第5話
千尋は唇を震わせながら恭子に尋ねた。
「三上さんはどこにいるんです」
恭子は千尋を見るとティーカップをテーブルに置いて薄笑いを浮かべた。
「知らないわ。警察にもきちんとお話ししましたけど、三上は私が香会で外出していた日に出て行ったの。忘れもしないわ。大雨が降った翌日で満開だった桜がほとんど散っていたの」
「嘘よ。嘘」
千尋は顔を引きつらせて大きく頭を振った。
「嘘?」
「あなたは何か隠してる」
「隠しているのはあなたのお母様じゃないのかしら? 刑事さんに聞きました。あなたはその頃、お友達の別荘に2泊3日で行ってていなかったのでしょう。だったら、あなたが知らないだけで本当は三上と会ったのかもしれませんわ。私と離婚しないと知って理性を失ってしまったのかも」
「違う!」
千尋は顔を赤くしてテーブルを両手で叩いた。弾みでティーカップがガチャンと音を立てる。
恭子は眉間に皺を寄せた。
「乱暴だこと」
恭子はジッと千尋を見つめるとため息をついた。
「だったら、家中探したらいかが」
「いいんですか」
苛立つ千尋を見て、恭子はうなずいて微笑んだ。
「どうぞ。お気の済むまで。ご案内しましょうか?」
千尋の顔が悔しそうに歪む。
恭子は横目でチラッと千尋の顔を見てから残っている紅茶を飲み干した。
千尋はうつむくと太腿に置いた両手を再びギュッと握った。
「あの日……三上さんが約束通り来なかった日から、母はずっと悲しんでました。しばらくして、警察がきて連れて行かれて……ようやく警察から解放されて家に戻っても毎日泣いてばかり。ご飯も食べなくなって持病が悪化したんです……それで、とうとう……」
恭子の頭の中に、稽古の帰り道で初子が苦しそうに胸を押さえてうずくまっていた情景が浮かんできた。
あの女は金に困っていて朝から晩まで働いていると稽古仲間から噂を聞いていただけに無理がたたったんだとその時は思い、背中をさすってあげたのを覚えている。
それで警察に話したのだ。
一裕にはしつこいストーカーのような女がいて近々決着をつけるといっていたと。
最初は恭子も疑われていたが、アリバイを立証すると嫌疑は初子に移った。
恭子は千尋を見つめた。どことなく母親の面影が残っている。
「三上さん、母がつき合った男の人の中で一番善い人だったから、うちに来なくなってあたしもすごくショックで」
恭子は驚いて「えッ?」と口に出しそうになった。
千尋の言葉の意味がわかりかけると襟足がざわついてスーッと冷たくなった。
「三上はあなたの父親でしょう?」
「違います。あたしが三上さんと初めて会ったのは私が12歳の時ですから」
「でも、一裕が、いえ、三上が父親の可能性もあるでしょう」
「いいえ。ありません」
恭子の問いに千尋ははっきりとした口調でいった。
「母が亡くなって伯母の家に引き取られた時、伯母が養育費欲しさにDNA鑑定したんです。大分で造り酒屋を営んでいる人が父でした」
恭子の頭が一瞬で真っ白になった。「まさか……」と呟くと左の指先で口を覆った。
指を口から離してしまったら、叫んでしまいそうだった。
必死に堪えたが、抑え込むほどに、胃の奥がせり上がってきた。
うつむく千尋の目から涙が零れ、太腿に置いた手にいくつも落ちる。
「血がつながってるとか、関係ないです。私は、母と三上さんと過ごした楽しかった日々が忘れられないんです」
千尋の言葉が胸の奥に隠した古傷をえぐり、恭子は小さく息を呑んだ。
「三上さんが、夢に出てくるんです。痩せ細って悲しい眼をしてズルズルと地面を這っているんです。あたし、何にもできなくて。だから早く、見つけてあげたいんです」
「夢……」
恭子も見る夢だった。
よりによって嫌いな女の娘にまで一裕は同じ夢をみせるなんてと、腹が立った。
だがここまできて、取り乱してはいけないと心の中で叱咤してから大きく深呼吸した。
「帰ってちょうだい」
思ったより大きな声が出て恭子自身が驚いた。
千尋も驚いて涙に濡れている顔を上げる。
「今度来るときは警察といらっしゃい。つまらない真似をしないで手順をちゃんと踏まえて」
千尋は黙ったまま、なかなか立ち上がろうとしなかった。
長い沈黙のあと、前歯で下唇を噛んでようやく立ち上がり、持参した鞄を手に持って重い足取りで部屋を出た。
恭子はそのあとをついて歩き、玄関の明かりを点けると応接間のドアの前で靴を履く千尋をぼんやり見ていた。
千尋は身体を重そうに動かして玄関の扉をゆっくりと引くと、恭子を見ることなく黙って出て行った。
千尋を見送った恭子は、サンダルも履かずにパッと三和土に下りて鍵をかけた。
そして、駆けるように仏壇のある4畳半の和室に入って襖を閉め、小さな窓のカーテンを引いた。
真っ暗だった。
目が暗闇に慣れるまで身動きせず、深呼吸を静かに繰り返した。
初子の子供が一裕の子でないと知ってひどく動揺していた。
目が慣れるとゆっくりと仏壇の前に立った。
引き出しから蝋燭とマッチを取り出して火を点ける。
ゆらゆらと揺れる火を見つめ、仏壇の中の一裕を見た。
あの日、家を出ようとした一裕は言った。
「けじめをつけたい。彼女と子供と3人で温かい家庭をつくりたいんだ」
その言葉を聞いた瞬間、恭子は一裕に与えられた屈辱を思い出した。
――初子との密会を知って子供を作ろうと一裕に求めた夜。
――「2人のままでいいよ」と一裕はいい、恭子に背を向けて眠ってしまった。
――恭子はトイレに駆け込み、声を殺して嗚咽した。
あの夜の記憶が蘇った途端、全身の血が一気に頭に駆け上がった。
気付けば、玄関に活けていた小ぶりの花器を掴み取って、一裕に花や剣山を投げつけていた。
一裕は、「止めろ」と小声で言って怯んだ。
その隙に恭子は掴んでいた花器で一裕の頭を力いっぱい殴った。
血しぶきが上がり、恭子の顔や着物にも飛び散ったが、恭子は殴るのを止めなかった
一裕が三和土の上で動かなくなって、恭子は事の大きさに初めて気づいた。
ヒィッと小さく叫んで座り込み、救急車を呼ぼうと壁に手を掛けて立とうとするが足が震えて立てない。
しかたなく電話機まで這っていき、やっとの思いで立ち上がって受話器を持つが、気が変わった。
やっと自分だけの一裕になると気づいた。
それからはあっという間だった。
シーツに一裕を包んで引きずり、4畳半の和室に運んだ。
崩れた頭に帽子を被せ、顔に広がった血を綺麗に拭いて白装束に着替えさせてから、添い寝した。
真夜中になって恭子は起き上がり、畳を上げて床下を開け、穴を掘り始めた。
庭いじりのためのステンレス製のショベルが役に立った。
それでも女一人では難儀で、表層はやすやすとショベルが入ったが、その後は水分が含んだ土は重く、土が刃の面にべったり残った。
一裕を埋めるのに十分な深さへ至るまで、夜が明けるまでかかった。
恭子は掘った穴に稽古で使った古い香炉灰を敷いた。
そして、その上に一裕を寝かせた。
土を被せようとショベルを持つが一裕の顔を見て、恭子の手が止まった。
恭子は稽古に使っている部屋から90センチはある香木を抱えてきた。
姑から受け継いだ今では希少な香木で同じものを二度と買うことはできないが、一裕のためと思えば惜しくなかった。
恭子は仰向けに寝た一裕の胸に香木を置き、腕に挟んだ。
そしてそっと手を合わせた。
「さようなら、あなた」
恭子はそう言うと香炉灰を一裕の顔や身体が見えなくなるまで撒き、その上に土を被せた。
仏壇の蝋燭の火が揺れる中、恭子は一裕が埋められている畳の上でまるで添い寝をしているかのように横たわった。
一裕の顔を思い出した。笑うと目尻に皺を寄せ、優しく微笑んだ顔を。
恭子は、一裕の顔をそっと撫でるように畳をやさしく撫でた。
「自分の子でもないのに初子さんを選ぶなんて。あなたは心の底から初子さんが好きだったのね。できればもう一度、あなたを殺したいわ」
恭子はそう呟くと、まるで一裕の背中を抱くようにし、あるはずもない温もりにそっと身を預けた。
外は雨になっていた。
家の周辺の木々がザワザワと騒ぎ立て、地が鳴った。
恭子は、畳の下で香を纏った一裕の匂いをふいに感じた。
だが、その香りは直ぐに泥臭さへと変わる。
生暖かい腐葉土の甘さを帯びた臭いが混じり、時間がひと呼吸ぶん、ぴたりと止まった。
その瞬間、家を揺さぶる衝撃と共に窓から土石流が流れ込んだ。
山が崩れる轟音は役所で設置しているサイレンさえ掻き消す。
家や地面を削る破砕音が連なって押し寄せ、恭子の意識は香しい土に包まれて途切れた。
翌日、寺の墓石と3件の家が崖崩れで押し流される被害に遭ったことがわかった。
三上家もその一つだった。
土砂に押し流され、恭子が身元不明の白骨死体と共に抱き合って死んでいるのが見つかった。(了)




