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ご安心ください、リーゼロッテが数えております

その侍女は二年前に亡くなっておりますわ。ご安心ください、今月もお給金は出ておりますので

作者: 紬 律
掲載日:2026/08/25

「三十年、この家の帳簿を一度も間違えたことはありません」


 ヴェルデ辺境伯家の執事頭グスタフ・レーマンは、胸を張ってそう言った。


 五十五歳。白髪を後ろへ撫でつけている。三十年この屋敷の家政を握ってきた人間の立ち方だった。


「王国財務省より参りました。監査官のリーゼロッテ・フェルマーと申します」


 リーゼは膝を折って一礼した。


 十八歳の娘である。子爵家の生まれで、王家の財務監査官になったのは先月のことだった。それまでの六年間は、婚約先だった侯爵家の帳簿をたった一人でつけていた。数字の並びを見れば、その家があと何か月もつかが分かる娘だった。


「ほう」


 グスタフは、リーゼを爪先から頭まで眺めた。


「失礼ながら、お若い」


「はい」


「ご安心ください。当家には、ご覧いただくほどのものがありませんので」


「三日ほどゆっくりなさって、王都へお帰りになるとよろしい」


 広間の奥から当主が現れた。


 ラインハルト・ヴェルデ辺境伯。四十半ばの大柄な男である。彼は椅子に腰を下ろして脚を組んだ。


「財務省の方か。ご苦労なことだ」


「先に言っておくが、わしは数字が分からん。昔から苦手でな」


 辺境伯は笑った。


「家のことは全部グスタフに任せてある。三十年、一度も困ったことがない」


「承知いたしました」


「本日伺いましたのは、定例の監査ではございません」


「王国では毎年、爵位を持つ家から帳簿の写しを提出していただいております。ヴェルデ辺境伯家の分も毎年届いております」


「出しておるな。それがどうかしたか」


「その写しに、頁の欠けがございました」


 辺境伯がグスタフを見た。


「欠け?」


「三年前の十月から二年前の九月にかけて、買い入れの記録が一年分ございません」


 リーゼは顔を上げた。


「写しを作るもとになった帳簿そのものから、頁が破り取られているためでございます」






 通されたのは、一階の奥の帳簿室だった。


 扉を開けた瞬間に、リーゼは足を止めた。


 棚が壁の三面を埋めている。背表紙に年と月が金字で押してあり、それが左上から右下へ一冊の隙間もなく並んでいた。埃が一つも積もっていない。


「三十年分あります」


 グスタフが後ろから言った。


「先代の御代から私が一人でつけております。どうぞ心ゆくまでご覧なさい」


 リーゼは一冊を抜いて開いた。


 字が美しかった。数字の桁が縦にまっすぐ揃っている。書き損じが一行もない。月末の合計は、次の頁の繰越と一の位まで合っている。


 六年間帳簿をつけてきた人間として、リーゼは素直に思った。この人は仕事ができる。


 三冊目を開いたところで、指が止まった。


 頁の根元に、細い紙の切れ端が残っていた。


 破り取られた跡である。


 一枚ではなかった。数えると七枚あった。






「グスタフさん」


「はい」


「この頁は、どなたが破られましたか」


 グスタフは慌てなかった。待っていたという顔で答えた。


「二年前に暇を出した女中です」


「女中」


「はい。銀器を盗んでおりました。何度か持ち出しては、領都の町で売っていたようですな」


「ご安心ください。買い入れの帳面には銀器の数も書いてあります。数が合わなくなるのを恐れて破ったのでしょう。浅はかなことです」


「その方のお名前は」


「……もう覚えておりません。二年も前のことですので」


「暇を出された記録はございますか」


「口頭です。盗人に証文は要りません」


 辺境伯が口を挟んだ。


「そういうことだ。女中が一人、悪さをして出ていった。それだけの話だろう」


「さようでございますか」


 リーゼは破られた跡の残る頁をもう一度見た。


 七枚。三年前の十月から二年前の九月まで。買い入れの帳面は月では区切られていない。七枚で一年分だった。


 書かれていたものは戻らない。写しにも同じ穴が空いている。


 残っているのは月ごとの合計だけだった。買い入れに金貨いくら使ったかは、合計を写す別の帳面に書いてある。破られたのは、それが何をいくつ買った分なのかという内訳のほうだった。


 合計は分かる。中身が分からない。だから合っているかどうかを確かめようがない。


 リーゼは棚を見上げた。三十年分の背表紙が隙間なく並んでいる。


 破られていない帳面は、いくらでもあった。


「グスタフさん」


「はい」


「給金台帳を出していただけますか」


「……給金台帳、ですか」


 グスタフがこの日はじめて眉を寄せた。


「あれはただの名簿ですが。ご安心ください、給金は毎月きちんと配っております」


「はい」


「それを拝見いたします」






 給金台帳は帳簿室になかった。使用人棟の配膳室の棚にあった。毎月そこで給金を配るからだという。


 表紙の擦れた分厚い一冊だった。


「なぜ給金の台帳を」


 運んできたグスタフが訊いた。


「わたくしは、どの家でも必ず給金台帳から読みます」


 リーゼは頁を開きながら答えた。


「帳簿の数字は、書く人間の思いどおりになります。買い入れの数も売り上げの額も、どうとでも書けます」


「ですが給金台帳に並んでいるのは数字ではございません。人の名前でございます。帳簿の中でただ一つ、生きている人間の名前が並んだ帳面でございます。数字は動かせますが、人は動かせません」


 台帳には四十人の名前があった。


 一人につき一行。左から名前、役目、月々の給金の額、そして受領の欄。給金を受け取った者が、その欄に自分の署名か印を書く。


 リーゼは今月の頁から読みはじめた。


 料理番。銀貨十二枚。洗濯女が四人。銀貨六枚ずつ。厩番。庭番。侍女が九人。


 三十七人目で指が止まった。


 ハンナ・ケラー。役目の欄には「勝手口 受取番」とある。給金は月に銀貨八枚。


 受領の欄には、小さな十字の印が一つ書いてあった。


 リーゼは頁を遡った。


 先月も十字。その前の月も十字。半年前も十字。一年前も十字。


 二年前の十月まで遡ったところで、印が消えた。


 そこには字があった。丸みのある少し傾いた字で、「ハンナ・ケラー」と本人の署名が書いてある。


 その前の月も署名。その前も署名。三年前の十月まで、十二か月ぶん全部が本人の字だった。


 リーゼは台帳を窓のほうへ傾けた。


 十字の印の墨を見る。それから同じ行の右端にある合計額の墨を見る。


 同じ色だった。


 筆の太さも同じだった。線の終わりの跳ね方まで同じだった。


 合計額を書くのは、給金を配る執事頭である。


 リーゼは静かに台帳を閉じた。






 その日の午後、リーゼは使用人を全員広間に集めさせた。


「全員ですか」


 グスタフは怪訝な顔をした。


「はい。四十人でよろしゅうございますね」


「四十人です。それが何か」


 集まったのは三十九人だった。


 リーゼは台帳を開いて、名前を一つずつ読み上げた。読まれた者が手を挙げる。料理番。洗濯女が四人。


 三十七人目で、リーゼは顔を上げた。


「ハンナ・ケラーさん」


 誰も手を挙げなかった。


「ハンナ・ケラーさん」


 列の後ろのほうで、若い侍女が小さく手を挙げた。十八ほどに見える娘だった。


「あの……その方は」


「はい」


「その方は、二年前に亡くなりました」


 リーゼはその娘の前まで歩いた。


「お名前を伺ってもよろしいですか」


「ミナと申します」


「ミナさん。ハンナ・ケラーさんは、どうして亡くなられたのですか」


 ミナが顔を上げかけた。


 そして、リーゼの肩越しに広間の入口を見た。


 そこにグスタフが立っていた。


 ミナはすぐに目を伏せた。


「……存じません」


「そうですか」


 リーゼはそれ以上訊かなかった。


 三十九人の列は誰も動かない。咳ばらいの一つも聞こえない。三十年この屋敷を握ってきた人間が後ろに立つとは、そういうことだった。


 リーゼは振り返った。


「グスタフさん。給金は毎月きちんと配っているとおっしゃいましたね」


「申しました」


「その侍女は二年前に亡くなっておりますわ」


 リーゼは給金台帳を開いて、彼のほうへ向けた。


「ご安心ください。今月もお給金は出ておりますので」


 この屋敷に来てから何度も聞いた言葉だった。リーゼはそれをそのまま返しただけである。






 場所は辺境伯の執務室へ移された。


「事務の手違いです」


 グスタフの声は落ち着いていた。


「名前を消し忘れたのでしょう。四十人分の台帳です。人の出入りもあります」


「手違いでございますか」


「はい」


「では、二十四回とも手違いでございますね」


「二年前の十月から今月まで。二十四か月ぶん一度も欠けずに印が押されております。手違いは次の月に気づいて止まります。二十四か月続くものを手違いとは申しません」


「……」


「印に変わったのは、あの方が屋敷を出された翌月からでございます。亡くなられたのはその冬でございます。まだご存命のうちから、別の誰かが受け取っておりました」


「……」


「それに、印の墨をご覧くださいませ。この十字の墨は、同じ行の合計額の墨と同じでございます。受け取った者の印と、合計を書いた者の字が同じ筆から出ております」


 辺境伯が身を乗り出した。


「合計を書くのは誰だ」


「執事頭さまでございます」


 リーゼは辺境伯を見た。


「給金を配るのも、合計を書くのも、台帳を仕舞うのも、同じ方でございます。三十年、ずっと」


 辺境伯の顔から血の気が引いた。


「グスタフ。……本当か」


「旦那様」


 グスタフは背筋を伸ばした。


「たかが女中ひとりの給金でございます。月に銀貨八枚。二年で百九十二枚。金貨に直せば十九枚と銀貨二枚。この家の一年の実入りからすれば端金でございます」


「王都のお嬢さんには、四十人を食べさせる屋敷の勘定は分かりますまい」


「はい。端金でございます」


「ですからわたくしは、給金を問題にしているのではございません」


 リーゼは破られた頁のある帳簿を机に置いた。


「先ほど、この頁を破ったのは二年前に暇を出した女中だとおっしゃいました」


「申しました」


「その方のお名前を、いま思い出していただけますか」


 グスタフは答えなかった。


「ハンナ・ケラーさんでございますね」


「破られている頁は、三年前の十月から二年前の九月までの買い入れの記録でございます。ハンナ・ケラーさんが勝手口の受取番をしておられたのも、三年前の十月から二年前の九月まででございます」


 リーゼは指を二本立てた。


「同じ一年でございます。一月も違いません」


「……あの娘が破ったからです。自分のいた頃の記録を消したのです」


「ではお伺いいたします」


 リーゼは顔を上げた。


「帳簿室の鍵は、どなたがお持ちですか」


 グスタフの口が止まった。


「……私です」


「ほかにお持ちの方は」


「……おりません」


「三十年、おひとりでございますね」


「……」


「今日はここまでにいたします」


 リーゼは台帳を閉じた。


「明日、勝手口を拝見させていただきます」






 翌朝リーゼが部屋を出ると、廊下にミナが立っていた。


 まだ暗い時刻だった。誰も起きていない。


「昨日は、嘘をつきました」


 ミナは早口で言った。


「申し訳ございません。あの場では言えませんでした」


「分かっております」


「……ハンナさんは、盗るような人ではありません」


 ミナの手が震えていた。


「二年前に銀器を盗んだと言われて、屋敷を出されました。村へ帰られて、その冬に亡くなりました。どこも雇ってくれなかったそうです。盗人だという話が回っておりましたので」


「わたしが屋敷に入ったとき、いろいろ教えてくださった方です。字も教わりました」


 ミナは深く頭を下げた。


「あの人は、盗っておりません」


 リーゼは一礼を返した。


「よく言ってくださいました。お名前は報告書に書かせていただきます。あなたを守るために書きますので、ご心配は要りません」


 リーゼは勝手口へ降りた。


 石畳の土間に、大きな受取台が据えてある。品物を並べて数えるための台だった。


 料理番の女が竈にいた。


「いま品物を受け取っておられるのは、どなたですか」


「執事頭さまでございます。二年前からずっとでございます。受取番の方が出ていかれてから、新しい方が入りません。執事頭さまが、人手は足りていると」


 人手は足りていない。四十人分の給金を出して、三十九人で屋敷を回している。足りていないのに補充しない理由は一つしかない。


 新しい受取番を入れれば、また誰かが品物の数を数える。


 リーゼは受取台の抽斗を引いた。


 紐と、古い秤の分銅と、折れた鉛筆が入っている。


 リーゼは抽斗を押して戻した。


 途中で止まった。指の幅ふたつぶんほど残ったところで、それ以上入らない。


 リーゼは抽斗を引き出して床に置き、台の奥行きと抽斗の長さを手で測った。


 抽斗のほうが短い。


 数が合わない。


 台の奥に、紙の束が押し込んであった。


 埃をかぶった裏紙の束だった。粗い糸で綴じてあり、表に鉛筆で名前があった。


 ハンナ・ケラー。


 リーゼは束を開いた。


 日付。品目。数。それだけが並んでいた。


 十月三日 せっけん 百二十

 十月三日 のうひんしょ 百六十


 納品書というのは品物と一緒に回ってくる伝票である。そこに書かれた数を確かめて、受け取った者が署名する。屋敷はその数のとおりに代金を払う。


 ハンナ・ケラーは、納品書の数と自分が土間で数えた数を並べて書いていた。


 石鹸は百二十しか届いていない。納品書には百六十とある。屋敷は百六十の代金を払う。


 それが一年分続いていた。


 最後の頁の余白に、鉛筆でこう書いてあった。


 ——かぞえまちがいではありません。まいかい二どかぞえています。


 リーゼは、その束を両手で持った。


 破り捨てられた一年の記録が、そこにあった。


 破り捨てた本人が消したはずの数を、追い出された本人が書き写して残していた。二年のあいだ誰も抽斗を抜かなかったので、それはそのまま残っていた。






 その日のうちに、リーゼはマルテン商会へ使いを出した。三年前まで石鹸と蝋燭と薪と灯油を納めていた商会である。商会の帳面は七年分残すのが組合の決まりだった。


 夕方に手代が控えを抱えて来た。青い顔をしている。


「王都の監査官さまが控えをご入り用と伺って、主人が卒倒しかけまして」


「商会に落ち度があるとは思っておりません。いくつ納めていくら受け取ったか、それだけでございます」


 翌朝、リーゼは辺境伯の執務室で三つの記録を机に並べた。


 マルテン商会の控え。ハンナ・ケラーの覚書。屋敷に残っている月々の合計。


「三年前の十月、この家は買い入れに金貨二十二枚を使ったことになっております。ですが商会が受け取ったのは十六枚。六枚がどこへ行ったのか、帳簿には書いてございません」


「仕組みを申し上げます。その納品書は、商会から執事頭さまの手を通って勝手口へ回ります。勝手口へ届いたときには、百二十が百六十に書き替わっておりました」


「……」


「屋敷は百六十の代金を出します。商会に渡るのは百二十の分だけでございます。残った四十の分が、金を出させた方の手元に残ります」


「ほかの商会へ払ったのでしょう」


 グスタフが言った。


「その見込みはございません。ハンナ・ケラーさんの覚書に、その月に勝手口へ届いたものが全部書いてございます。数は商会の控えと一つ残らず同じで、ほかの商会は一軒も来ておりません」


 リーゼは覚書を指した。


「破られた頁に書いてあった内訳が、ここにございます」


「それから、もう一つございます。二年前の十月から納入先が替わっております。マルテン商会への支払いが止まり、ヴィント商会という商会への支払いが始まっております」


「取引先を替えて何の問題がありますか」


「ヴィント商会は、領都の商業組合に登録がございません。店もございません。支払いの宛先は領都の外れの一軒家で、名義人はヨーゼフ・ブラントという方でございました」


「教会に婚姻の記録がございました。奥様の弟君でいらっしゃいますね」


「……」


「品物はいまもマルテン商会が納めております。変わったのは請求の宛先だけでございます」


「……間に一軒挟まっただけということか」


「はい。マルテン商会が受け取るのは以前と同じ月に十六枚ほど。屋敷がヴィント商会に払っているのは月に二十九枚でございます。差は月に十三枚。この二年、勝手口で品物を数えた者はおりません」


「破られた一年の差額が七十二枚。ヴィント商会の二年が三百十二枚。合わせて金貨三百八十四枚でございます」


 辺境伯が椅子から立ち上がった。


「三百八十……」


「ハンナ・ケラーさんの給金二年分は、金貨に直して十九枚と銀貨二枚でございます」


「ちょうど二十倍でございます」


「いま申し上げたのは三年前より後の分でございます。マルテン商会の控えは七年分ございます。残る四年分は、これから照合いたします」


 グスタフが顔を上げた。


「三十年、一度もお間違えにならなかった方でございます。三年前に急にお始めになったとは思っておりません」


 リーゼは破られた跡の残る帳簿を持ち上げた。


「グスタフさん。頁をお破りになったのはあなたでございます」


「……」


「破られた頁というのは、破った人間が『これは読まれてはいけない』と分かっていた頁でございます。あなたは、どの頁が危ないかを正確にご存じでした。だから正確にそこだけをお破りになりました」


 リーゼは帳簿を置いて、給金台帳を持ち上げた。


「そして、こちらはお破りになりませんでした」


「危なくないとお思いになったからでございます。四十人の名前が並んでいるだけの紙だと。誰も名前など読まないと」


「わたくしの父の口癖でございます。——数字は嘘をつかん。嘘をつくのは、数字を書く人間だ」


 リーゼは、ハンナ・ケラーの行を指した。


「あなたは三十年、一度も計算をお間違えになっておりません。一度もでございます。ですからこの家の帳簿に、間違いは一つもございません」


 リーゼは顔を上げた。


「嘘だけが、ございます」


 グスタフが椅子の背に手をついた。


「……あの娘が」


 声がかすれていた。


「勝手口の女中が、私のところへ来て言ったのです。数が合いませんと。……三十年ですよ。三十年誰も何も言わなかったのに、入って一年の娘が」


「はい」


 グスタフが辺境伯へ向き直った。


「旦那様。この家を回してきたのは私でございます」


「旦那様は数字が分からんとおっしゃる。分からんまま三十年、何ひとつお困りになりませんでした。誰のおかげでございましょうか」


 辺境伯は答えなかった。


「執事頭の給金は月に金貨一枚でございます。三十年、一度も上がっておりません」


 彼はリーゼへ顔を戻した。口調が変わった。


「誰も見ておらんのです。見ておらん者の働きは、ないのと同じだ。だから自分で取った。それだけのことですよ」


「わたくしは六年、誰にも見られませんでした」


 リーゼは言った。


「同じでございますね。そこまでは」


「……」


「字が書けると自慢しておりました。書けるといっても、あの程度の字です」


「その字が残りました。二年前にあなたがお破りになった記録は、この世に一つだけ残っております。あなたが追い出した方の手で残っております」


 辺境伯が扉へ声を上げた。


「グスタフを捕らえよ」


 衛士が二人入り、執事頭を連れ出した。


 扉が閉まってからも、辺境伯はしばらく動かなかった。


「……三十年だ。わしは騙されておったのか」


「いいえ」


 リーゼは給金台帳を差し出した。


「辺境伯様は毎月、給金の合計額に署名しておられます。四十人分と書かれた紙にでございます」


「……ああ」


「名前を、ご覧になったことはございますか」


 辺境伯は答えなかった。


「一度もございませんね」


「……ない」


「数字が分からないとおっしゃいました。ですが名前は数字ではございません。読むのに勘定は要りません」


「……」


「ハンナ・ケラーという娘を、覚えておいでですか。三年、この屋敷におりました」


 辺境伯は口を開いて、閉じた。


「……顔が、浮かばん」


「二十四回のうち一度でもお読みになっていれば、二年前に止まりました。あの方の汚名も、そのとき晴れております」


「……わしのせいだと言うのか」


「執事頭を罰するのは法でございます。見ていなかったことを罰する法はございません」


 リーゼは一礼した。


「ですから報告書に、そのとおり書かせていただきます」






 三日後、ハンナ・ケラーの母が屋敷に呼ばれた。


 エルザ・ケラーという小柄な老女だった。村から荷馬車で半日かかったという。広間の入口で立ち止まり、なかなか中へ入ろうとしなかった。


「娘が、ご迷惑をおかけしたと伺いましたが」


 リーゼは老女の前で頭を下げた。


「違います」


「……はい?」


「順にご説明いたします。長くなりますが、全部お聞きくださいませ」


「まず、娘さんは銀器を盗んでおりません。盗んだという記録も、盗まれた銀器の記録も、屋敷のどこにもございません。執事頭が口で言っただけでございます」


「……」


「娘さんは、勝手口に届く品物の数を毎日数えておられました。その数が納品書と合わないことに気づいて、執事頭に申し上げました。二か月後に盗人として追い出されました」


 エルザの口が開いた。


「あの子は、そんなことは何も」


「言えなかったのだと思います」


「娘さんがどこにも雇っていただけなかったのは、盗人だという話が回っていたからでございます。その話のもとは、この屋敷でございます」


 老女の手が震えはじめた。


「屋敷の記録は書き直します。離職の理由は『事由なし』に改め、身元の証明も出し直します」


「お金のお話をいたします。三つに分けて申し上げますので、順にお聞きくださいませ」


「一つ目。辞めさせられたあとの二年間も、この屋敷は娘さんの名前で給金を出しておりました。受け取っていたのは執事頭でございます。この二年分は辺境伯家へ返させます。働いておられない期間のお金ですので、エルザさんのものにはなりません」


「はい。当たり前です」


「二つ目。娘さんが最後に働かれた月の給金は支払われておりません。銀器の弁済という名目で差し引かれておりました。銀器は盗まれておりませんので、この名目は成り立ちません」


 リーゼは布の袋を置いた。


「銀貨八枚でございます。娘さんが働いて得たお金で、これはエルザさんがお受け取りになるものです」


 辺境伯が広間に入ってきた。老女の前で足を止め、深く頭を下げた。


「ヴェルデ家の当主として詫びる」


 エルザが慌てて膝を折ろうとした。辺境伯はそれを手で止めた。


「三つ目。虚偽の理由で人を追い出したことへの償いは、わたくしが決めるものではございません。家がお決めになるものでございます」


「金貨五十枚を出す」


 辺境伯は言った。


「足りんことは分かっておる。それから、村の教会に娘御の名前で寄進をさせてくれ」


 リーゼは、糸で綴じた紙の束を老女の前に置いた。


「これは娘さんが書かれたものでございます。写しを取らせていただきましたので、こちらはお返しいたします」


 エルザは束を開いた。


 鉛筆の字を指でなぞった。


「……字が書けるのが、この子の自慢でした」


 老女の指が止まった。


「村の司祭さまに教わりまして。屋敷に上がるときも、字が書けますと言って上がりました」


「はい」


「こんな、走り書きのようなものが」


「これがなければ、何も分かりませんでした」


 リーゼは言った。


「破られた一年に何があったのかを知っていたのは、この世で娘さんだけでございました」


 エルザが泣いた。






 その日のうちに、給金台帳からハンナ・ケラーの行が消えた。代わりに、離職の記録に一行が書き足された。


 ——ハンナ・ケラー。三年前の十月より二年前の九月まで、勝手口の受取番を務む。離職の事由なし。


 誰も読まない帳面である。三十年、誰も読まなかった帳面である。


 それでも、そこに書いてある。


 リーゼが屋敷を出る朝、ミナが勝手口の受取台の前に立っていた。


 新しい受取番になったのだという。


「わたしで務まりますでしょうか」


「数えられますか」


「……数えるだけなら」


「字は書けますか」


「はい。ハンナさんに教わりました」


「それで十分でございます」


「数が合わないと思ったら、そうおっしゃってください。今度は、聞く人がおります」


 ミナは深く頭を下げた。


 門の外に馬車が停まっていた。扉が開いて、アーベル・グランツが降りてくる。二十五歳で王国財務卿に就いた、史上最年少の男である。


「終わりましたか」


「はい」


「報告は道々伺います」


 アーベルはリーゼの手から鞄を取った。


「頁が破ってある帳簿でしたね」


「破っていない帳面のほうに書いてございました」


「……なるほど」


「頁の欠けにお気づきになったのは、財務卿でいらっしゃいますね」


「千通のうちの一通です。気づくのに二年かかりました」


 アーベルは屋敷を見上げた。


「二年早ければ、その方は生きておられたかもしれません」


「わたくしは六年書いて、誰にも気づかれませんでした」


 リーゼは言った。


「二年で見つけてくださったのなら、十分でございます」


 アーベルは少し笑った。


「次は南のハルデン子爵領です。二十年、普請の願いが途切れたことがありません」


「災いの多い土地なのでございますね」


「ええ。先月もまた橋が落ちたそうです」


 リーゼは馬車に乗り込んだ。


「二十年架け続けて、まだ落ちるのでございますね」


「フェルマー嬢」


「はい」


 アーベルは向かいに腰を下ろして、少し言い淀んだ。


「その、失礼でなければ」


「はい」


「リーゼ、とお呼びしてもよろしいですか」


 リーゼは窓の外を見た。


 屋敷の勝手口が見える。受取台の前にミナが立っていた。


「どうぞ」


 馬車が動きだした。


 リーゼは膝の上で、写しを取った紙の束をそっと押さえた。


 誰も読まなかった字である。


 これからは、読む人がいる。


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― 新着の感想 ―
家の内政のことだから貴族家なら奥さんが仕切るべき仕事だよね 家のことの仕事の最終チェックは一々当主がしていたら仕事量が多すぎて回らなくなるから、貴族出身の執事頭とか妻君に家のことを任せるんだよね 平民…
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