【第二章:深淵(アビス)(二)】
最前線を巡回するオールドマン。 森の天然の遮蔽物を利用し、防衛兵のローテーションを細かく回す。 限界を超えつつある兵士たちの疲労を少しでも和らげ、泥沼の持久戦へと引き摺り込んでいた。
(――定石が通じねぇ。敵は各目族の長所を完全に理解し、相性を突いてきやがる……)
「指揮官! 艦隊からの報告です。弩砲の矢が底を突きかけていると……!」 都市の後方から駆けつけた騎兵が叫ぶ。
オールドマンは振り返り、淡々と指示を出す。 「空舟になった漁船に弩矢を積んで送り届けろ。それと、まだ船に乗れていない連中に頼んで『藁人形』を作らせろ。出来上がった端から、森のあちこちに配置していくんだ……」
戦線は徐々に押し込まれ、戦場は深い森の中へと移っていた。 だが、そこに配置された藁人形が劇的な効果を発揮する。 偽装に惑わされた敵を、防衛兵が伏撃で確実に狩り取っていく。 敵の波状攻撃は一時的に麻痺し、両軍は森の中で完全に膠着状態に陥った。
そうして――地獄の三日目を迎える。
森に潜む兵士たちからの報告。 配置した藁人形が、敵の斥候や遊撃兵によって次々と排除されているという。
(――森のダミー戦術に対して、バイ王朝の斥候システムと、ハイエルフの精鋭遊撃隊をぶつけてきやがったか……)
色濃い疲労を滲ませながら、オールドマンは短く黙考する。 報告に上がってきた防衛隊長を見据え、命じた。
「前線の兵士に伝えろ。残っている藁人形を全部ばら撒いて、徐々に森の外まで後退しろ。――火を放つ準備だ」
(――どこの誰かは知らねぇが、まるで全種族を統合した『連合軍』じゃねぇか……)
背後に控えていた騎兵が一歩歩み寄り、懇願する。 「ボス、どうか撤退してください……」
騎兵を見つめ、オールドマンは無理に薄く笑ってみせた。 「まだだ。負傷兵を宗主国へ逃がすのが先だ。俺のことは後でいい……」 「後方の兵士たちに、街の境界に防衛線を敷かせろ。弓兵は外縁の民家に入り、狙撃陣地を構築。それから艦隊へ伝令を走らせ、弩矢に油を塗って火を点けろと伝えろ。森ごと焼き払う」
四日目。 かつて青々と茂っていた森は、今や赤黒い残り火と消し炭だけが転がる、不毛の焼け野原へと変貌していた。
焦土と化した荒野を越え、敵は幾度となく波状攻撃を繰り返す。 民家の屋根に陣取った弓兵たちが、途切れることなく矢の雨を降らせ、地上で耐える歩兵の負担を軽減させる。 しかし、負傷兵が次々と船へと送られる中、前線で戦える兵力は底を突きかけていた。
遊撃部隊としてオールドマンに随伴していた騎兵が、限界を迎えた防衛線を見下ろし、再び諫言する。
「ボス! もう兵力が足りません。我々と共に撤退を……!」
ボロボロになった防衛区を一瞥し、オールドマンは騎兵たちを引き連れて市街地へと馬首を返す。 「撤退はする……だが、他の兵士たちを生かして逃がすのが先だ。残存する騎兵を集めろ。弓を持たせ、遊撃戦に移行するぞ」
そして、五日目――。
心身共に限界を迎え、憔悴しきったオールドマン。 彼は『白き湾』の砂浜に独り立ち尽くしていた。 高台から立ち昇る無数の黒煙。 やがて、その稜線に紫色の人型の影が次々と姿を現すのを、ただ黙って見つめている。
最後部隊の部下たちが、砂浜に接舷した小舟へと次々に乗り込んでいく。 最後まで残っていた一人が、彼の傍らへ歩み寄った。
「ボス、もう十分です。船へ……」
部下と共に小舟へ乗り込む。 船首に腰を下ろした彼は、次第に遠ざかっていく故郷の景色を網膜に焼き付けていた。 最後に彼の視線が捉えたのは、群がる異形の群れの中にあって、一際異彩を放つ長身のシルエットだった。
(――たとえ両手両足を捥がれようと……いつか必ず、牙を研ぎ澄まして戻ってきてやる) (――『テメェら』全員の口から、泣きながら俺を『ダディ』と呼ばせてやるからな……ッ!)
「指揮官殿! 指揮官殿ォォッ!」
バイの斥候が、血相を変えて戦略情報室へと転がり込んできた。
「誰が斥候を入れろと言った!? 警備兵は何をしている!」 室内にいたバイの指揮官たちは、扉の前で息を切らす斥候を虫ケラでも見るような目で睨みつける。
「お、お怒りはごもっともですが! 緊急の報せを持ち帰りました。各情報官殿へ至急ご報告を!」
「手短に言え! こっちは海岸に出現した敵の対応で忙しいんだ」 不快感を隠そうともしない指揮官たち。
「ホンヴァーシャ公国が――完全に陥落した模様です」
その一報に、室内の空気は一瞬にして凍りついた。全員が眉間に深い皺を刻む。 だが、ただ一人――先日の敗戦を喫した指揮官だけは、呆然とした後、慌てて同僚たちに頭を下げ、斥候の襟首を掴んで情報室を飛び出した。
廊下に出るなり。 バイ指揮官は抑えきれない興奮で震えながら、斥候の両肩を激しく揺さぶった。 「お、おい! その情報の裏は取れているんだろうな!?」
「ハッ、指揮官殿! 情報源の信頼性は確認済みです」 姿勢を正す斥候。
その返答を聞き、ふと我に返った指揮官の顔色が変わる。 「生存者は? 生き残りはいるのか?」
「報告します! 生存者は多数おり、全員が無事にホーリー・グロリア・キュリアへ逃げ延びたとのことです」
それを聞いた瞬間。 バイ指揮官の顔に、歓喜と狂気の入り混じった歪な笑みが浮かび上がった。
「お、お前……今すぐ調べろ! 生存者の中に、パイプを咥えた糸目のクソ野郎がいなかったか徹底的に洗え! もしそいつの名前があったら、真っ先に俺へ報告しろ!」
敬礼して走り去る斥候の背中を見送りながら。 指揮官はもはや、己の腹底から込み上げる異常な興奮を隠そうともしなかった。 まるで神の恩寵でも受けたかのように、恍惚とした表情を浮かべる。 彼の脳内は、あの憎きパイプ野郎を嬲り殺しにする妄想で完全に埋め尽くされていた。
ワルツでも踊るような、軽快な足取りで自室への廊下を進む。 上機嫌にターンを決めながら執務デスクの前まで辿り着き――。
ドサリと、泥に塗れたように椅子へ崩れ落ちた。 彼の顔半分は包帯で覆われており、ここ数週間の激務で蓄積された疲労が、その落ち窪んだ目元から滲み出ている。 彼は虚ろな目で、宙のどこかをぼんやりと見つめていた……。
(――あのバケモノどもは、一体何なんだ? 常軌を逸している……) (――オーク、エルフ、人間……ありとあらゆる種族の姿を模倣した怪物ども。まるで既知の全種族が手を結び、我々に戦争を仕掛けてきているかのようだ……)
伏し目がちに、机の上に散乱する報告書へ視線を落とす。 バイ王朝の版図が正体不明の敵によって大規模に侵食されているという絶望的な戦況。 そして、他種族との長年の確執を一時凍結し、同盟を結ぶという国家の決議案。
だが、彼の目を引いたのは、その紙束の一番底に挟まっていた一枚の資料だった。
積み重なった書類を払いのける。 目に飛び込んできたのは、先ほど斥候が持ち帰ったばかりの調査資料だ。 その見覚えのある、思い出すだけで腸が煮えくり返るような男の似顔絵。 しかし、その横に記されているのは『ホンヴァーシャ難民』という身分と階級のみ。 経歴や過去の戦功欄は、全て白紙だった。
バイ指揮官は信じられないものを見るような顔で書類を掴み上げ、目をこすって二度見した。
(――おい……冗談だろ? 俺たちがホンヴァーシャに侵攻した時の戦功はどこへ行った? なぜ一文字も載ってないんだ?)
言い知れぬ戸惑いと混乱を抱えたまま、彼は再びあの斥候を執務室へと呼び戻した。
斥候が机の前に直立する。 指揮官はバンッと資料を突きつけ、声を荒げた。 「お前、本当に俺が特徴を言った男と同一人物なんだろうな!?」
自分が持ち帰った書類を見つめ、斥候は真顔で報告する。 「間違いありません、長官。私が探りを入れた限り、ホンヴァーシャで『パイプを咥えた糸目』という特徴を持つ者は彼一人でした」 「異種族同盟が結ばれたおかげで、ホーリー・グロリア・キュリアの難民名簿からこの情報を引き出せたのですが……ただ……」
「ただ、なんだ?」 バイ指揮官が眉を潜め、先を促す。
「彼に関する情報が、あまりにも両極端なのです」 「ホンヴァーシャの公式記録と、民衆の間で出回っている噂の乖離が激しく……民衆の話によれば、ホンヴァーシャの貴族どもが旗艦や物資を独占して逃亡した後」 斥候は一度生唾を飲み込み、言葉を継いだ。
「この男が都市防衛兵を指揮し、丸五日間もバケモノの群れを食い止めたそうです。全市民の避難が完了するのを見届けてから、最後に戦場を退いたと……」
「は、はぁ!? 五日だと!?」 バイ指揮官は言葉を失い、机を両手で強く叩きつけながら勢いよく立ち上がった。
(――おかしい……! そんな真似をやってのけたなら、胸が勲章で埋め尽くされて然るべきだ。なのに、なぜ過去の経歴まで真っ白なんだ!?)
「だったら、なぜこいつの戦功欄が空っぽなんだ!? 五日間の防衛戦を指揮したなら、英雄扱いされて当然だろうが!」
斥候は後頭部を掻きながら、自分でも意味が分からないという顔で答えた。 「それが……ホンヴァーシャの公式発表では、『都市防衛軍の英勇なる奮闘により、侵略者を退け民を救った』と」 「ただ、それだけしか語られていないのです……」




