第2話
先ほど、裕は香道のお稽古の時間と勘違いしていたが、月に1回、化粧品会社の美容部員がくる時間だった。
「あら、もうそんな時間?」と呟くと、恭子は足早に玄関へ向かい、インターフォンの画面から来訪者を覗いて、眉根を寄せた。
「こんにちは。ローズパール化粧品です」
画面に映る若い女は恭子を見てにこやかに挨拶をした。
恭子は訝しげに薄いピンク色の制服を着た20代前半くらいの若い女に尋ねた。
「岩橋さんはどうしたの?」
若い女は首を傾げる。
「連絡、きておりませんか?」
「連絡? 何の」
「岩橋はお母様の具合が悪くて、急遽、病院へ参りまして」
「まあ……お母様が?」
恭子は半年前に岩橋聡子が母親が認知症かもしれないとこぼしていたのを思い出した。
「それで私が代理で参りました」
若い女は微笑んで恭子を見る。手には聡子がいつも持参しているピンクの大きなボックス型の鞄を持っていた。
怪しい人物ではなさそうだったが、恭子は見ず知らずの若い女に聡子の代わりをしてもらう気にはなれなかった。
「そうなの……でも、私はいつも岩橋さんだから別の機会にしようかしら」
すると若い女は生真面目な顔で懇願した。
「奥様、私、まだ未熟者ですが、その分料金も半額とさせていただきますので、本日は岩橋の代理を務めさせていただけないでしょうか」
恭子は若い女の必死な眼差しに気の毒になって思わずうなずいた。
先ほど、裕がいた応接間へ通すと若い女は名刺を取り出して改めて恭子に頭を下げた。
「改めまして、ローズパール化粧品ビューティーアドバイザーの遠山千尋と申します。本日は、よろしくお願い申し上げます」
恭子が千尋にソファへ座るように促すと、千尋は大きく息を吸い込んだ。
「お香の香り大好きなんです。この家にはかなり染み込んでいるみたいですね」
「義母の代からずっとですもの」
実家が裕福だった姑は物心つくころから香に馴染み、師範となってからは熱心に後進を指導していた。
舅と見合い結婚してすぐに雪月会を起こし、弟子を募って自宅の和室で稽古を始めた。
その弟子の1人だった恭子の祖母の勧めで恭子は16歳の頃からここへ出入りし、筋が良いといわれて師匠である姑に可愛がられた。
姑のお気に入りの長男の一裕もとても親切で貴重な香の本を貸してくれたり、稽古で遅くなったときは車で家まで送ってくれたりした。
2人っきりの車の中では、高校生の恭子より10歳も年上で既に会社勤めをしていた一裕はなんでも知っていて頼もしく、話がうまくて恭子をよく笑わせた。
恭子が女子大を卒業する頃になると一裕の嫁にと舅や姑に請われた。
良い縁談だと両親が言う度に戸惑ったように振舞ったが、恭子にとって一裕との結婚は実は願ってもないことだった。
結婚すると、恭子は姑の後押しで他の者が妬むほど早く師範となり、姑と二人三脚で香道雪月会を盛り上げた。
そして恭子が36歳だった14年前、癌に犯された舅が亡くなると、3ヶ月後に舅を追うようにして姑が心不全で息を引き取った。
それ以来、恭子は独りで香道雪月会を切り盛りしている。
「お紅茶でよろしいかしら」と恭子が千尋に問いかけると、千尋は大きな鞄からファイルを取り出しながら「あ、お構いなく」と言って、申し訳なさそうな顔をした。
「いいのよ。いつも岩橋さんにも同じことをしてるんだから」
「では、遠慮なく」
そう言いながらも、千尋から申し訳なさそうな顔は消えなかった。
恭子は紅茶をテーブルに置くと千尋の向かいのソファに座った。
「奥様、まずはお肌のチェックを先にさせていただきます」
恭子はうなずいて千尋を見つめた。
千尋は少し茶色がかった髪を小さくまとめていて顔は白く、肌はゆで卵のようにつるつるしていた。
まつ毛は長くて綺麗にカールされているが、今時の若い女性みたいにエクステンションやつけまつげをつけている様子はない。
化粧も薄化粧のようだ。そのせいか、年齢よりもしっかりしているように見える。
恭子も20代の頃は濃いメイクをする友人たちを尻目に日焼けだけを気遣って薄化粧を心がけた。
それがまた自分の中では誇らしかった。
だが、40歳を近くなって毛穴の黒ずみやシミ、皺が気になるようになり、お稽古に来る弟子に勧められるままローズパール化粧品の岩橋聡子を家に招き入れたのである。
ローズパール化粧品は訪問販売の高級ブランドで、購入者には少額でホームエステのサービスがあった。
いつしか恭子はローズパール化粧品でもVIP扱いとなり、数年前からローズパール化粧品のホームページや冊子に香道師範・三上恭子の名前と顔が掲載されるようになった。
それにもかかわらず、今日の件で聡子から一言も連絡がない恭子は面白くなかった。
恭子は千尋の肌の質問に答え終わると立ち上がり、千尋に手伝ってもらって部屋の隅に置いた組子細工の間仕切りを畳んだ。
現れたのは電動マッサージチェアとサイドテーブルに置かれたスチーマーだった。
この電動マッサージチェアは聡子のマッサージを受けやすいようにと、一裕の保険金が入って真っ先に購入したもので、スチーマーはローズパール化粧品の謝恩会のビンゴで当たったものだった。
恭子は電動マッサージチェアに座るとリモコンで背もたれの角度を調節し、椅子にもたれかかった。
それと同時に、千尋は「失礼します」と言い、マスクで口を覆った。
千尋は気が利いていて傍に置いていた膝掛けを恭子にそっとかけ、恭子が目を閉じると持参したホットアイマスクを目の上にそっと置いた。
次に千尋は、スチームが顔に程良くいきわたるようにサイドテーブルの高さを調整し、それが終わると恭子の頭の下にタオルを敷いて手際よくターバンのように巻いた。
「奥様、岩橋の対応履歴に沿って施術させていただきます。まずは角質を取って、それから栄養分を補給しますね。毛穴の開きや黒ずみを改善させましょう」
「ええ、お願い」
「はい。あ、最後に蒸しタオルを作りますので電子レンジをお借りできますか?」
「どうぞ」
「ありがとうございます。ではまずは化粧水をおつけしますね。ちょっと冷たいですよ」
恭子がうなずくと、化粧水が染みたパフが恭子の顔を撫でた。少しだけバラの香りがした。
「奥様、角質取りを始めますね」
恭子が再びうなずくと千尋は恭子の顔にクリームを塗り始めた。顔をマッサージするようにゆっくり指先を動かしている。
力加減がちょうど良いせいで少しずつ緊張がほぐれ、誰もいないプールの水の上で仰向けに浮いているような錯覚に陥り始めた。
不意に何度も眠気が襲ってくる。
しかし、初対面の千尋の前で寝るには抵抗があった。
理由のない懸念が胸の底に触れ、恭子は無意識に呼吸を浅くした。




