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香(かぐわ)しいあなた  作者: 結翔 〇


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1/5

第1話

十数年前の某月刊文芸誌の講座に参加した時の短編です。

気に入っている作品だったため、改稿して公開しました。

--------------

外部サイトでも掲載を行っております。

   ◇


 また、この夢か……。

 年に2、3回見る夢。今年は初めてだった。

 年が明けて、もう半年以上も経っているから、今年は見ないかもしれないと秘かに期待していたのに。

 暗闇の中に私が独り。

 懐中電灯を持ち、足元を照らしながらゆっくり歩いている。

 真っ暗だから右にも左にも行けずにただただ真っ直ぐに歩き続ける。

 湿った土の不快な感触が素足に伝わる。

 気持ち悪いが、歩かなければ終わらない。

 しばらく歩くと鼻孔が香りで刺激される。少しツーンときて甘くて上品な香り。

 伽羅だろうか? それとも真那伽か……いや、いろいろな香りが混じっている。

 私はその香りに導かれるように前へ進む。

 すると今度は、スルズルと身体を引きずるような音が聞こえてくる。

 まるで蛇が這いずるような音。

 ズルズル、ズルズルという音がゆっくり、ゆっくり、私に近づいてくる。

 恐怖で懐中電灯を持つ手が震え、先を灯した明かりが揺れる。

 ああ、あの人が現れた……。

 ふっくらとしていた顔は頬がこけ、ふさふさだった黒髪は殆どなくなっている。

 私に向かって伸ばす手や腕は痩せ細ってしまい、まるで餓鬼のようだ。

 立ちすくんだ私をあの人は窪んだ眼でジッと見つめ、薄い紫色の唇を動かしている。

 だけど、私はいつも恐怖で身動きできず、涙を零すだけ。

 そして目を覚ますのだ。


   ◇


 毎週届く区報によると、東京都内には急傾斜地崩壊危険箇所が約9400箇所あり、そのうちの約1割が23区にあるという。

 『坂のまち』として有名なこの高級住宅地も、その危険地域に含まれていた。

 この長い坂の上の高台に江戸初期から続く寺があった。

 三上恭子みかみ きょうこの家はその寺の隣にある。

 寺と恭子の家の背面には山を切り崩した跡が残り、10年程前に区が崩壊防止工事を施した。

 だが、最近の雨量は尋常じゃないせいか、雨の日には切り崩した山の背面の黒土が小さく鳴いているような気がして、住職も近所の人たちもどこか落ち着かない――恭子もその一人だった。

 塀と植栽に囲まれた古びた門の格子戸の横に『香道雪月会』と『三上』が並んだ表札を掲げている。

 玄関までのアプローチは石畳になっていて、両脇の木々は手入れが行き渡っていた。

 アプローチを抜けると古い平屋が見えてくる。

 近所の中で最も古い家ではあるが、当時、事業が成功して隆盛を極めた一裕(かずひろ)の父である舅が宮大工を呼んでこの家を造らせたせいで、家は思いのほか丈夫であった。

 中は、義父母や一裕が気を遣って、恭子が24歳で嫁ぐ際に使いやすいようにとリフォームを進め、外見よりは近代化されていた。

 そんな家だったから恭子は独りになっても不自由を感じずに日々過ごしていて、家を改築するなど考えたこともなかった。

 だが、舅が起こした工務店を引き継いだ一裕の弟の(ゆたか)は違った。

 半年ぶりにやってきて、庭を見渡せる応接間のソファに座った裕は、庭に植えた木々が赤や黄色に色づき始めたのに見ようともせず、ポケットから煙草を取り出すと灰皿を探した。

「裕さん、悪いけど、煙草の煙は困るわ」

 恭子は申し訳なさそうな顔で微笑み、頭を振る。

「ああ、そうか。兄さんも吸わなかったな」

 裕はそう呟くと不満そうに煙草をテーブルに置き、珈琲を飲み干した。

「裕さん、私、改築なんて厭だわ。そんな余裕もないし、今のままで充分だもの」

「余裕って……義姉さん、兄さんの失踪宣告で保険金が去年入ったでしょう」

 恭子は吐息を漏らした。

「そうだけど。今のこの時代、年金だってどれだけ貰えるかわかりませんもの。女が独りで生きていくんですから、あのお金はいざという時まで使いたくないのよ」

「でも、義姉さんだって(こう)のお稽古で収入を得ているじゃないですか」

「うちは、一裕さんがあんなことになってから、お弟子さんもかなり減ってしまって……お恥ずかしい話ですけど、無駄遣いしないでギリギリの中で毎月やってますのよ」

 裕は苛立った様子で、1本の煙草を箱から出したりしまったりを繰り返した。

「なら、ここを売ってマンションを買いませんか? 大手さんからいい物件を回してもらえますよ」

「そんなことしたら、ここを大事にしていたお義父様やお義母様に顔向けできないじゃありませんか」

「でもね、義姉さん。義姉さんのところは子供もいないし、義姉さんが亡くなったら」

 恭子は裕と会う度に繰り返されるこの押問答にうんざりしていた。

 裕の工務店も物価高や人手不足には勝てず、身近なところからでも売り上げを出そうと必死であるのはわかっているが、子供の話まで持ち出されては余計鬱陶しい。

「裕さん、申し訳ないのだけど、そろそろ」

 恭子はそういうと棚の上にあるガラスの置時計をチラリと見た。時計は午後2時30分を少し過ぎていた。

「ああ、3時からお稽古ですか」

 裕はそういうとソファから立ち上がった。応接間のドアを開けるとすぐ玄関だった。靴を履く裕の後ろ姿は一裕にそっくりで、恭子は思わず視線を逸らした。

 裕は玄関の三和土に立ってドアノブに手を置いた途端、ひょいと振り返って「じゃあ、また来るから、よく考えといて」と、念を押して帰っていった。

 玄関のドアが閉まり、立てつけの悪い門の格子戸がギィーッと鳴るのを聞いて、恭子はようやく息を継いだ。そして、そそくさと応接間に戻り、珈琲カップを手早く片づけてテーブルを綺麗に拭いた後、クッキーやチョコレートを盛った小さな籠をキッチンから持ってきて置いた。

 そのあと、恭子は奥の寝室に入ろうとして向かいの4畳半の和室にある仏壇に目を留めた。仏壇には裕が持ってきた舟和の芋羊羹が供えられ、その奥に一裕の写真があった。

 恭子は冷たい顔をして4畳半の部屋の前に立つと両手でピシッと襖を閉めた。

 寝室に入るとすぐに着物を脱いで下着一枚のままバスローブを羽織り、恭子はすぐに洗面所へ向かった。引き出しから取り出したヘアバンドを巻いて化粧を落とし、化粧水だけをつけて鏡をジッと見つめた。童顔といわれていた顔も50歳を迎えてまじまじと見てみると小じわやシミが目立つ。

「思い切ってレーザーでも受けようかしら」

恭子はそう呟くとため息をついた。

 その時、玄関のチャイムが鳴った。

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