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【第二章:深淵(アビス)(ㄧ)】

(――老友ともよ……この泥沼のような日々で……俺は一体、何になり下がっちまったんだろうな?)


 


(――あのお馴染みの連中が攻め込んできてから、どれくらい経った? 数日か? 数週間か? ……まぁ、どっちでもいいか)


 


 そよ風に吹かれながら。 オールドマンは墓石の前に座り込んでいた。 梢が風に揺れ、ザワザワと音を立てる。 彼はただ静かに、決して応えることのない墓標を見つめ続けていた――。


 


親玉ボス! ボ、ボス……!」


 


 背後からの唐突な声に、オールドマンはようやく我に返った。 上半身を捻る。 視線の先では、騎鳥から飛び降りた騎兵が、息を切らして駆け寄ってくる。 だが、オールドマンと墓石の前に立つと、彼は何かを言い淀んだ。


 


 部下の躊躇いを見抜き、オールドマンは淡々と沈黙を破る。 「邪魔なんかしてねぇよ。言え」


 


 騎兵の顔色が悪くなる。彼は沈痛な面持ちで即答した。 「奇妙な異変が起きています……! 兵士たちは現在、総員フル戦闘態勢に移行しました。ボス、至急司令部へ向かってください!」


 


 立ち上がりかけたオールドマンが状況を呑み込むより早く。 遠方から、轟音ごうおんが響き渡った。


 


 音のした方角を振り向いた瞬間――彼の表情が完全に凍りつく。 次の瞬間、彼は騎兵に向かって怒鳴りつけた。


 


「人を集めろ! 俺の家だ! 早く行け!」


 


 自らの騎鳥に飛び乗る。 手綱を強く引き、騎兵とは別の方向へ。 オールドマンは自宅を目指し、猛然と駆け出した。


 


 見慣れた、しかし既に無惨に崩れ落ちた我が家。 周囲の安全など構うものか。 オールドマンは騎鳥から飛び降りるなり、まだ燻る残骸の前へ縋り付いた。 半狂乱になりながら、瓦礫を素手で掻き分ける。


 


「妻よ……息子、娘! 頼む、返事をしてくれ!」


 


 遅れて駆けつけた騎兵たちも、その惨状を見て慌てて救助に加わる。 総出で黒焦げの倒木を退かしていく。 ――その時、オールドマンがふと息を呑んだ。


 


 指輪をはめた一本の腕。 それが、冷たく彼の手の前に現れたのだ。


 


 オールドマンは狂ったように周囲の残骸を放り投げた。 やがて――娘と妻の、直視に堪えない無惨な姿が、彼の網膜を完全に焼き尽くした。


 


「ボス! 見つけました! 長男さんです、まだ生きてます!」


 


 悲しみに暮れるいとまも与えられず。 報告を聞いたオールドマンは、這うようにして騎兵の元へ駆け寄る。 昏睡状態の息子を見下ろし、彼は震える唇から、絞り出すように声を漏らした。


 


「は、早く……こいつを運んで……」


 


 だが、息子が瓦礫の中から引きずり出された瞬間。 その原型を留めないほどにねじ曲がった両脚が、オールドマンの目に痛烈に突き刺さる。


 


 呆然と立ち尽くす。 しかし即座に底知れぬ悲痛を噛み殺し、騎兵たちへ向かって吠えた。


 


「こいつを治療院へ連れて行け! 費用いくらかかっても構わねぇ! 絶対に生かせ!」


 


 肩で激しく息をしながら。 オールドマンの鋭い眼光が、最初に凶報をもたらした騎兵を射抜く。


 


「お前は……俺と司令部に来い。一体何が起きてるのか、全部吐かせてやる!」


 


 それぞれ騎鳥に跨り、司令部へと疾走する。 道中。街は家族を連れて逃げ惑う民衆で溢れ返っていた。 そんな人波に逆らうように、重い面持ちの都市防衛歩兵たちが隊列を組んで行軍している。


 


 この狂気じみた光景は、オールドマンの記憶にある穏やかな日常の風景と、あまりにも残酷な対比を描いていた――。


 


 司令部の正門。 飛び込むようにして中へ入るオールドマンと騎兵。 本来なら厳粛であるはずの廊下は、すでに足の踏み場もないほど荒れ果てていた。


 


 通りかかった兵士の襟首を掴み、問いただす。 「状況を報告しろ! 他の指揮官どもはどこだ!」


 


 軍外套コートを羽織ったオールドマンを見て、兵士は慌てて敬礼し、震える声で答えた。


 


「し、指揮官殿! 海岸に、見たこともない化け物の大群が……! 奴ら、我が軍の封鎖線を突破しました! 現在、総力で侵攻を食い止めていますが……」 「他の指揮官たちは全員、官邸の方へ集結を……」


 


(――こんな時に、揃いも揃って官邸に引きこもってやがるのか……)


 


 最悪の事態を悟ったオールドマンは、即座に兵士へ命じた。 「残っている全兵士を招集しろ。俺が指揮を執る」


 


 さらに背後の騎兵へと振り返る。 「お前は伝令だ。船を手配して、民衆をホーリー・グロリア・キュリアへ避難させろ。残る兵は俺の指示を待て。走れ!」


 


「了解!」 二人の兵士は声を揃え、それぞれの任務へと駆けていった。


 


 二人の背中を見送ると、オールドマンは近くにいた別の兵士を捕まえる。 「お前、俺を前線へ案内しろ。一体どんなツラした化け物か、拝んでやろうじゃねぇか……」


 


 案内され、騎鳥を駆って北東の防衛線へと辿り着く。 そこは完全な混沌カオスだった。


 


 都市防衛軍が交戦している相手――それは、紫色の輪郭を持った『人型の何か』。 その時。空から紫色の火球が降り注ぎ、防衛軍の陣形のど真ん中へ無慈悲に叩き込まれた。


 


 オールドマンが目を凝らす。 遠方で横一列に並ぶ、エルフの輪郭を持った紫の影。奴らの手には、次なる火球が圧縮されている。 さらにその横からは、オークの輪郭を持った巨影の群れが飛び出してきた。 重兵器を軽々と掲げ、死など恐れぬ様子で防衛軍へと突撃チャージを仕掛けてくる。


 


(――人間? ハイエルフ? それにハイランドオークまで? 何故だ……!?)


 


 湧き上がる疑念を頭の片隅に押しやり、海岸から戦線までの距離を目測する。 傍らの騎鳥に乗る兵士へ叫んだ。


 


「軍港へ飛べ! 直ちに我が軍の旗艦を出撃させ、北東海岸へ急行しろ。沿岸から艦砲射撃で吹き飛ばせ!」


 


 手綱を激しく打ち据え、自らも前線へと躍り出る。 軍刀サーベルを抜き放ち、天高く掲げて吠えた。


 


「全軍聞け! 迎撃しつつ後退しろ! 弓兵は最後列へ下がり、矢を番えて待機だ!」


 


 オールドマンの指揮の下、防衛軍は少しずつ戦線を下げていく。 弓兵を側面に回し、十字砲火で牽制する。 だが――期待していた海岸線からは、一向に味方の砲撃が届かない。


 


 焦りを感じ始めた矢先、遠方からの悲痛な叫び声が彼の耳を打った。 馬ならぬ騎鳥を疾駆させてきた兵士が、オールドマンの横に滑り込む。


 


「し、指揮官殿! 大変です……! 旗艦が……旗艦が、国王陛下と他の指揮官たちを乗せて、艦隊ごと宗主国へ逃亡しました……っ!」


 


「あのクソ野郎どもがッ!」 手綱と軍刀を握り潰さんばかりに力を込め、吐き捨てる。 「……現在、港に残っている戦艦はあるか?」


 


「停泊している駆逐艦が数隻と、巡洋艦が一隻だけです……」


 


 苦渋に満ちた顔で、血みどろになって後退する兵士たちを見渡す。 そして、背後に広がる都市へと視線を向けた。


 


「それを出せ。駆逐艦一隻と巡洋艦を即刻出航させろ。残りの船は平民の収容に回し、ホーリー・グロリア・キュリアへ送り届けろ」


 


「ハッ、了解しました!」


 


 騎鳥を駆って走り去る兵士の背中を見送る。 都市との間を隔てる深い森を見つめながら、オールドマンは静かに思考を巡らせた。


 


(――老友ともよ……世界って奴は、俺たちに随分と悪趣味な冗談を仕掛けてきやがる……)


 


 傍らに立つ防衛軍の隊長へ視線を移す。 「工房へ人を走らせろ。台車に載せた『艦載弩砲』を、街の境界線に配備するんだ」


 


「弓兵は森の両翼へ退かせ、伏兵として潜伏させろ。海上の戦艦からの援護射撃を待つ」 「突破口から雪崩れ込んでくる敵を、内外から挟撃してすり潰す。その後、騎兵で残敵を掃討し、前線を奪還するぞ……」


 


 戦況と共に、無情に時間が過ぎていく。 沖合に到着した二隻の軍艦。艦長はオールドマンの指示通り、島の外側を迂回しながら内陸へ向けて艦砲射撃アウトレンジを開始した。


 


 高密度の弾幕に対し、敵は即座に散開戦術へと切り替える。 だが、海からは未だ無尽蔵にバケモノどもが上陸を続けていた。 死闘は、そのまま翌日へと持ち越される――。

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