第4話
翌日の日が落ちた頃、遠山千尋はこの間と同じ薄いピンクの制服を着て詫びる様子も笑顔もなく、無表情で現れた。
恭子は普段着のまま千尋を迎え、この間と同じ部屋に通した。
向かい合ってソファに座り、しばらく沈黙が続いた。
千尋の太腿の上に乗せた手はかすかに震えていた。
口火を切ったのは千尋だった。
「ご準備がまだのようですが、マッサージはいかがいたしますか」
恭子は千尋を見つめた。
「知り合いって、いつの知り合いかしら」
恭子の問いに千尋は答えず、黙って恭子を見つめている。
「あのドラマの話は、うちの主人の失踪のことを知っててわざと仰ったのね」
「そうです」
千尋は口を小さく動かし、ボソッと返事をした。
「夫とはどんな関係なの? まさか、あのドラマのように愛人だというのかしら」
恭子は不機嫌な顔で千尋を見つめた。
千尋は恭子から視線を逸らすとうつむいて下唇を前歯で噛んだ。
そして恭子をグッと睨みつけた。
「ご主人が……三上さんが失踪した日は、中学3年の春休みでした」
恭子は千尋の挑むような顔つきに怯み、眉間に皺を寄せた。
だが、それは一瞬で、今度は恭子が千尋を睨み返した。
「最近は小学生でも援助交際する時代ですもの」
「三上さんは買春するような人じゃありません。そんなこともわからないんですか」
恭子はハッとして千尋から目を逸らし、急に立ち上がって暗くなった窓の傍に寄った。
妻のくせに夫の三上一裕のことを何もわかっていないと千尋に責められた気がして、居ても立っても居られなかった。
恭子は和紙を使った2つのフロアライトに明かりを灯すと、2間ほどある窓のカーテンを引き始めた。
いつもはレースのカーテンとその手前の遮光カーテンを一緒に引くのに、今日は別々に引いた。
わざとレールの大きな音が立つように引き、湧いてきた不安を掻き消そうとした。
だが、不安は増すばかりで、恭子はカーテンを引き終わってもそこから離れられなかった。
千尋はソファに座ったまま、窓の傍に佇む恭子を見つめている。
千尋は太腿の上に置いた手をギュッと握ってから口を開いた。
「三上さん、うちに……母の日向初子のところに来るはずだったんです」
聞きたくない名前だった。恭子が香の稽古に通っていた頃の兄弟子だった。
「三上は私が外出している間に出て行ったんです。知ってたら引き留めてましたわ」
「……最近、見つけたんです。母の本棚に三上さんからの手紙が挟んでありました。何通もありましたけど、最後の手紙には母に会いに来る日時が書かれてました」
恭子は目を瞑った。
一裕が離婚届を渡してきた光景が、脳裏に浮かび、息を吸うのが一瞬、苦しくなる。
「母はずっと死ぬまで三上さんが来るのを待っていたんです。なぜ来なかったのか、何かご存じありませんか」
「私が知りたいくらいですわ。そんな手紙があったのなら、そちらが何かご存じだったんじゃありませんか」
恭子が千尋を見ると、千尋の目は恭子を刺すように見つめていた。
「何も知らないから、あなたに近づいたんです」
「日向を遠山と名前まで変えて?」
「遠山は引き取られた先の名字です。偽名を使ったわけじゃない」
千尋の顔がヒクつき、恭子を睨む。
恭子は苛立った顔をして千尋の前に座った。
「私はね、遠山さん。私が高校を卒業する頃には三上とあなたのお母様が恋愛関係にあったのに気づいてましたわ。稽古場でみんな噂してましたもの。でもね、三上の両親があなたのお母様を嫁にはしたがらなかった。だって、三上より年上だったし、水商売をしていることに薄々気づいてましたから。それで2人は引き裂かれ、彼は私と結婚した」
千尋は腑に落ちないような顔つきで恭子を見て反論しようとした。
「でも、そうだとしても三上さんが愛してたのは」
「お紅茶でも入れるわ」
恭子は千尋の言葉を遮るようにいって、立ち上がった。
目の前に置いたティーカップからアールグレイの香りが漂ってきた。
恭子はティーカップを手にし、千尋にも勧めたが、千尋はうつむいたままで紅茶には見向きもしなかった。
「あなたのお母様はね、ずうずうしい人で私と三上が結婚した後もお稽古にいらしたの。義母が止めるまでね」
恭子はそういうと紅茶を口にしながら、千尋を盗み見た。
千尋はうつむいたまま顔を赤らめて震えている。
そんな千尋を見て恭子は気持ちが高ぶってきた。
長年嫌いだった女の子供というだけでいたぶりたい衝動に駆られていた。
「あなたのお母様が稽古に来なくなって、夫の帰りも遅くなった。初めは仕事だという夫の言葉を信じてましたけど、次第にスーツから白檀が匂うようになって、気づきましたのよ。でも、私は何もいわなかった」
千尋は赤ら顔のままキッと恭子を睨んだ。
「黙認したのは三上さんを愛していなかったからじゃないんですか」
恭子はあからさまに不愉快な顔をして千尋を見つめた。
そしてフッと笑ったかと思うと、すぐさま寂しそうな顔をした。
「愛してました。でも、三上は他にも女が数人いましたから、黙ってた。彼が幸せならそれでいいってそう思ってましたの」
本心ではなかった。それに女が数人いたなんて嘘だった。
千尋の一裕への敬慕を傷つけたかった。
12年程前、一裕は接待麻雀と称して外泊が増えた。
そんなある日、恭子は嫌な予感がして一裕が会社から出てくるのを待ち伏せて後をつけたことがあった。
電車を乗り継いで独りでファミレスに入る一裕が日向初子とランドセルを背負った女の子と待ち合わせているのを見て呆然とした。
3人は食事した後、手をつないで楽しそうに小さなアパートへ帰っていった。
今まで見たことのない一裕の笑顔がそこにあった。
恭子はタクシーに飛び乗って家に帰り、香を焚いた。
いつもは気持ちをほぐしてくれる香もその時ばかりは効き目がなく、一裕の笑顔が脳裏にちらつき嫉妬に駆られた。
結婚する前からあの女とずっと続いていたのだ、他の女より本気なのだと思ったら悔しくて、香炉を畳に叩き付けていた。
それからも一裕が帰ってこない日は何度もアパートを見に行った。
3人が揃ってご飯を食べている影が窓に映る度にアパートのゴミ集積所にあった新聞紙に火を点けようとした。
だが、思い直した。
一裕との子供を作れば一裕は初子を忘れるに違いないと。




