母のホットケーキ
休日午前十時。
フライパンに落とした生地が、ふつふつと泡を生む。台所に広がる甘い香りが、古いアパートの一室をゆっくりと満たしていく。
遥は、その匂いを深く吸い込んでから、ため息を吐いた。
――ホットケーキなんて、何年ぶりだろう。
母がよく作ってくれた。日曜の朝は、必ずホットケーキ。焼き加減なんて気にしない大雑把な母だったけれど、生地をひっくり返す瞬間だけは妙に真剣だった。
その手元を見るのが、遥は好きだった。
そしてその味は、世界一美味しかった。
ホットケーキはいつのまにか思い出の中の食べ物になった。
今日、遥が粉を買い、牛乳を量り、卵を割ったのは、三回忌が近いからだった。
供えるわけでもない。ただ、久しぶりに母の味を思い出してみたくなった。
目の前のホットケーキは不格好だ。
焼き色はまばら。形もいびつ。
味も、どうしてもあの味に、近づきすらしない。
「……ぜんぜん、違う」
玄関のチャイムが鳴った。
インターホン越しに聞こえたのは、弟の陽斗の声だった。
「姉ちゃん、来たよ。……って、なんかいい匂いしない?」
ぎこちなく招き入れると、陽斗は部屋に入るなり目を丸くした。
「姉ちゃんが料理してる! パンケーキだ!」
口を尖らせ、遥がツッコむ。
「ホットケーキよ」
「どうしたの? 滅多に料理なんか……あ、母さんのこと思い出して?」
遥は声もなく、ただ力なくうなずいた。
「食べていい?」
「美味しくないと思うよ」
「母さんのやつも、めちゃくちゃ形悪かったじゃん。味は好きだったけど」
陽斗がフォークで一口すくい、もぐもぐと噛む。
そして、あっさり言った。
「うまいじゃん!」
「本当?」
「うん。母さんのとは違う。でも姉ちゃんの味って感じ」
褒められたのか、よくわからなかったが、遥が今日初めての笑顔になる。
「母さんがさ、よく言ってたよな」
「何を?」
「『料理は人の心が出るんだよ』って」
「あぁ……」
「俺、よくわからなかったけど、なんかわかった気がする。これ、たぶん……ちょっと寂しい味だ」
遥は笑って、目を伏せた。
寂しい味。
ただ、それを言い当てられたのが、実の弟だったことが、嬉しかった。
「じゃあ、そっちのは陽斗が焼いてよ。明るい味にして」
「よーし、任せろ!」
陽斗が焼くと、こんがり焼けすぎて、大雑把だけど確かに明るい味になった。
遥は、気づく。
母のホットケーキも、けっして特別美味しかったわけではなかったのだと──
母と一緒に食べる時間が、好きだったのだと──




