第3話
恭子は千尋に話しかけた。
「ローズパールさんは研修がとても厳しいんですってね」
「はい。入社して3ヶ月間は朝から晩まで研修です。技術研修はもちろんのこと皮膚の理論やマナーの勉強までみっちりあるんですよ。特に技術研修は、誰が施術してもお客様に満足いただくという理念から標準化を目指して行ってまして、使用する化粧品の量もグラム単位でいわれて大変厳しいものとなっております」
「あなたはこのお仕事どのくらい?」
千尋は両手のひらを恭子の口角から耳の下に向かって滑らせるように動かす。
「6ヶ月くらいです。それまではエステの会社におりました」
「エステティシャンだったの」
「高校を卒業してからですから、5年間は。資格もいくつか持ってます」
「それは心強いわね。お母様にもやってあげたりなさるの?」
「いいえ、母は亡くなりました」
千尋の声が少し小さくなった。
「まあ、ごめんなさい。余計なことをいってしまって」
「いいんです。もうだいぶ経つのでそろそろふっきれなきゃいけないんですけど、まだ、母のモノが捨てられなくて」
千尋の声は辛そうだった。
「そういうものかもしれないわね」
恭子は姑の持っていた香箱や香木、舅の趣味であった骨董などを思い返してしみじみと応えた。
「奥様もそういう経験がございますか?」
「あるわよ。ここにあるものはみんなそう。ほとんどがお嫁に来る前からのもので、亡くなった義母と義父のもの」
「でも奥様のところとうちでは全然違いますから。貴重なものなんて何にもなくて母が残したのは本だけ。狭いアパートに本がどっさりあるんですよ」
「本ならあなたも読めるじゃない。うちは私には手が出せないものも多くて」
「確かに。最近もったいないと思うようになって母の本を読み始めてるんです。それでこの光景、この間、読んだ小説にそっくりで。驚いちゃいますね。そんなことがあるなんて。マッサージ、デコルテに入りますね」
「え? ええ」
千尋はマッサージチェアの傾きを調節すると恭子のバスローブを肩から外し、首のあたりから胸元に渡る部分のマッサージを始めた。
「奥様、頸筋、結構、凝ってますわ」
「そう? ね、それより、さっきの小説と同じ光景って?」
「ああ」
千尋はクスッと小さく笑って照れくさそうにいった。
「松本清張の『駅路』です。テレビドラマにもなったみたいで。奥様、ご存知ですか?」
「あまりテレビはみないから。どんなお話しなの」
「定年退職をした夫が行方不明の中、化粧品の訪問販売で若い女性が妻のところへやってくるんです。それで妻に化粧品を使ってマッサージするんですが、実はその女性がご主人の愛人で、ご主人と待ち合わせしたのにご主人が来ないから自分を裏切ったのか確認にきて……」
恭子は千尋の説明でそのドラマを視たのを思い出した。
そして同時に夫の一裕が出て行く時のことも思い出した。
8年前の、庭の桜の木が満開の夜だった。
旅行鞄を持った一裕は無言で玄関に立って恭子を見た。
恭子は一裕に渡された離婚届を手にして、一裕を睨んだ。
「私、離婚なんてしませんわよ」
静まり返った家に、恭子の掠れた声が残る。
一裕は「すまない」と言うとうつむいた。
その言葉がまるで合図のように降り出した雨は屋根や窓を叩き付け始めた。
「その方と会うことだって、ずっと許してきたんですよ。なのに今更……」
青ざめた恭子が爪を噛みながら一裕を見る。
「けじめをつけたいんだ。彼女と」
一裕がうつむいたまま呟くように他にも何かいっていたが、残りの言葉は雨音に掻き消されてよく聞こえなかった。
ところどころ一裕の声が聞こえてくる度に怒りの波が次から次へと押し寄せて恭子の鼓動は高鳴り、呼吸が荒くなる。
最後に一裕が申し訳なさそうに恭子を一瞥して背を向けると、恭子は全身の血液が一気に頭めがけて集まってきた気がした。
「奥様、超音波ケアに移らせていただいてもよろしいでしょうか」
恭子は千尋の声で現実に引き戻された。
「え? ええ。お願い」
恭子がそう言うと千尋はスチームを片づけ、持参した鞄から超音波機器を取り出した。
超音波機器の下地ジェルをつけた千尋の指が昔のことを思い出して火照った顔に心地良かった。
千尋の施術が一通り終わった後、恭子は千尋から渡された手鏡を見た。
瞼のたるみがなくなって目が大きくなったように見える。
下がっていた口角も上がり、肌も本来の白さを取り戻したようで恭子は満足した。
それから1ヶ月経ち、恭子は再びローズパール化粧品へ電話した。
もともと予定していた3日後の香会に先代の宗家が急遽参加すると聞き、少しでも綺麗にしていきたいという欲が出たのがきっかけだった。
営業所に電話を掛けると、最初に出たのは岩橋聡子だった。
「奥様、先日は失礼いたしました。遠山はいかがだったでしょうか?」
「突然知らない方がきて驚きましたけど、あなたと変わらない腕前で満足しましたわ」
恭子がそう言うと、一瞬、間が空いた。
「知らない方、と仰いますと?」
聡子が怪訝そうな声で聞いてくる。
恭子が訳がわからず黙っていると、聡子が恐る恐る尋ねる。
「遠山が奥様のことを古くからの知り合いだからというのでこの間は替わったのですが」
「知り合い?」
恭子は独り言のように呟くと咄嗟に現在から過去までの弟子の顔を思い浮かべた。
1、2回で来なくなった人は既に記憶には無かったが、それ以外の人も近所の人も出入りの香の業者にも思い当たる者はいなかった。
恭子の沈黙に聡子は焦った様子で明日は自分が伺うと言ったが、恭子はやんわり断った。
「遠山さんに明日は17時に来るようにいってください」
千尋がうちに来た理由を知りたかった。
恭子はゆっくりと受話器を置いた。




