を開く暇さえなく、今度は頬に拳を食らう。もとより、口を開く気なんてなかったけど。
でも、それにさっきのような鋭い痛みはなかった。何度も安酒を浴びたせいか。もう、感覚が麻痺していた。口の中に鉄臭い味を覚えたことで、ああ、血が出ているんだと他人事のようには思っても。
人気のない、蜘蛛の巣の張ったうす暗い倉庫の中。申し訳程度に吊るされた埃まみれのランプが、あたしを囲んだ体格のいい男たちをぼんやりと照らしている。
隻腕の偉丈夫、赤毛に鳶色の隻眼、蛇の刺青をした壮年の男、髪を刈り上げた一番の痩身。昔見た――とっても怖かった覚えがある――船乗り上がりみたいだ、とぼんやり思う。地底の国にはかろうじて湖と呼ばれる底浅い水たまりしかないから、そんな職業が成立するわけもないけど。
「しっかしどうする、このガキ。このまま殺しちまうんじゃあ、オレらァあんまりにも報われねえぜ」
「つってもよ、あれより高い値で売り捌くにゃあちと難しいだろ。畜生、先にこの娘のこの薄気味悪い目を見てたら買う気なんざ起こらなかったろうに。……おい、何見てやがる!」
がすり、と妙に軽い音が左肩を蹴る。加えられた力に抗うこともできず、あたしはつめたい地べたに転がった。別に見ていたわけじゃないのに、と心のどこかで思う。でもそれは言葉になる前に喉の奥で消えた。
あたしは、奴隷だった。
それ自体はめずらしいことでも何でもない。奴隷。この国では、親のない子が、悪事の償いと言われて連れられた女が、貧乏暮らしの家の子が、奴隷商人に騙された迷い子が、最後に行き着く当然の結末だ。
けれど、あたしはみなしごでも犯罪者でもなければ、貧乏暮らしの娘でも迷い子でもない。――あぁ、最後はあながち間違いでもないけれど。だけど、捏ち上げられた良い収入に釣られるほど安くもない、はずだ。
ただ、あたしは《混血》だった。
単にそれだけの話。
娘は混血でした、ですから奴隷なのです。終わり。了。完結。簡潔に。
烙印を押された右胸がじくりと痛む。そこはもう熱を持っているわけでも何でもないのに、さながら、呪いのように。
おまえは奴隷なのだと。たった銀貨二枚の価値の。しかも、それすらぼったくりだと男たちが憤るような。
「でも、少なくとも上玉だぜ。まだガキだけどよお」
言いながら気持ちの悪いものを見る眼で見下ろされても、見返す気にはならなかった。どこか軽蔑と嫌悪の入り混じった口調。一歩間違えば――いや、あたしがたとえ間違いを犯さなかったとしても――簡単に殺されてしまいそうなことくらい、あたしにも分かる。でも、だからどうするなんて、あたしにはそんな力もない。
だから、お人形のようにされるがままに。できるだけ気を逆撫でしないよう。それだけ。
「そりゃそうだ。しかしおめえ、それだけで混血を犯れるか?」
「犯り殺しちまえばいいんじゃねえの。どうせそういう目的で買ったんだしよ、憂さ晴らしのオモチャと思えばなんてことはねえ。むしろ、このガキが泣き叫ぶの見りゃ気が晴れるんじゃねえか?」
「……そりゃ、そうかもしれねえけどな」
じろり。じろり。不恰好に飛び出した目玉があたしを睨め回す。
気持ち悪い、と思った。男たちはあたしを同じ言葉で蔑むけれど、気持ち悪いのはいったいどっちだろう。
何をされるのかは分からなかったけれど、何をされそうなのかは何となく理解した。本能的に、というべきか。
それは陵辱だ。街の片隅に立つ襤褸を纏う女が、ネオン街のように着飾った男の袖を引くような。冷たい冬の空気を弛緩させる、尾を引く甘いだけの媚声のような。オトナたちが、求め合い、引きずり合い、与え合い、奪い合うもの。
「まあ……そうだな。犯った後に、底値だろうとどっかに売りつけてやってもいい。趣味の悪い北の屋敷のダンナなら高値で買い取ってくれるかもしれねえしな」
にやり、と下卑た笑み。それで男たちの意見が一致したことを悟る。
うす暗い、今はもう使われていない倉庫の中。ぼかしたような灯火の下で、七つの目が木製の椅子の上から一度にあたしに注がれる。土気色の肌に、安いお酒のせいなのか、微かな赤みが差していた。
助けはない。もとより期待なんてしていない。あたしを助けてくれるようなひとなんて、どこにもいない。
(かみさま)
神さまも――そんな、恐ろしいほど公平で平等で善良な絶対的存在なんて都合のいいものも、この理不尽な世界には決して存在し得ないのに。
頭では、理解してる。
「ああ、あの屋敷のダンナなら少しくれえ手垢が付いてても気にしねえだろうな」
「そうさ。奴が断ったら富豪どもにも付け入る隙はある」
「奴らは物好きだからなあ」
「いっそ殺しちまってもいい。混血なんかにゃ生きる価値なんざねえよ」
「あぁ、そりゃそうだ」
(かみさま)
目の辺りが熱い。瞼が腫れぼったい。奴隷の焼印を入れられた時みたいに。
「誰が最初だ?」
「オレがやる。金を払ったのはオレだからな」
「馬鹿言え、オレたち全員の金だろうが」
(かみさま)
どっと沸く笑い声。
さっき頬を殴った刺青の男が、声を上げて笑いながら近付いてくる。奇妙に歪んだ笑顔。気持ち悪い。さっきまではこめかみに青筋を立てるほど怒っていたはずなのに。人なんてそんなものだろうか? あたしはそれが怖くて、地べたの上を芋虫のように這い回る。
「おいおい。そう怯えるこたあねえよ、嬢ちゃん」
(かみさま)
煤に汚れた手が視界いっぱいに広がる。男の目は、襤褸切れに近いような薄いローブの下を見透かすかのように、あたしのことを上から下まで舐め尽くした。
かみさま。かみさま。かみさま。
目が焼けるように熱い。溶けてしまいそう。灼熱が瞼を焦がす。
かみさま。かみさま。かみさま。かみさま。かみさま。
涙さえ乾き、枯れて出てこない。でも目は相変わらず熱くて、痛くて、溶けてしまった方がきっとマシだ。
「オレたちは嬢ちゃんを気持ちよくしてやりたいだけなんだよ。なあ?」
下卑た笑み。口いっぱいに粘つく。
目が痛い。じくじくと焼き尽くす痛みが、激情を煽る。
(かみさま)
ああ。どうして。
こんな喜劇みたいな世界。神さまなんて、いないのに。
(かみさま。かみさま、かみさまかみさまかみさまかみさまかみさまッ――!)
――ついに、あたしのなかの“かみさま”が、はじけた。
「――ひぎゃぁあっ!?」
「ルイスっ!?」
あたしの頬に触れた角張った手。ローブの下を探ろうと目論んだ手が、弾けるように爆ぜる。悲鳴や仲間の名を呼ぶ声を覆い隠すほどの破裂音が、容赦なく鼓膜をつんざいた。
爆発。そのあまりの爆風に、ルイスと呼ばれた男はおろか、床に転がっていたあたしまでもが大きく吹っ飛ばされる。そして後ろの壁に肩から思い切り叩きつけられ、肺から空気が全部押し出された。突然の衝撃で真っ白になる思考。――な、に……!?
「くそ、このアマ……っ!」
「こいつ、何しやがった!」
何かを喚き詰問する声。けれど、混乱しているあたしが、そんな問いに答えられるわけもなく。
いきり立つ男たちの怒声が、困惑と混乱の中唯一鮮明な聴覚を刺激する。
――逃げなきゃ。
咄嗟に脳裏を横切る強迫観念。あたしを動かすものは、もはやそれだけ。よろめきながらも、あたしは手足をばたつかせて何とか立ち上がった。こんな状況じゃなきゃ、その様子はどんなに滑稽に見えたことだろう。けれど今は醜い喜劇を笑う観客はいない。あたしは小刻みに震える足でふらふらと、ゆるやかにだけれど走り出す。
「てめえっ、待て!」
後ろから飛んできた竦むような太い声に、心臓がぎゅっとつかまれたような恐怖を覚えて飛び上がるけれど、それでも前へと歩み出す足は止めない。逃げなきゃ。逃げなきゃ。
迷路のごとく堆くコンテナが積まれたうす暗い中をよろめきながら駆け抜け、閉ざされたシャッターの隣の小さなドアに体当たりする。鍵は掛かっていなかった。錆びたドアノブをひねると同時に、掛けていた体重が傾く。
「――は……っ!」
冷たく澄んだ空気。夜の清涼な空気。ようやくまともな呼吸ができて、解放感が僅かに胸を満たす。けれど、それも束の間。後ろからは、すぐに男たちが追ってきている。
――逃げなきゃ。
どこへ? どうやって?
――逃げなきゃ。
どこまで? いつまで?
問う声は歌うように何度も繰り返してきたけれど、そんなことを考えている時間なんてあたしにはない。罵声はすぐそこ。あたしにあるのは、目の前に広がる道だけ。
――生きたい。
脈打つ心臓が、雄叫びのごとく吠えた。生きたい。だから。
細く頼りない月明かりだけが照らす石畳の上を、あたしは、覚悟を決めて駆け始めた。
◇
「――《密航者》、か」
薄闇の中に、ぽたりと白墨のように声が落とされる。
凍えるような寒さの夜。陽なき天を衝き揺らす白の尖塔。その一室。さして広くもないが、調度品には品がある。
「なかなか洒落た名前だろう?」
そんな部屋、ソファーの向こうの愉快げな声音を背に、洞穴竜の脂を燃やすランプの火が書類に記された几帳面な文字を照らしていた。
眺める男の髪色は、いっそ鮮やかなほどの毒々しい緑。
彼が目を落とすのは《密航者の取締まりに関して》――そう題された書類。その分厚い冊子になった紙束には、最近動きが活発化してきた奴隷売買の詳細が数十ページにも及んで記載されている。これは男が三日前の真昼間、後ろで愉快そうに笑うもう一人の男に頼んだ仕事だった。
売買時の合言葉。取引場所の子細。奴隷商人の特徴。男が頼みもしないところまでも、これでもかというほどによく調べ上げられている。男がもっとも必要としていた“とある輩”に関しても、申し分ないくらいに情報が集められていた。 とある輩。――とは、題にもある《密航者》のことだ。勿論《密航者》はそのままの意味ではない。それは主に奴隷買い、ここでは特に奴隷買いの中のとある目をつむりがたい集団のことを指している。つまり、最近特に“やりすぎている”奴らのことだ。仕事を頼んだ相手は詩的表現を好んでいるらしく、だからよくこんな真似をする。本人は何故か得意げだが。
まあ、そんなことはともかく、そもそも今回の調査はその《密航者》の悪事を暴くために頼んだものだ。最近の《密航者》の行動は易々と見過ごせるほど甘いものではない。奴隷商人から若い娘の奴隷を買ってみてはそういう趣向の貴族に売り捌いてみたり、かと思えば乱暴をはたらき殺してしまったり。その殺し方もあまりに惨い。書類の記述によれば《密航者》はもともと外からやってきた賊の類らしく、その手口には、遠慮も恐れも一切ない。残虐かつ傲慢。そう形容するのがもっとも適当だろう。
……潮時か。書類を眺めていた男は、そう呟いた。
「ドネルバ」
「なんだい、王様」
「お前の実力は素直に買う。だが、あまり遊ぶな」
「お堅いねえ。人生、遊び心は必要だぜ?」
「お前の持論などどうでもいい。とにかく仕事のうちで遊ぶんじゃない」
ドネルバと呼ばれた男は、頭ごなしに自分を否定するその言葉にやれやれと肩を竦めた。
だが、書類から目を上げた男は、そんな相手の様子など意にも介さない。
ランプの灯りだけが照らす部屋の薄闇の中、二つの紅炎が――王と呼ばれた男の紅い双眸が、蝋燭の火のように浮かび上がっていた。
「それと、もう一つ。今から私は少し出てくる。他の者には知らせるな、……何か言われるのも面倒だ」
「は? 何だよ、こんな時間に。しかも王様みずから出張るなんて」
ドネルバという男は訝しげに振り返るが、男の目には既に決意のようなものが色濃く浮かんでいる。
(……《密航者》を取り締まりに行く気か)
本気か。いや、単なる気まぐれではあるのだろうが。……今相手にしているのは、こういう男だ。
ならば止めても無駄だろう。そう思い、ドネルバはひらひらと手を振った。
「あんまり無理すると身体壊すぞー」
「身内かお前は。……どうせ眠れもしない」
そうして、紅い双眸は一度瞬くと。
「今からでも助かる命があるのなら、早い方がいいだろう?」
――深い宵闇に、月光はまだ細い。
こうして、のちに、魔女と蛇は物語る。
世界はいわば虚構であり、人生とは戯曲であり、神とはいわば詩人であると。
運命という名の台本にいたずらに翻弄され、幸福なはずの邂逅は、ゆるやかに坂を転げ落ちていく――。