緩やかな坂
昔から好きだった。
この感情が何なのか分からない時からずっと、私は思っていたけれど。
幼なじみというポジションがあまりにも心地好くて、踏み出せずにいた。
そうぐずぐずしているうちにあいつは変わってしまった。
ひっきりなしに彼女を作っては別れる。
正直、最低だと思う。
「奈々」
「きーすけ?」
名前を呼ばれて振り返ると、女受けが良さそうな笑みを浮かべている紀一がいた。
「久しぶりだな」
「そーだっけ?」
私は興味のないフリをする。
「つめてーな」
紀一が苦笑するのを私は受け流した。
「彼女は?」
「別れた」
「……いつか刺されるよ?」
「心配してくれてる?」
「いや、清々するから別に」
「奈々……。まあ、皆大切にはしてるから大丈夫だとは思う」
そう。最低だと言ったが、期間が短いだけできちんと付き合っているときは真摯に向き合う。
だから私と会うこともない。
いつの間にか幼なじみポジションは心地好いものではなくなっていて、明らかに彼女の次で、逆に辛かった。
片想いから十年が経って、私はようやく諦めようと思った。
告白する、という選択肢はなかった。自分が素直になるところを想像できなかったし、辛くても幼なじみポジションを失いたくはなかった。
それに短期間で捨てられるのが、何人もいる元カノの一人になりたくなかった。
恋愛感情がなくなっても、紀一を失いたくはないから。
「奈々?」
「何?」
「なんかあった?」
相変わらずの観察力に私は苦笑した。
「何もないよ」
「嘘だー」
「じゃあ、きーすけに言うことはなにもありません」
「ひどっ!」
こういう観察力とか、少しでも拒否してきたら深く追求してこないところとか、そういうところが好かれるんだろうなと思う。
「幼なじみなのにー」
「幼なじみだから何? 恋人じゃあるまいし」
私はなるべく冷たく言い放ち、歩く速度を上げた。
「待ってよ」
紀一は私の手を掴んで歩きはじめた。
……振りほどきたかったけど、できなかった。
「なんか恋人みたいじゃね?」
「バッカじゃないの。こんなチャラ男の彼女なんて御免だよ」
ドキドキなんてしないから。
もう、紀一はただの大切な幼なじみなだけだよ。
「ねーちゃん?」
家に着くと、心配そうにする弟が声をかけてきた。
「何よ? 凄い顔してるよ」
私がそう言って笑うと、比例して弟の顔が歪む。
「笑うなよ。紀一さんと何かあった?」
……弟には敵わない。
唯一私の気持ちを知っていて、応援してくれた人だ。
「今までありがとね。もうあいつとは幼なじみでいいや」
きっと笑えてなかったんだなと思う。
泣きそうな弟に私は何もできなかった。
それからしばらくしたある日、よくメールをしていた先輩から電話がかかってきた。
「どうしたんですか?」
『あー、率直に言うけど』
「はい」
『好きなんだ。付き合ってくれないか?』
私は驚いた。そして、言われた瞬間、紀一の姿が頭に浮かんだ自分に嫌気がさした。
「……少し考えさせてください」
『ああ。いくらでも待ってるから』
先輩の声は真っすぐで揺らぎがなかった。
「ありがとうございます。じゃあ、今日は失礼します」
『また明日』
私はゆっくり携帯の電源を切った。
先輩のことは好きだ。
話していて面白いし、一緒にいて落ち着く人。
断る理由はなかった。
ただ、恋愛感情がないのも事実だった。
次の日も私は紀一に会った。
「奈々、一緒に帰ろうよ」
「……あー」
私は断るべきなのかと思った。
一応告白の返事は返していないけど、きっと私が他の男と二人でいたら、先輩は嫌な思いをすると思うから。
「用事でもあんの?」
「そういうわけじゃないけど……」
「じゃあ行こうよ」
紀一が私に手を差し出してきて、私は思わずその手を叩いてしまった。
「え?」
それはどちらの声だったのだろうか。
なんで叩いてしまったの?
手を繋ぐのはよくないと思ったから?
決意が揺らいでしまうと思ったから?
「奈々、俺のこと嫌い?」
「……嫌い」
嘘だよ。
素直になれない自分が恨めしい。
それが取り返しのつかないことになる。
「そっか。俺は結構好きだけど」
「あっそ」
止めてよ。
「ほんとだって。俺さ、奈々と付き合ったら長続きするんじゃないかなって思うんだけど」
何でよ?
今まで私はずっとずっと我慢してきたのに、紀一はあっさり言っちゃうの? 私の気持ちは?
紀一は私の今までの苦しみを知ってる?
「……私、部活の先輩と付き合うから」
私はそう言って、駆け出した。
私の名前を呼ぶ声なんて、知らない。
家のドアを勢いよく開けて、私は床に座り込んだ。
「……馬鹿だ」
今更いうなんて、無理。
せっかくの決意をあっさり崩して、紀一と付き合うなんて私にはできなかった。
私はもう紀一のことは好きじゃない。
何度も何度も自分に言い聞かせた。
それから数日間、、私は紀一に会わず、先輩に返事をすることもしなかった。
そんな時、耳にしたのは紀一の噂だった。
「ねー、奈々。紀一くんの新しい彼女知ってる?」
「え?」
私は頭が痛んだ気がした。
あんな話をした後だったけど、別にあいつにとって大した話じゃなかったんだね。
「あのね、びっくりなの! 初めて紀一くんから告白したんだよ!」
「…………」
ああ。
何だ、本命いるんじゃん。
あの言葉は例え話でしかなかったってことか。
悩んだ私が馬鹿なの?
「すっごく美人さんでね~」
私は友達の話をほとんど聞かず、授業になったら机に突っ伏した。
ぽたぽたと落ちる雫。
ねえ、きーすけ。
ずっと大好きなんだよ。
どうして君に言えないんだろう。
私は紀一を諦めきれていないのだと認めて、先輩の告白を断ることにした。
「……諦められませんでした。だから、このまま先輩と付き合っても失礼だと思うんです。本当にごめんなさい」
私は素直に先輩に全てを話した。
こうやって紀一にも素直になれれば、よかったのに……。
「知ってたよ。君が好きな人」
「え?」
「だけどオレも諦められなかったから」
「先輩……」
どこか悲しそうに、でもしっかりと笑う先輩が眩しかった。
「わっ」
くしゃくしゃと先輩が私の髪を乱す。
目が見えなくなってしまった。
「あのさ」
話しはじめても先輩は手を止めなかった。
「諦められないから好きでいてもいいか?」
……そうだよね。
振られて平気な人なんていないんだ。
今は私から先輩の顔は見えないけど、声が震えているのが分かった。
「はい。ごめんなさい。でもありがとうございました」
「俺が諦めてないの忘れるなよ?」
「はい」
強がりかもしれないけど、二人で笑いあった。
「じゃあまたな」
「また部活で」
家に帰ると、久しぶりに私は弟に向かって紀一の話をした。
内容はもちろん、噂のこと。
「ようするに、私はきーすけの言葉に勝手に振り回されてたんだよね」
弟は何も言わずに聞いていてくれた。
「……紀一さんから告ったってほんと?」
しばらくしてから弟はこれだけ質問してきた。
「そうらしいよ。私に口説き文句いった翌日にこれだよ。本命いるくせに言わないでよって感じ。これだからチャラ男は……」
「ねーちゃん」
早口でまくし立てる私を静かに諌めた。
「ごめん。本音じゃないよ……」
泣きたいのを我慢してるだけだから。
「オレも嫌なこと、聞いてごめん」
優し過ぎる弟の前で、私は頬が濡れるのを感じた。
「紀一さん、馬鹿だろ……」
この呟きは誰にも届かなかった。
「奈々」
「きーすけ?」
数日前と同じように名前を呼ばれて振り返ると、少し疲れた顔をした紀一がいた。
「久しぶりだな」
ここまで一緒。もう私たちの間に、語れるような話題なんてないんだ。
「……そーだね」
ここで私は前と違う反応を返す。
諦められないと自覚してから、寂しくてしかたなかった。絶対に本人には言えないけど。
「な、な?」
紀一は私の反応が予想外だと言うように戸惑いはじめた。
「彼女は?」
けれど、私は気にせずに前と同じ質問をする。
「……今日は用事があるって」
ほら。きーすけだって違うじゃん。
本当なら別れたって言うところでしょ?
「へえ、続いてるんだね」
そう口にした言葉は、思った以上に棒読みにだった。
「奈々は?」
「へ?」
私は意味が分からず、マヌケな声を出してしまった。
「だから、先輩と」
「……ああ」
私は記憶を辿って、理解した。
確か紀一には「先輩と付き合う」と口走っていたのだ。
「付き合うの、止めたんだ。あの時、実はまだ返事する前だったから」
「……は?」
急に紀一の表情が変わって、私は怖くなった。
「まじで言ってる?」
「あ、うん……」
いつの間にか目の前にきた紀一と壁に挟まれて、私は動けなくなっていた。
「……ふざけんなよ」
紀一が何か呟いたかと思ったら、思い切り抱きしめられた。
「どうしたの?」
紀一はかなり力を入れていて痛かったけど、私にはどうすることもできない。
「俺の我慢、返してよ」
近づいてきた紀一の顔から私は逃げることは叶わなかった。
私はきつく口を閉ざす。開けてしまったら、今までの紀一の彼女と同じになってしまうから。媚びていると思われたくない。
でも突き放すことは中々出来なかった。たとえ理由が分からなくても、好きな人とキスをしている状況を嫌がるなんて。
私は何とか紀一の胸を軽く叩くと、あっさりと紀一は離れていった。
「やっぱり奈々だ」
嬉しそうに笑う紀一が分からなかった。
「何で……、きーすけ彼女いるのに」
どこかで喜んでいる自分と遊ばれたんじゃないかと泣きそうな自分がいた。
「あんなの代わり。奈々に声が似てたから」
「え?」
「でも俺から声かけたからって、調子に乗るし、媚びてくるし、ほんと気持ち悪かった」
「ちょっと待ってよ!」
私は紀一の言葉を理解できずにいた。
何、紀一は私のことが好きなの?
「何?」
「今更、私のこと好きなんて言わないよね?」
「………………」
ねえ、お願いだから。
そう思ったところで、私はどう答えるのを望むべきなのか分からなくなった。
「きーすけ……」
「……ごめん」
それは肯定だった。
そう理解した瞬間、私の中で何かが爆発した。
「なんで、なんでよ……」
こぼれ落ちる涙は止まらない。
「ずっと彼女いたくせに! 私のことなんか眼中になかったくせに! 急に何よ……」
「……今まで奈々が近くにいるのが当たり前すぎて、分からなかった。奈々が誰かのものになって、近くにいなくなっちまうの想像して初めて気づいた」
「それ、恋愛感情じゃないんじゃないの。幼なじみだから取られたくなかっただけじゃ」
「絶対違う。奈々は好きでもない奴にキスしたいと思う?」
「………………」
「たくさん彼女いて、いろいろしたけど最終的にはいつも『奈々の方がいい』と思って続かなかった」
まあそう考えているのに気づいたのは最近なんだけど。
そう苦笑いしながら言う紀一に私は何が言いたいのか分からない。
口を閉じたり開いたりするばかりで、なにも話すことが出来なかった。
「奈々は俺のこと、好き?」
その質問に素直に返答できたら、何も問題はないのに。
「嫌い、大嫌いッ! 私はずっと何年も我慢してきたのに……! きーすけは数日でしょ? 私の気持ちなんてこれっぽっちもわからないでしょ? そんな人に今更……」
急に抱きしめられて、私は言葉を詰まらせた。
優しい紀一の腕に縋り付きたくなる。
「……よかった。ずっと好きでいてくれたんだろ?」
「もうやだよ。今更無理だよ……」
自分の気持ちと裏腹に、私の口は言葉を紡いでいく。
「本当にごめん。もう一度だけでいいから。絶対離さないから」
私は紀一の腕を振りほどいて、歩き出す。
きーすけも苦しめばいいんだ。
振り返ると、その場で固まってじっと私を見つめている紀一がいた。
「一ヶ月、誰とも付き合うなって言ったらできる?」
「奈々とも?」
「……付き合うなんて言ってない」
「……奈々」
「でも、」
私は紀一を見ていられず、下を向いた。
めんどくさい女でごめんね。
「一ヶ月後だったら考えるかもしれない」
やっぱり怖いんだよ。
今までの人たちと同じ扱いを受けるんじゃないかと。だから、私が特別だと実感させて。
紀一はしばらく無言だった。
……嫌われたかな。こんな我が儘な考え。
そう思った瞬間、紀一の手が私の手を掴んで私は思わず顔を上げた。
「約束するよ」
予想以上に近くに紀一の顔があって、しかも見たことのないような柔らかい笑顔で、ドキドキせずにはいられなかった。
私たちの手は手を繋ぐようにではなく、小指だけが絡む。
「昔よくやったな」
「……うん」
『指切りげんまん! 約束だよ!』
『絶対ね。破ったら絶交するから!』
『やだ! 頑張る』
『やっぱり破った』
『ごめん!』
『もうきーすけなんて知らない』
『ななぁ……』
『絶交するって言ったでしょ』
『本当にごめんね……。お願いだからそんなこと言わないで』
「きーすけ、約束守れなかったよね」
「昔は、な」
苦笑する紀一がほんの少しだけ昔の泣き虫な紀一と被った。
「もし破ったら、何でもするから」
「じゃあ、絶交だね」
そんなことできないと私が一番分かっているけれど。
「分かった」
「今回は絶対するからね。泣いても無駄だから」
できないと分かっていても、私は無理矢理口にする。
「いいよ。絶対ありえないから」
そう笑った紀一をまともに見ることができなくて、私は再び歩き出した。今度はその隣から私の足音より少し遅い足音が途切れることなく響いていた。
まだ素直に気持ちを伝えられないけど。
君の気持ちを信じたいと思うんだ。
私が君のことを好きなのは確かな事実だから。
紀一視点の続きを書くかもしれません。予定は未定。