受領印のない辞表
第1話 受領印のない辞表
三浦汐は辞表を受け取った瞬間のことを、現場の乾いた光景のまま忘れられなかった。書類は薄紙で、表題は端的だった。大きな縦書きで「辞表」とあり、理由欄には小さく「個人的都合」とだけ書かれていた。文字は整っていた。感情的な乱れも、慌てた走り書きもなかった。言葉を削ぎ落すことで、決意の輪郭はむしろはっきりしていた。
彼女が辞表を差し出したのは、昼下がりのことである。総務課長の机の上にはいつもの時計があり、針は十二時四十五分を示していた。岩淵課長は書類を受け取り、白い封筒を開くようにその紙を見つめた。彼の顔は役所的な落ち着きに覆われていた。言葉は短かった。「確認します。手続きを進めます」。そして彼は汐の肩に軽く触れることも、引き留めることもせず、書類を自席の引き出しにしまった。汐はその動作に、やや救われたような気分を覚えた。受領印が押され、書類が正式に処理される。それが社会的な分岐点であることを、彼女は知っていた。受領印は、紙の小さな円形の内に、所属の承認、組織の術式が濃縮されていた。
ところが一週間後、彼女は総務から電話を受けたとき、その受領印が存在しないという告知を受ける。河野という中堅の担当者が、事務的な声で言った。「三浦さん、頂いた辞表の受領履歴が見当たりません」と。汐は一瞬、聞き違いかと思った。岩淵課長は書類を受け取ったのではないか。受領印を押すという行為は、目に見える完了であるはずだ。だが河野の説明は冷たかった。「印が押されていないと、形式的には受理されていないことになります。システム上の処理が済んでいないのです」
その言葉の響きが、汐の中でゆっくりと別種の恐れを生じさせた。会社という器は、人を囲い込み、履歴という規格に収める。それが正しく記録されないということは、単に事務手続きの不備に止まらない。人が法的にも社会的にも「存在する」ための座標が、そこに刻まれている。受領印とは、個人を外部へ放つための公認された儀式であり、逆にその印が欠落することは、存在の片面を社会の帳簿から剥ぎ取られることに等しい。
汐は職場での立場を見直した。入社して十年、彼女は目立たぬ働き手であった。日常的な業務を淡々とこなし、家庭内の事情を抱えながらも欠勤は少なかった。だが彼女には数字や評価表の行間に記載されない時間がある。母の病、夜の節約、誰にも言えない療養のための通院。それらは人の生活を形作るが、社内のデータベースには載らない。汐はそのことをいつしか深く意識し、「記録にあること」と「生きていること」の乖離に苦しんでいた。辞表を出す行為は、そうした乖離を終わらせるための最後の手続きであったはずだ。
だが調査が進むにつれ、彼女は自分の存在の輪郭が次第に薄れていくのを感じた。社内の人事ファイルを確認しようとすると、社員番号が一覧から消えている。勤怠や評価、過去に交わした契約書のコピー、休職の証明書に至るまで、不自然に欠落しているものが増えていった。人事部は始め「システムのメンテナンス」と説明し、しばしば「一時的な不具合」を理由に資料の所在を曖昧にした。しかしその「一時的」は延々と続いた。ある夜、汐は古い机の引き出しを手繰り、五年前に休職していた時期のメモや診断書の写しを探した。そこにあるはずの黄色い封筒は見当たらなかった。代わりに、同じ引き出しには別人の控えが整然と差し込まれていた。
河野だけが、汐の執拗な問いかけに対して何かをぽつりと吐いた。「受領印が消えることは、まれにあります」彼の声は最初、いつもの事務的な調子だったが、言葉を続けるうちに崩れた。「特定の案件のときに限って、やり方が変わるんです。誰でも知っているわけじゃない。内部で、こういう処理をしてしまえば……問題が表に出にくくなるという」彼はそれ以上は言わなかったが、その目の奥には疲れと躊躇が見えた。総務という部門が持つ本来の機能は、会社の秩序を保つことだ。しかしその秩序は同時に、規則の網を都合よく織り替えることで、現実を曲げる力も持っている。汐は河野の言葉の断片から、会社内に沈殿している制度的な慣行を察した。
彼女は夜を割いて、過去の稟議書や契約書の写し、出張命令の控えをめくった。書類の端には手書きの署名や小さな朱の印が残っている。だがどの印章にも、汐の現在を証す痕跡はない。一枚のコピーの隅に、薄く年月の消えかけた押印が見つかった。日付は五年前。そこに押された印は明らかに「受領済み」を示していた。押印の印面は均一ではなく、経年による擦れがあった。それは誰かが過去に行った正式な手続きを示すはずのものだった。だがそれは、汐が先日提出した辞表には存在しなかった。過去帳簿の中では、三浦汐という名は既に一度、消失しているかのように扱われていた。
もっと奇妙なのは、過去のファイルの中に別の三浦汐の存在が現れたことだ。生年月日、旧住所、勤続年数まで一致する。だが社員番号が微妙に違い、住所の番地には細かな違和があった。まるで同一の個体が、別のデータとして登録されているように見える。誰かが意図的に「帳簿上の三浦汐」を二つに割り、片方を過去へ封じ、もう一方を現在のリストから削除してしまったのか。思考は容易に陰謀へ飛ぶが、現実はより複雑である。業務上の合理化、あるいは不祥事に関わる証言者を消すための、制度的な手立て。いずれにせよ、受領印の有無は単なる形式の差ではなく、個人の社会的存在を左右する分水嶺となっていた。
汐は職場の同僚たちの顔を思い浮かべた。彼らは穏やかで、日々のルーティンに満足しているように見えた。だが顔の陰には大小の思惑がある。岩淵課長はいつも淡々としている。彼は長年、組織の管理局面を渡り歩いてきた人物であり、その表情は変わらない。だが彼の机の引き出しから出てきたあるメモが、汐の疑念を刺激した。それは五年前の辞表に付された控えの一部で、そこには岩淵の鉛筆書きで小さな注記があった。「処理済み。ただし要確認」と。だがその「処理済み」と書かれた紙と、現在汐が手にする資料の齟齬は埋まらない。誰が、どのタイミングで、どのような理由で、記録の線を引き替えたのか。その糸を手繰ると、会社の奥深くに閉ざされた操作室が存在するかのように思えた。
ある晩、汐はふと自分の部屋にある古い写真を取り出していた。写真は休日に撮られたもので、彼女と母とが写っている。母は今はもう年老いていて、病院のベッドにいる。しかし写真の中の母は健康の象徴だった。汐はその写真を見つめながら、自分の人生が会社の帳簿に還元されるとき、なにが失われるのかを考えた。個人の記憶、家族の歴史、誰かの面影。それらは数値や日付ではない。だが制度は、数値と日付の上でしか動かない。故に存在の証明は書類の隅に押された小さな朱印に降り注がれる。汐はその事実に背筋が寒くなった。
彼女の問いは社内を越え、外部へも向かい始めた。社労士に相談したところ、彼は平然とした面持ちで言った。「手続きが形式的に終わっていないなら、雇用は継続しています。賃金や社会保険の問題が生じる可能性がありますね」。だがそれは法律の枠組みでの話であり、帳簿の書き換えという事実が絡むと事情は変わる。情報が改ざんされれば、法的手段も正確な時点に戻らなければ効果を失う。汐は自分が会社の法的保護の外縁に押し出されつつあることを感じた。もし帳簿上で彼女の存在が否定されれば、親の介護も、病院の手配も、金融機関への申請も、すべて紙の世界と現実世界の断絶に翻弄されるだろう。
ある夜遅く、彼女は総務の資料室に忍び込んだ。これは冒険めいた行為ではなく、静かな確信のための作業だった。蛍光灯は半ば消え、資料棚の端が長い陰を落としている。汐は手袋をはめ、静かに引き出しを開いた。五年前のファイルをめくると、そこには先の押印のあるコピーと、無印の辞表とが並んでいた。無印の方は日付が新しく、汐自身が先日提出したものに酷似している。だがコピーの束にはさらに注記があり、「処理済み——登録抹消」と書かれたスタンプが押されている。汐はその文字を読み取りながら、急速に実感を得た。過去に提出された辞表の受領印は存在し、それは確かに「処理済み」と記録されている。だが現在の彼女の辞表は、その流れの外に漂っていた。
そのとき、背後で足音がした。汐は顔を上げると、河野が立っていた。彼は薄い笑みを浮かべていたが、その目には疲労が刻まれていた。「見つけたか」と彼は言った。汐は問いただした。「なぜ、私の記録がこんなふうになっているのですか」河野はしばらく沈黙した後、低い声で答えた。「すべては便利だからだよ。整理する必要がある。誰かが目障りになれば、帳簿の枝を一つ切っておしまい。それが会社というものの冷たい論理なんだ」その言葉は残酷だったが、それはひとつの実務的な真実でもあった。組織は人間の記憶を再分類し、都合のよい形で保存する術を持っている。汐はその術に、自分が既に取り込まれていることを知り、震えた。
河野の手が資料の束をざっと撫でる。彼は最後に囁いた。「気にしない方がいい。面倒事に首を突っ込むと、あなたはさらに剥がされる」。だが汐の内側には、むしろ怒りが湧き上がっていた。受領印の一つがなければ、自分の過去の一部が消える。その消失は、家族の記録や法的な権利の消滅を意味するかもしれない。彼女は冷静に、しかし確固たる決意で言った。「私は、これを明らかにします」
そこから汐の歩みは変わった。昼は事務をこなし、夜は資料とデータベースの中を彷徨った。社員の名刺を一枚ずつ照合し、出張記録の控えを洗い直す。五年前に同僚として働いていた者たちの行方をたどると、いくつかの共通点が浮かび上がった。消えた者たちの多くは、不祥事の近傍にいたり、問題の端緒を知る立場にあったりした。だが確定的な証言は得られない。人々は口をつぐみ、あるいは率直に「関わらない方が無難だ」と助言するだけだった。汐は孤独だった。しかしその孤独は、彼女をより鋭敏にした。人の沈黙が何を意味するのか、その質感を理解する力が培われていった。
汐は受領印という円形の痕跡が持つ威力を、ますます重く実感した。それは紙のうえの小さな点に過ぎない。しかし点は線を繋ぎ、線は人の足跡を示す。受領印が押されているか否かで、社会は個人の存在を判定する。帳簿上の切断は、現実世界の断絶につながる。彼女は今、その断絶を埋めるために、紙とデータの迷路の中で必死に灯を探している。蛍光灯の下、書類の端を指でなぞりながら、彼女は気づいた。会社の中の制度とは、ある意味で冷徹な墓標を作る仕組みなのだと。受領印のない辞表は、その墓標から顔をのぞかせた白い紙切れに過ぎない。しかしその紙切れは、やがて人の人生の輪郭を消してしまう可能性を秘めている。
夜明け前の電車に揺られ、汐は帰路についた。窓外の空は灰色で、駅の灯りが点滅している。彼女は鞄の中にある書類を確かめ、手元のスマートフォンにメモを打ち込んだ。受領印の所在、五年前の押印の写し、河野の証言、岩淵の注記。ひとつずつ線を結んでいけば、全体像が見えてくるはずだ。だが見えてくるのは、何よりもまず問いである。誰が、何のために、私を帳簿から剥がそうとしたのか。
駅の階段を上ると、朝の冷気が肌を刺した。ビル群の向こうに、もう日が昇ろうとしている。汐は息を吐き、決意を新たにした。受領印のない辞表は単なる事務の瑕疵ではない。そこには、人間の存在を裁断する制度の匂いがした。彼女はその匂いの出所を突き止め、受領印の意味するところを暴かなければならない。そう思ったとき、胸の奥に薄く熱い感覚が芽生えた。怒りとも希望ともつかぬそれは、彼女の足を先へ進めさせた。会社の帳簿という迷宮の中で、三浦汐の物語はまだ始まったばかりであった。
第2話 削除された履歴
受領印がない辞表の問題が一つの暗い糸を引き出し、三浦汐はそれをたぐり寄せる。糸は社内のデータベースだけでなく、人の記憶、封印された書類、そして誰かの怯えた沈黙へと伸びていった。第1話で見えた輪郭は、今やいくつもの影を伴ってうごめいている。汐は自分の存在を帳簿に取り戻すために、会社の過去へと深く潜ることを決めた。
最初に当たったのは、過去五年の退職者名簿だった。人事部の扉は閉ざされているが、名簿の一覧は公開記録としては扱われている。汐はひとつずつ名を追い、消えた者たちのプロフィールを拾い上げた。だが彼らの多くは対面を拒み、あるいは連絡先を変えていた。電話に出る者は少なく、出たとしても短い挨拶で会話を切られた。年金や保険の問題に発展するおそれを恐れ、余計な関与を避けようとする者が大半であった。組織の論理は、外部へ逃げる者をさらに孤立させる。
それでも、いくつかの手がかりは残った。共通点は、消えた者たちがある種の「周辺」にいたことである。彼らは部門を股にかけて事務処理の中枢を覗く立場にあったり、問題発生時に調査に呼ばれたり、あるいは社外の取引先の帳簿を扱ったことがある。言い換えれば、不祥事の露呈を予期させる情報の接点だ。汐はこれを見て、単なる偶然ではないと確信した。帳簿上の抹消は、不都合な証言者や足跡を消すために使われている可能性がある。
汐はある日、五年前に退職したとされる男、斎藤(旧姓・青木)に会うことができた。彼は小さな都市の信用金庫で窓口業務に従事しており、顔に年輪が刻まれていた。会話はぎこちなく始まったが、やがて彼は声をひそめて語り始めた。斎藤は元々、汐の会社で経理の補助をしていた人物で、ある年度決算の際に原本と照合する作業をしていたという。「奇妙なことがあった。ある取引の証憑が一枚だけ、どうしても合わなかったんだ。上からは『気にするな』と言われた」。その言葉は、汐の耳に鋭く刺さった。どこの組織にも、見て見ぬふりをする権力がある。だが見過ごしがちな一枚の紙は、事件を隠すための重要な存在であり得る。
斎藤は声を詰まらせ、さらに続けた。「それが問題になってから、面倒なことが起きた。私の辞表はいつの間にか処理されて、データからも消えていた。あの日、ある役員が俺を呼んで、『形式の問題だから手を打った』と言った。だがその後、何人かが—次々に—姿を消していったんだ」彼の語る“姿を消す”は、退職後の住所が変えられた、連絡がつかない、というような柔らかい表現だったが、汐はそこに確かな陰を見た。帳簿の書き換えは単なる数字の操作を超え、人の所在の改変をもたらしていた。
「誰がやったのか」という問いに斎藤は首を振った。「表向きには人事の手続きだ。だが実際には外部の業務委託先も絡んでいるようだった。名刺の裏に小さな印が押されている業者がいた。彼らは資料のデジタル化やアーカイブを扱っていた。便利だと言えばそれまでだけど、便利さは都合よく使われるものだよ」斎藤の言葉は、汐の頭の中に新たな地図を描かせた。もし資料の移送やデジタル化が外注に出されていれば、誰がどのファイルを『見つけられない』ようにしたか、痕跡が濃淡を帯びてくる。
汐は外注業者の名を掴み、直接コンタクトを取った。名刺にあった会社は、社内で「アーカイブ業者」として長年契約を結んでいた。応対した若い担当者は当初、社内での業務に触れることを拒んだが、幾度かの面談を重ねるうちに口を開いた。「うちの仕事は、紙をスキャンしてデータベース化することだけだ。だが依頼の際には、どのファイルを優先するかという指示が来る。その優先順位はいつもクライアントの言い分だ。ある時期から、『旧い不具合ファイルを整理してくれ』という依頼が増えた。つまり、ある種の“整理”を依頼されるわけだ」言葉は控えめだったが、意味は明快だった。外注化によって、ファイルの所在はより追いにくくなり、外部の手を借りることで内部の関与を薄めることが可能になる。
汐は次に、社内の古いサーバールームに目を付けた。日常では立ち入れないその空間には、過去データのバックアップテープが積まれていた。通常、企業のデータ保管は複数の場所で冗長化されるが、人為的に削除されたデータは完全に消えることは難しい。テープの中に残る旧いログやバックアップは、過去の“痕跡”を示すことがある。汐は業務時間外に許可を取り、IT部門の若手と協力して古いバックアップを解析させた。作業は地道で、専門的な語句が飛び交う。ログは膨大で、意味を持つ箇所を探すのは宝探しのような作業だった。
その作業の過程で、IT部の佐伯という男が無意識に見せた一枚の画面が、決定的なヒントを与えた。過去のあるデータベースのスナップショットに、「抹消指示:ケースA—証憑番号00049—優先度高」という文字列が残っていたのだ。汐はその瞬間、背筋が寒くなった。システムログに残された“抹消指示”という語は、人為的な改変の痕跡を示す。しかも優先度が高い——それは誰かの指示が本来の運用手順を超えて出されたことを意味する。誰がその命令を出したのか。ログはユーザーIDを残していたが、それは管理者権限で操作された“root”に似せた偽装アカウントであった。内部の誰かが、外部の業者に圧力をかけるために偽装を使った可能性が出てきた。
汐は次に、過去に消えたとされる社員の家族へ接触しようと考えた。家族は記録の消滅による日常の混乱を最も実感しているはずだ。ある女性は、夫がある日突然に職場を去ったとき、年金や保険の切替えがうまくいかず、生活が一時的に破綻したと話した。「行政の窓口では、まず身分を証明する書類を出してほしいと言われる。でも会社の名簿に夫の名前がないと、手続きが止まるの。全部が紙と数字で動いているのはわかっていたけど、まさか人生が帳簿に左右されるなんて思わなかった」彼女の声には疲労の色が濃かった。汐はその疲労を自分の怒りへと変えていった。
同時に、社内での沈黙の理由も明らかになってきた。口を閉ざす者は単に利害を恐れているだけではなかった。多くの者は、すでに遠回しに脅され、経済的に縛られていた。ある元社員は、会社からの和解金のような形で「黙秘」と引き換えに一時金を受け取っていたと言う。金額は生活を支えるには十分であり、結果として多くはあえて闘う道を選ばなかった。企業は制度と金の両方で、記録の改変を容易にする道具を手にしていた。
汐は次第に、問題の中心にあるのは単なる「便利な整理」ではなく、ある時期の大きな不祥事であると確信した。その不祥事は、表向きには「取引の不一致」や「会計上の過誤」といった言葉で覆い隠されていたが、その実体は業績操作や粉飾、そして要所を抑える第三者との裏取引にまで及んでいた。汐は古い会議記録、決算報告のアーカイブ、監査報告書の断片を掘り起こし、点と点を結んでいった。文書の端にある小さな朱印、手書きの注記、決算の数値の微妙なずれ。すべてが繋がる時、ある幹部の名前が浮かび上がった。名前は表には滅多に出ないが、実務部門では知られた“影の実力者”であった。その人物が指示を出し、人事と外注業者を介して証拠の痕跡を薄める役割を果たしている可能性が高かった。
汐はついに、古い会議室で交わされた一枚の議事録に行き当たった。そこには、企業内の“整理計画”とも呼べる類の文言があり、「問題のある痕跡は迅速に整理し、外部に発覚する前に内部処理を完了すること」という趣旨が記されていた。議事録には決裁印があり、日付も署名もある。だがその署名は何者かの筆跡に似せて機械的に印刷されており、真正性を問えば疑義が出る余地があった。汐はその議事録を握り締め、冷たい怒りにかられた。組織は議事録すら道具にし、真実を覆い隠す術を整えていた。
ここまで来ると、汐は自分が単独で暴ける限界を知っていた。だが同時に、仲間も見えてきた。斎藤のように小さな抵抗を続ける者、外注業者内で良心の欠片を見せた若手、家族の窮状を訴える被害者たち。汐は彼らを結び合わせるための小さな集まりを計画した。公の場ではなく、古い喫茶店の二階の一室。そこに集ったのは、三人の元社員と一人の外注業者、そして汐だけだった。窓の外には通りの雑踏があり、室内のランプは黄ばんだ光を落とす。言葉は控えめに、だが確実に事実を織りなした。
会合では、誰がどのファイルを扱っていたか、どの決算で不自然な注記を見たか、そして誰がどのようにして“抹消指示”の正体を偽装していたかが順に共有された。やがて議論は一つの結論へ向かった。根は深く、かつ巧妙に隠されているが、外見的には単なる「整理」という言葉で済ませられてきた。組織は制度を悪用し、記録の消失を政策として扱っている。しかもそれは個別の不正を越えて、組織維持の技術として機能していた。
集まりが終わる頃、窓から差す夕陽は都会のビルの谷間に沈みかけていた。汐は紙の議事録と、ITログに残された“抹消指示”のプリントを握っていた。誰かを糾弾することは容易ではない。力は巨大であり、静かだ。だが静寂の中にも確かな抵抗が芽生えていた。汐は心に決めた。次は、組織の中心に近い存在――岩淵課長の上司、つまり経営の一端を担う役員へと迫る必要がある。そこに、抹消指示がどのように始まり、誰の意志で実行されたのかの輪郭が見えるはずだ。
しかし同時に、汐は恐れも抱えていた。組織の沈黙は必ずしも経営だけの陰謀ではない。多くの社員が日常の安全と生活を秤にかけ、沈黙を選んだ結果がここにある。告発は個人を守るための行為であると同時に、その個人を孤立させる行為でもある。汐はその矛盾を胸に、覚悟を固めた。受領印のない辞表が示していたのは、単なる事務的瑕疵ではなく、制度が人の人生を切断するために用いる仕掛けである。次に明かされるべきは、誰がそのスイッチに手をかけたのか、そしてその動機は何かである。
夜の闇が深まると同時に、汐の決意は研ぎ澄まされていった。彼女はまた一歩、会社の心臓部へと歩を進める。その歩みは静かだが、止まることはない。帳簿からこぼれ落ちた人々の記憶を拾い上げるために、彼女はもう後戻りしない。第2話はここで閉じるが、消された履歴のその先にあるものは、まだ紙の間に沈んだままだ。汐はその沈黙を解きほぐし、受領印の意味を暴くために、次の扉を叩くことを心に決めていた。
第3話 二重の社員番号
三浦汐は、自分の存在がどこまで記録に残っているかを確かめるため、再び社内ネットワークにアクセスした。
夜のオフィスは冷えきっており、蛍光灯の明滅がわずかな電子音を吸い込んでいく。
監視カメラの死角を計算して、彼女は端末を立ち上げた。ログインは総務の共通アカウント。
昼間、河野が「バックアップを確認するならこのIDが便利ですよ」と言い残していた。
あれは冗談ではなかった。彼もまた、この組織の静かな異常に気づいていたのだろう。
データベースを開くと、社員番号の一覧が表示された。
数字の羅列はどれも等しく匿名的で、人間の個性を削ぎ落とす。
汐はそこに自分の社員番号――「M-2487」――を打ち込んだ。
反応はあった。が、表示されたデータは空欄が多く、入社日すら欠けている。
まるで雛形のまま、保存されただけの“空白の履歴”だった。
奇妙なことに、検索結果の下部に「類似登録あり」と表示された。
システムが自動的に重複登録を検知したときに出る警告だ。
何気なくそのリンクをクリックすると、新たなウィンドウが開き、もう一つの社員データが現れた。
——社員番号:M-1785
——氏名:三浦汐
——生年月日:1988年7月22日
——所属:営業管理部(退職済)
——退職日:2019年3月31日
汐は息を呑んだ。生年月日も、前職も、住所も、すべて一致している。
だが、退職日は五年前。彼女がまだ在職していた時期だ。
つまり、会社のシステム上には“二人の三浦汐”が存在していることになる。
ひとりは2019年に退職したことになっており、もうひとりは現在も在籍中だが、履歴が空白。
彼女は椅子から立ち上がった。足元の床がわずかに軋む。
もしこれが単なるシステムエラーなら、誰かが修正するはずだ。
しかし、削除ではなく「二重登録」にしていることに、意図を感じた。
どちらを“本物”とするか、その裁量を会社側が握っている。
——受領印のない辞表。
あの欠損は、単なる事務の怠慢ではない。
受領印が押されない辞表は、「存在しなかった辞表」になる。
そして、その辞表を出した“本人”も、帳簿上では存在しなかったことにされる。
汐は一瞬、鳥肌が立った。
誰かが自分の存在を、二重に管理している。
しかも、一方の“汐”は五年前にすでに退職済みとして抹消されている。
もう一方は、履歴の空白のまま残されている。
彼女は現実には生き、働いてきたが、帳簿上は既に過去に“死んでいた”のだ。
その夜、汐は自宅へ戻る途中、コンビニの明かりの下で立ち止まった。
窓ガラスに映る自分の顔が、どこか他人のように見えた。
「もし、私はあの時、病気で休職したまま退職していたとしたら?」
彼女の記憶の中で、五年前の春がゆっくりと蘇る。
当時、原因不明の体調不良で数か月休職していた。
医師からは「一度職場を離れて静養を」と言われたが、復帰を強く希望して戻った。
その復職手続きの際、総務から受け取った書類に、妙な違和感があった。
「こちらに再雇用の確認印をいただけますか」
そう言われて押した印が、辞表と同じ形式の“受領印欄”の隣にあった。
あの時の書類は、実は「再雇用届」ではなく、「再登録申請」だったのではないか?
つまり、彼女の“退職”と“再雇用”は別々の社員番号として処理されていた——。
汐は、心の奥底でかすかに笑った。
笑いは、恐怖と怒りの境界にある最後の防衛本能だ。
「再雇用」という言葉はやさしく聞こえる。だが、実態は“別人として登録し直す”制度にすぎない。
企業が“人”ではなく“番号”を管理する以上、同じ肉体でも別の存在にできる。
そして「旧い自分」は、退職済みのファイルに封じ込められる。
翌朝、汐は河野を呼び出した。
喫茶店の隅、コーヒーの香りがうすく漂う。
彼は気まずそうに周囲を見回したあと、小声で言った。
「……あんた、もう気づいたんだな。二つの社員番号のこと」
「ええ。どういうことなの、河野さん」
「俺も正直、全部は知らない。ただ、そういう処理は、たまにある」
「“たまに”って?」
「会社は“表に出せない退職”をどう扱うか、昔から問題を抱えてるんだ。
不祥事に関わった社員、メンタルで長期離脱した社員、内部通報をした社員……。
表向きに『退職』と書くと、監査で履歴が残る。
だから、一度“内部的に退職処理”をして、別の番号で再登録する。
再登録すれば、給与も勤怠も全部リセットできる。
過去のトラブルは“別人”の履歴に閉じ込められるんだ」
汐は震える指でカップを握った。
「じゃあ、私の“もう一人”も……?」
「そう。あんたは、五年前に“内部的に退職扱い”になったんだ。
ただ、復帰したから再登録された。でも、その最初の辞表は、正式には受理済み。
——受領印が押されてた」
その一言で、空気が止まった。
受領印。
それは、存在の証明でもあり、抹消の印でもある。
「押されていた」のに、「消された」。
何のために? 誰のために?
河野の顔に、曖昧な苦笑が浮かんだ。
「……上層部の指示だ。経営監査の時期に、社員の勤続年数の整合を取るため、
一部のデータを“調整”した。あんたは、その対象になっただけだ」
対象、という言葉の冷たさに、汐は身を引いた。
まるで人間ではなく、実験動物のような響き。
彼は続けた。
「俺だって、最初は抵抗したよ。だが、やらなきゃ自分が消える。
そういう会社なんだ。——“消す”ことで秩序を保ってる」
彼の視線が、どこか遠くの一点を見ていた。
過去に同じように、誰かを“処理”したのだろう。
それが罪悪感として彼の背に重くのしかかっている。
汐は立ち上がった。
「その秩序の中で、人の人生を帳簿で決めるんですね」
その声は、自分でも驚くほど静かだった。
静けさの奥に、硬質な決意が潜んでいた。
その夜、汐は家の押入れから古い封筒を取り出した。
五年前、病気休職の際に受け取った書類一式がまだ残っていた。
封を開けると、淡いクリーム色の紙に会社のロゴ。
そこに印字された「雇用契約再開届」の文字があった。
しかし、その下にはもうひとつ、小さく印字された文言がある。
——※本書類の提出をもって、旧社員登録は無効となります。
目が止まった。
“旧社員登録は無効”。
つまり、過去の自分は帳簿上、死んだことになっている。
新しい番号を与えられた“今の自分”は、かつての自分とは別人。
汐の手は震えた。
「私は、私じゃなかったのか……?」
胸の奥で、何かが崩れた。
人間が会社に人生を預けるとは、このことなのか。
勤務、給与、社会保険、健康診断——。
すべての“存在の証明”が、帳簿の中にある。
それを握るのは会社側だ。
印鑑一つで「いなかったこと」にされる脆さ。
そして、その事務処理を“制度”と呼ぶ冷酷な構造。
汐は封筒を握りしめ、窓を開けた。
冬の風が紙の端を揺らす。
夜の街の灯りは、遠い星のようにぼやけていた。
その光を見つめながら、彼女は心の中で言った。
「帳簿に名前があること、それが人間の証明だというなら、
帳簿の外に立つ私は、何者なんだろう」
その問いは、夜の闇に吸い込まれた。
汐は深呼吸をして、次に動くべき場所を決めた。ITログの痕跡は「誰が抹消命令を出したのか」を直接には示していなかったが、偽装アカウントの痕跡、外注業者への指示の履歴、そして総務や人事を通じて動いた形跡は残っている。だとすれば、物理的に「紙」のある場所を当たることは有効である。デジタルは消えても、紙はどこかに層として残る。誰かが故意に消したとしても、必ず不揃いな端切れや別のファイルに挟まれているはずだ。汐はその確信を胸に、社内の資料室へ足を運んだ。
資料室の扉は昼でも薄暗く、埃の匂いがしていた。入室ログは存在するが、夜間の許可が必要だ。汐は河野に頼み込み、名目上「バックアップの確認」として立ち会いを得た。河野は相変わらず消え入りそうな顔をしていたが、内心では彼もまたこの問題の重さを理解していたのだろう。二人は棚をめくり、古い稟議書、出勤簿、退職届の控えを探した。手作業は根気がいる。紙は黄ばんで、ホチキスの錆が文字の上に薄く痕を残している。
数時間の探索の末、汐は小さな茶封筒に包まれた一綴りを見つけた。封には消えかけた朱肉の跡があり、そこには「2019年度——個別処理ファイル」と鉛筆で書かれていた。心臓が強く脈打つ。封を切ると、慎重に折りたたまれた紙片が数枚、揃って出てきた。そのうちの一枚は、五年前の日付が入った「辞表受領書」のコピーであり、受領印とともに「処理済」という押印がくっきりと残っていた。押印の日付は2019年3月31日。受領のサインは、岩淵のもの――に見える。しかしよく見ると、サインの線に微妙な違和とリズムがある。岩淵の普段の筆跡とは微妙に異なっていた。彼が普段使う癖の線がない。だがそれ以上に、コピーの下の方に、汐のサインらしきものが見えた。文字は汐自身の筆跡に似ていたが、やや生硬で、署名の位置が微妙にずれている。まるで誰かが代筆したか、原本から写し取った痕跡のように。
汐の手が震えた。証拠はここにある。だが証拠とは同時に刃でもある。誰かを突き刺せば、反撃もある。彼女はその紙を握りしめ、静かに河野の方を見た。河野は顔を歪め、目を伏せた。「これは……」彼は言いよどみ、そのまま言葉を飲み込んだ。汐は続けた。「署名は偽造されたと、私は思う。あるいは……私の名で書類が作られた」
河野は苦笑を浮かべるように見せかけ、低く呟いた。「おそらく、特定の期日に帳尻を合わせるための“処理”だ。あの時期、会社は一部の数字を修正する必要があってな。都合の悪い証憑は『整理』という名目で片付けられたんだ」その言葉に、汐は鋭く反応した。「整理、という言葉で人を消すんですか。私の名前を、私の意思を偽造してまで?」彼女の声は突き刺すように冷たかった。
「……やり方は様々だ」河野は目を閉じて、小さく息をついた。「だが、あんたがここまで来るとは思わなかった。ここから先は、もっと上だ。部長クラスじゃない。役員の関与が濃厚だ。外注への指示も、上から来る。これを明るみに出すには――」彼は言葉を切り、天井を見上げた。「あんたは覚悟がいるよ。消される危険だってある」
その「消される」という言葉の重さは、聞けば聞くほど現実的な脅威へと変わった。汐は一瞬、後ずさりした自分を感じた。しかし同時に、怒りが熱を帯びて心の奥で燃え始めた。自分の人生を、誰かが勝手に帳簿に分割し、別名義に押し込めてしまう。その冷酷さを許すわけにはいかない。彼女は封筒の中の辞表コピーをぎゅっと握りしめた。「私は進みます」とだけ言った。河野はしばらく黙った後、重い口を開いた。「なら、少しだけ協力する。だが約束してくれ。誰にも言うな。まずは証拠を外部へ渡す。弁護士、監査機関、記者。それから、我々の間でどう動くかを決める」
汐は頷いた。協力者が一人増えたことで、彼女の行動範囲は広がる。だが同時に、監視の目も増える。河野が言っていた「外部へ渡す」という選択肢は、最も確実でありながらも危険を伴う。企業は内部の暴露を最も恐れる相手だ。汐は覚悟を固め、まずは弁護士を当たることにした。だが弁護士に行く前に、彼女はある人に会う必要があると感じていた。それは、五年前に自分が休職していた時に世話になった産業医、斉藤(※別人の名字)である。
斉藤医師は民間の産業クリニックを営んでおり、かつて汐の診断書を発行した人物だ。彼は診療録を保存しているはずであり、その診療録には汐の休職期間の記録がある。会社と医療の交差点は、本来なら個人の保護に寄与するべきものだが、汐はそこで真相の突破口を得られると考えた。もし医師の記録が示す通り、汐は復帰の手続きを経て職場に戻っているはずだ。なのに帳簿上は“退職者”として扱われた。医療と会社の記録を突き合わせれば、どこで齟齬が生じたかがより鮮明になる。
医院の待合い室は午後の光が差し込み、患者たちのざわめきが柔らかく流れていた。斉藤医師は年配だが、目は鋭く、物事の筋道を見通すような雰囲気がある。汐は名乗り、診療録の閲覧をお願いした。医師は少し考えた後、個人情報保護の観点から通常は患者の同意が必要であると説明したが、汐の事情を聞くと表情を和らげ、診療録の該当ページを示した。そこには、休職開始日、通院記録、回復状況、そして「職場復帰可否」に関する所見が詳細に記録されていた。復帰に関する指示は明確で、「段階的業務再開、労務配慮必要」と記されている。医師の署名と診断日も明確に示されていた。
汐は胸の内で何かが熱を帯びるのを感じた。医療記録は、会社の「退職済み」という記録と完全に矛盾している。もし、医師の診断に基づき復帰手続きが行われていれば、辞表の受理など意味をなさないはずだ。ではなぜ、会社は「退職」として処理したのか。汐は医師に尋ねた。「復帰手続きのために、別の書類を会社に提出しましたか?」医師は記憶を辿るように首を傾げ、「復帰に関する書類は、通常は労務と総務が取り扱います。患者さん自身に提出してもらうことが多い」と答えた。汐の思考は早く回転した。五年前、彼女が提出したはずの何らかの資料が、別の性質の書類にすり替えられたか、あるいは会社が受け取り側で別の番号に紐づけたのかもしれない。
医師はさらに付け加えた。「ただ、診療録には対応履歴として、会社側からの問い合わせの記録が残っています。時折、会社の担当者が診療所に電話をして、労務対応の確認を求めることがある。その際のメモも残っているはずです。そちらを確認してみますか」汐は驚いた。医療機関の側に、会社のやり取りの痕跡が残されている可能性がある。彼女は即座に同意し、医師は古い電話メモを引き出した。そこには確かに、2019年春にかけられた会社側の短いメモが残っていた。発信者は「総務・岩淵」である。内容は、端的だが意味深だった。「三浦の再登録について確認。旧登録はどう処理したか。人事部へ」といった文言がメモに走っている。
汐はメモを握りしめた。紙切れの一つ一つが、彼女の「消された過去」を繋ぐ糸となる。電話メモは、岩淵から何らかの指示が出ていたことを示唆する。さらに重要なのは、メモの筆跡だ。誰かが慌ただしく書いた短い走り書き。その書体は岩淵のものに似ているが、やはりどこかが違う。人は焦ると筆致が乱れる。だがこの文字は、どこか作為的に揺れているようにも見えた。誰かが、痕跡を残しつつも真相を隠すための余地を残したのか。汐はその紙を見つめながら、自分が追っているのは単なる事務の不備ではなく、意図的な設計であると確信した。
そこから汐の行動は急速に加速した。弁護士に相談を持ち掛け、外部の監査人とも接触を図る準備をする。だが動けば動くほど、相手の反応も早くなる。ある朝、出社すると、彼女の机の上に小さな付箋が一枚貼られていた。そこには「個人的な問題は私的に処理した方が良い」とだけ書かれている。署名はない。ただ、字の筆圧と角度に見覚えがあった。岩淵の字か、あるいは上層の誰かの代筆か。脅迫的な意味合いの無言の合図である。汐はその紙を握りしめ、無言で窓の外を見た。空は晴れている。だが彼女の心は晴れない。追い詰めるほどに、相手は静かに牙を研ぐだろう。
その夜、汐は再びあの封筒の中の辞表コピーを広げた。朱印、日付、署名。そこに刻まれた事実が、彼女を二つに裂いている。ひとつは現実に生きる三浦汐だ。もうひとつは、書類として「退職した三浦汐」。どちらが“本物”か。法律や社会の目は、紙を証拠として読む。だが彼女は知っている。紙だけでは語れない現実の質があることを。会社は紙を使って現実を作り替えることを学んだ。汐は静かに立ち上がり、窓を背にして言った。「私は、私であり続ける」——その言葉は、自分自身への誓いであり、次の戦いの狼煙であった。
章の終わりに、汐は決定的な証拠を一つ、まだ手にしていないことに気づいた。それは、「受領印そのもの」の出自である。誰があの朱肉を押し、誰の手元であの印が管理されていたのか。受領印の実体は、いつも机の引き出しにあるかもしれない。あるいは外注業者の保管庫に眠るかもしれない。だがその印を突き止めたとき、彼女はこの制度的な抹消の核心に手を伸ばすことになるだろう。次に扉を叩くべきは、印章管理に関わる窓口であり、そこに触れたときに初めて「誰が私を帳簿から消したのか」の名が浮かび上がるに違いない。
夜が更け、街の雑音が薄れると、汐は静かに封をした封筒を机の奥深くにしまい込んだ。外のライトが窓に反射して、封筒の角を淡く照らす。その光は何かを約束するような、あるいは告発の影を落とすような微かな予兆だった。汐は眠らずに机に向かい、次の行動計画を練った。彼女が次に動くとき、それは帳簿の内側に潜むもう一つの世界――印章管理の部門へと深入りする旅路である。そこで見つかるものが、彼女の運命をさらにねじ曲げるのか、あるいは真相の扉を開く鍵となるのか。夜の闇の中で、答えはまだ影を潜めていた。
第4話 受領印の所在
総務部の片隅、鉄製のキャビネットが無数の引き出しを抱えて並んでいる。
蛍光灯の白光が金属面に冷たく反射し、静寂に包まれたフロアは、まるで書類の墓地のようだった。
三浦汐は、河野の指示を受けて、今夜ここに立っていた。時刻は午後九時を回っている。通常勤務時間外にこの部屋へ入るには、課長職以上の許可が要る。河野が、岩淵課長の退室を確認してセキュリティキーを貸し出してくれた。
「今夜だけですよ」
そのときの河野の顔は、どこか蒼白で、やや震えていた。
「印章管理簿の棚、最下段の左端に、年度別の印影台帳があります。そこに……たぶん、答えがあるはずです」
汐は無言で頷き、厚手の手袋をはめた。埃を防ぐためでもあり、指紋を残さないためでもあった。
キャビネットの引き出しを一つずつ引くたびに、金属が軋む音が廊下に染みる。
「平成二十九年度印影管理」「令和元年度印章使用簿」——
紙の束がずっしりと重く、社の歴史の断面が圧縮されていた。
人の出入り、取引、承認、退職。
会社のすべては、ここで“押印”されることで現実になっていた。
汐は、令和元年度の印章使用簿を開いた。
「辞表受領」欄には、十数名の社員名が並び、それぞれに日付と押印者のサインが記されている。
だが——そこに、彼女の名前はなかった。
「三浦汐」という欄だけが、途中で空欄になっている。
欄外の余白には、小さく赤インクで「再登録済」と書かれていた。
心臓が高鳴る。
再登録——あの言葉だ。
その時、背後の扉が微かに鳴った。
汐は反射的に資料を閉じ、身を翻す。
廊下の向こうから、低いヒールの音が近づいてくる。
足音は迷いなくこの部屋の前で止まり、ノックもなくドアが開いた。
入ってきたのは、岩淵だった。
「——何をしているんだね、三浦君」
声は冷ややかで、しかし穏やかだった。
その“穏やかさ”こそが恐ろしい。
汐は咄嗟に口を開いた。
「……退職届の処理を確認していました。記録が不完全で」
「不完全?」
岩淵はゆっくりと室内を見回し、印章簿の棚に目を留めた。
「夜に確認とは、熱心だな。だが、そういうのは日中にやるべきだろう」
彼は無造作に近づき、机上の簿冊を一瞥した。
その瞬間、汐の心臓は冷たく締め付けられるように収縮した。
岩淵の目線は、“探していたものを既に知っている人間”のそれだった。
「再登録の件、君が気にしているようだが……」
岩淵は机の端に手を置き、静かに言葉を続けた。
「それは、経理と法務が決めた処理だ。過去の勤務実績を整合させるための技術的な措置に過ぎない。人間の“存在”とは関係ない」
「関係ない?」
汐の声が震えた。
「帳簿に載っていなければ、在籍も退職も証明できない。
会社のデータベースがそう記録している限り、私は“いなかった”ことになるんです」
岩淵は苦笑のような微笑を浮かべた。
「会社は、個人の存在を“管理”しているだけだ。帳簿上の事実と実際の存在は別の問題だよ」
「なら、なぜ辞表に押印がなかったのですか。誰が消したんですか」
一瞬、空気が凍った。
岩淵は短く息を吐き、視線を落とした。
「押印の有無など、重要ではない」
その言葉の奥に、何かを押し殺した響きがあった。
汐は確信した。この男は知っている。
彼女は一歩踏み出し、机の上に一枚のコピーを差し出した。
それは、資料室で見つけた辞表のコピー——2019年付、岩淵の署名が入ったものだ。
「これは何ですか」
岩淵は一瞥し、表情を変えずに答えた。
「古い資料だ。過去の誤処理かもしれん」
「私の署名もあります。けれど、これは私の筆跡ではありません」
「そんな昔のことを、誰が正確に覚えている?」
岩淵は淡々と言いながらも、指先がわずかに震えていた。
汐は一歩詰め寄った。
「五年前、私が休職中に“再登録”されたのは、誰の指示ですか?」
岩淵の目が一瞬だけ泳ぎ、それから冷たく笑った。
「知らないほうがいい。君がこの会社に長くいたのなら、そういうこともわかるはずだ。帳簿は、人を守るためにも書き換えられる」
「守る?」汐は怒気を押し殺した。
「それは、“誰かのための真実”でしょう。私のためではない」
岩淵は沈黙し、やがて低く呟いた。
「この印——」
そう言って、机の引き出しを開けた。
中には、数種類の社印が整然と並んでいる。
「君の辞表に押されるはずだった“受領印”は、ここにある。
押されなかったのではない。押せなかったのだ」
「どういう意味ですか」
「辞表を受け取った時点で、君は“過去の記録”上ではすでに退職者になっていた。
同じ名前の人間の書類に、二度押印はできない。だから、どちらかが削除される。
残された方が“現実”として登録される」
汐は目を見開いた。
「つまり、私が——過去の自分に消された?」
「そうなる」
岩淵は淡々と答え、印鑑のひとつを手に取った。
「この印を押した瞬間に、帳簿の世界では“在る”か“無い”かが決まる。
会社というのは、そういう仕組みだ。君は二度存在した。だから、一方が削られた」
彼の言葉は奇妙な静けさを帯びていた。
どこかに微かな哀しみが混じっていた。
汐は息を詰めた。
「なぜ、そんなことを……」
岩淵は小さく笑い、視線を印鑑に落とした。
「会社は、人を数字で管理する。
在籍記録が整合しない社員は、“監査上のリスク”だ。
だから“再登録”という名の削除を行う。
私はただ、それを形式として執行しただけだ」
「それで人を消すんですか」
「消してなどいない。ただ、帳簿上の不整合を正しただけだ」
汐は声を荒げた。
「帳簿上の不整合のために、私は存在を奪われたんです!」
沈黙。
蛍光灯のわずかな唸り音が、空気を切り裂くように響く。
やがて岩淵は、印鑑を元の位置に戻した。
「……君がこれ以上追及するなら、私は止めない。だが、忠告しておこう。
再登録の処理を指示したのは私ではない。その上だ。
それ以上は、“社内”ではなく、“制度”そのものの話になる」
「制度?」
「会社は、記録の集合体だ。記録を改ざんする力を持つのは、人事でも総務でもない。
――もっと上層の、監査法人と行政との連携部門だ」
その言葉に、汐の背筋が凍った。
「外部監査が関与している……?」
「そうだ。帳簿をクリーンに見せるために、存在しない社員を“統合”する。
“人を統合”するんだよ。
二つの履歴を一つにまとめ、欠損を消す。それが『再登録』の本質だ」
岩淵の声はもはや疲弊していた。
彼は椅子に沈み、目を閉じた。
「君の名前が使われたのは偶然だ。……あるいは、君が静かだったからだ」
「静かだった?」
「異議を唱えず、記録を疑わない社員は、“扱いやすい”。
制度にとって都合がいい人間は、最も危険な立場にいる」
汐はしばらく動けなかった。
自分の沈黙が、自分を消す手助けをしていたという現実。
記録は常に“事実”として扱われる。だがその裏に、誰かの沈黙が支えている。
岩淵は立ち上がり、ドアの方を指さした。
「今夜のことは見なかったことにしろ。
印章管理簿も、ここに戻しておけ。
——私から言えるのは、それだけだ」
汐はそのまま部屋を出た。
廊下の冷気が肌に刺さる。
背後の扉が静かに閉まる音が、まるで葬列の最後尾のように響いた。
エレベーターに乗り込んだとき、汐は胸の奥で呟いた。
「印を押せなかった……私の受領印は、どこにある?」
彼女は翌朝、印章管理業者へ出向いた。
会社が外部委託している印鑑の保守・管理を行う小規模の専門会社で、社員証を提示すれば入館できる。
受付の若い男性が丁寧に応対したが、「個人案件に関する記録開示はできません」と即答した。
しかし、汐が差し出した名刺に「社内監査協力」と書かれているのを見て、担当者の態度がわずかに変わった。
「……社内監査の方でしたか。それなら、使用台帳の閲覧までは許可範囲内かと」
案内された倉庫室には、印影台帳が整然と並んでいた。
汐は息を詰め、2019年の台帳をめくった。
そこに、確かに「三浦汐」の名義が二つあった。
ひとつは、退職届受領分。
もうひとつは、勤怠再登録処理の承認分。
同一人物が、同一月に、退職と再雇用の両方の印を押されていた。
この不可能な矛盾が意味するものはただひとつ。
会社は、二つの“汐”を同時に存在させ、片方を後で消したのだ。
汐は自分の震える指先を見つめた。
この瞬間、帳簿の中の「自分」と、現実の「自分」が完全に乖離した。
——帳簿の汐は五年前に退職済み。
——現実の汐は、いまここに立っている。
どちらが真実なのか。
台帳の最終ページに、小さなメモが貼られていた。
“押印者:代理印。担当・河野(総務)”
汐の目が釘付けになった。
河野——。
彼が、押したのか。代理で。
汐は台帳を閉じ、深く息を吸った。
外に出ると、午後の光が冷たく目に刺さった。
人々は行き交い、誰もが自分の“在籍”を信じて歩いている。
しかし今の汐には、どこにも「在る」と証明できる場所がなかった。
会社は彼女を記録上で“整合”させ、過去の自分と未来の自分を一枚の帳簿に統合していた。
その結果、今ここにいる汐は、書類上では存在しない。
彼女は歩きながら、携帯を取り出した。
ディスプレイの中の自分の名前を見つめ、静かに呟いた。
「帳簿にいない私でも……生きていて、いいの?」
携帯の画面が、一瞬だけ反射して、ガラスのように光った。
その光の向こうに、五年前の自分が微笑んでいる気がした。
受領印とは何か。
それは、紙に押された“存在の証”ではなく、誰かが生きた痕跡を封じる儀式なのかもしれない。
その夜、汐はもう一度、会社の前に立った。
高層ビルの窓に灯る明かりのいくつかは、彼女の知らない人々の残業灯だ。
だが、ふと見上げた最上階の明かりは、彼女を見下ろしているように感じられた。
そこに、印を管理する“上層”がいる。
そして汐は思った。
「次に行くべきは、会社ではない。——監査法人だ」
彼女は踵を返し、闇の中へ歩き出した。
帳簿の中に消えた“自分”を取り戻すために。
第5話 過去の自分への受領印
夜の街は、昼間の顔とは別の風景を見せる。
窓の明かりが集積する高層ビルのファサードは、数字と名前の群れを映す鏡のようだった。汐はその一角に立ち尽くした。ここから見下ろす景色は、帳簿が作り出す世界の縮図に他ならない。灯りの一つひとつが、誰かの勤怠記録であり、何らかの押印の痕跡であり、そして──誰かの存在の証である。
彼女が次に当たるべき相手は監査法人だった。第4話で見た印影台帳の不整合は、外部の目が通れば説明のつかない事柄だ。監査法人は数字の信頼性を担保する縦糸であり、そこに浸透する「帳簿の改変」は、企業と監査の癒着を意味する。汐は弁護士の助言を受けつつ、情報を小出しにして新聞記者と接触した。記者は初めは慎重だったが、証拠の一部を見せると、興味はやがて取材の熱へと変わった。紙の片隅に残る受領印の写真、診療録の影印、ITログの断片。パズルのピースは増え、絵柄が輪郭を伴い始める。
しかし汐は知っていた。水面に小石を投じれば波紋は広がる。広がるほどに、相手は沈黙の中で手を打つ。彼女が公に動けば動くほど、会社は防御を構築し、同時に攻勢を仕掛けてくる。ある朝、彼女の自宅の郵便受けに小さく折りたたまれた一枚の紙が入っていた。中には「法的措置を考えるべきだ」という短い文面だけが書かれていた。誰が差し入れたかは分からない。だが脅しは届いた。
それでも、汐は止まらなかった。記者の記事が出る寸前、彼女は最後の突破口を見つける必要があった。それは「受領印の来歴」を辿ること。印章の実体がどこで管理され、誰の掌で朱肉が押されていたか。紙は偽造されうるが、印章の使用ログまで合わせれば、扉は開く。彼女は再び印章管理の業者と接触し、台帳の写しを正式に請求した。表向きには監査目的の照会であったが、裏では「依頼主の履歴」を洗い直す意味があった。
業者は面倒そうにしながらも、記録を提示した。そこには押印日時、押印者のID、そして押印に用いられた印章の備考が列挙されている。汐の目はページを追った。2019年3月31日──その日付はあまりにも明確に、彼女の過去と繋がっていた。押印者IDは「代理A」。代理Aは社内で登録されたIDで、通常は特定の複数担当者が代理で押すときに使われる共通アカウントだった。だが、ログの横には別の記録が残っていた。代理Aの使用は、その日一回ではなく、同時刻に近い時刻で二件が発生している。つまり、二つの押印行為が近接して行われたことを示している。
汐は紙を読みながら、五年前の事柄を反芻した。自分が病床に伏していたとき、会社からの短い電話があった。総務の誰かが診療所へ問い合わせをし、復帰に関する書類の取り扱いを確認した。医師のメモはそれを示している。だが、同じ日付で「退職受領」扱いの記録が残っている。だれがその瞬間に印を押したのか。ログは「代理A」を示しているが、代理Aは誰かの「代行」である。代行を命じた者の署名はどこにあるのか。
数日後、記者はスクープ記事を出す前提で動き始めた。だがその直前、監査法人側から突然の連絡が入る。外部監査の担当者であり、彼は落ち着いた口調で汐に電話してきた。「お話だけ伺いたい。我が社は貴社の監査を長年にわたり行っております。非公開の段階で一度お会いできませんか」。その申し出は、表面的には配慮に満ちていたが、汐は警戒した。監査法人が直接介入してくるということは、問題が彼らの隠蔽にも到達する可能性を含んでいる。
面会は、監査法人の小さな応接室で行われた。男は中年で、灰色のスーツを着ていた。身体の線は太からず細からず、顔にはやや硬質な笑いが刻まれている。名刺を交換し、彼は切り出した。「我々は、会計の透明性を守る立場だ。今回のご指摘は深刻だ。しかし、公開の前に貴殿の持つ資料と我々の監査記録を突合したい」。汐は全てを曝すつもりで来ていたが、その言葉に微かな違和感を覚えた。突合という名の“取り込み”だ。監査法人の態度には、両義性がある。真実を暴く可能性がある一方で、真実を矮小化する圧力を含んでいる。
会話は礼儀を保ちながらも、次第に核心へと進んだ。汐は受領印のログ、印影台帳のコピー、診療録、議事録の断片を机の上に置いた。それらは、彼女の存在が帳簿の巧妙な操作によって摺り替えられた証拠群であった。監査人は一つずつそれを丁寧にめくり、時に眉を寄せ、時に舌打ちをする。やがて彼は口を開いた。
「あなたの提示する証拠は、表面的には確かに不整合を示している。だが、企業の内部処理には様々な“技術的措置”がある。時に、法務的リスクを回避するために、過去の登録を整理することはある。我々はそれを完全に否定はできないし、しかしあなたが求める“悪意の存在”をただちに証明することも、現時点では困難だ」
その言葉は、汐の胸に冷たい波を打ち返した。監査人は宣言を放つ代わりに、手続きを示したのだ。手続きは彼らの守備であり、手続きの網こそが真実を濾過する器である。汐は少し震えながらも、言葉を重ねた。「ですが、ログの偽装、代理印の重複、印影の筆致の差、そして外注業者の不自然な扱い――これらは単なる“技術的措置”ではありません。故意に証憑を消し、ある人物を帳簿から切り離すための計画的な処置です」
監査人は沈黙した。だが沈黙は、合意の印ではなかった。彼の目の奥に、何か片隅の焦燥が瞬いた。やがて彼は静かに言った。「我々も、かつてそうした“整備”を勧められたことはある。だが外部監査の立場として、記録の改変に関与することは許されない。あなたの提示する証拠は、確かに説明を要する。だが、我々が独自に行動を起こすには、より強固な『原本』が必要だ」
――原本。
汐はその言葉を反芻した。コピーや影印は説得力を持つが、最終的に法律を動かすのは原本である。原本に押されている朱の実体、その印章そのもの、そして押した人物の直接的な証拠。ここに至って、汐は最後に残された一点、つまり「受領印の実体の所在」を確かめる以外に道はないと悟った。
印章の実体は、社内の引き出しにも、外注業者の倉庫にも分散していた。しかもある種の重要印は、上層部の秘書課が保持しているという情報もつかんだ。汐は一つの大胆な賭けに出る。彼女は、かつての自分の「過去の辞表」が保存されているという役員室の金庫に近づく計画を立てた。そこには、経営の決裁を示す重要書類が保管されており、もしそこに原本があれば、一切が覆る。だが、そこへ至るにはリスクも大きい。監視カメラ、出入記録、そして何より、相手の用心深さが立ちはだかる。
計画は慎重だった。弁護士に相談し、法的な攻撃と防御の両面を整えた。記者との連携も細かく取り決めた。もし証拠が手に入れば、記事は同時公開とする。そうすれば企業側が抑えにかかる前に、公の審判が回り込む。夜半、汐は人知れず役員室のあるフロアに潜入した。セキュリティは厳しく、心臓は何度も止まりそうになった。だが、彼女は押し止める力に支えられて一歩ずつ前へ進んだ。
金庫の前に立ったとき、汐は背後に足音を感じた。振り返ると、そこには予期せぬ人物がいた。岩淵だった。
「来るとは思わなかったよ、三浦君」
彼は予想外に静かで、しかしその目には切迫した光があった。汐は対応を誤ればすべてを失うことを知っていた。岩淵はひと息置き、紙袋を差し出した。「ここには、原本が入っている。だが、君がこれを持ち出すつもりなら、もっと重大なことになる」
汐は黙って紙袋の中を覗いた。そこには確かに、あの2019年3月31日付の辞表原本と、先に見た受領印の押された紙片が入っていた。朱の押印は深く、印面の濃淡から押し手の力加減まで読み取れた。だがよく見ると、印面の一部に細い擦り傷があり、その模様は社内にある印章の一つと一致する。印章とは、物理的な痕跡を残すものだ。つまり、この原本は「本物」だった。
岩淵の顔が険しくなる。彼は低く言った。
「これを外に出すと、会社は——否、君は法的に脆弱になるかもしれない。私の立場も危うい。この原本が示すのは、君の辞表が確かに受領されていたという事実だ。だが、その受領の相手は——」
彼は言葉を切り、汐の目を見た。汐は耳の奥で血が跳ねるのを感じた。岩淵は続ける。「受領したのは、君自身だ」
その一言はたった三語であるが、言い得て妙だった。汐は一瞬、意味を取り違えた。自分が自分で受領した──何を言っているのか。岩淵は静かに説明した。五年前、休職中の汐は、ある種の「同意書」と称する文書にサインをし、それが社内の再登録手続きと巧妙に結び付けられたという。つまり、彼女が自らの名義で「退職」を認める書類に署名していたというのだ。
汐は震えた。記憶がぐらつく。五年前のあの夜、疲弊した彼女は医師の言葉を受け、いくつかの書類にサインをした。彼女は朦朧としており、詳細を記憶していなかった。だが紙の上の署名は確かに彼女の文字に似ている。だが――。
「私が自分で?」
「そうだ。あなたが署名した。だが、それは完璧な自発的同意ではなかった。状況は複雑だ。あなたが十分な判断能力を持たないときに、ある種の合意を取る手続きが行われた」
汐は、そのとき胸の中にある寒気を感じた。自分が自分に向けて印を押していたという想像は、自己の存在を二重化する――それ自体が制度の冷たい冗談に他ならない。彼女は怒鳴ろうとした。だが言葉は喉に詰まった。五年前の自分の記憶は断片であり、辛うじて形を保っているだけだった。
岩淵はさらに口を開いた。「しかし、真の欺瞞は別にある。君が署名した文書は、本来『同意書』としての法的効力を持たせるために複数の条件が必要で、正常な法手続きが踏まれていない。もっとも重要なのは、その文書に押された受領印の管理だ。印は複数の段階で押され、誰がどの瞬間に押したかを示すログがある。そこに『代理A』の痕跡があり、使用時刻が異常に重なっている。それは明らかに不自然な処理だ。つまり、あなたが署名したことと、書類の性質が不正に利用された」
岩淵の言葉は、彼なりの告白と弁明とが混じり合っていた。彼は自分の手が汚れていることを知りつつ、それでも全容が上層まで伸びていることを暗に示している。汐は紙袋に手を伸ばし、あの朱印をまじまじと見た。印泥の粒子が微かな凹凸を残し、光を反射する。印面の一瞬の不揃いが、そこに押した「人間」の手を示していた。
勇気を振り絞って、汐は問いかけた。「誰が、その代理Aを操作したのですか?」
岩淵は目を閉じたように見え、そして静かに言った。「それを特定するのは簡単ではない。ログは偽装され、外注業者を介して操作された。だが一つだけ言えるのは、意図は上層の方針だった。会計の整合、監査の回避、あるいは外部の利害関係者との“取引”を守るための措置。君のような『静かな存在』は、その犠牲にされやすい」
汐は紙袋を抱きしめたまま、崩れるように椅子にもたれた。自分が自らに受領を与え、そしてそれが利用されたという事実は、理不尽を通り越して寓話のようだった。人が自分の名前で自分を否定する──それが可能であるなら、制度は人間をどこまで操作できるのか。汐は自分の利己的な怒りと、深い悲哀を同時に覚えた。
そのとき、扉の外から足音が乱れ、数名の影が入ってきた。記者だ。彼は一切の躊躇を見せず、すぐにカメラを向け、いくつかの質問を浴びせた。だが汐はもう公に出す覚悟をしていた。岩淵は深く息を吐き、表情を失った。「君がこれをリークすれば、会社は対応するだろう。だが、誰が本当に得をするのか、君自身で考えてくれ」とだけ言い残し、部屋を出た。
記事は予定通り掲載された。見出しは冷たく、数字と日付を並べる。だがその裏で、より大きな動きが始まった。社内では調査委員会が立ち上がり、監査法人も調査に乗り出した。社長名での謝罪文は出なかったが、取締役会の招集通知が公表される。だが汐は公表の中に、彼女が望んだ形の「正義」をまだ見いだせないでいた。監査は制度の中で行われ、証拠の評価は法と手続きの枠で裁かれる。彼女の心の核は、紙に刻まれる「事実」への回復にあった。
法的手続きは始まった。弁護士は原本の筆跡鑑定、印章の物理鑑定、ログ解析の専門家を連れて証拠を固めた。鑑定結果は、印面の擦り傷と台帳記録の一致を示し、代理Aの使用痕跡には外部業者のアクセス記録が含まれていた。やがて、監査法人の調査報告は内部で「形骸化した操業」と結論付けられ、数名の管理職の引責辞任が舞台装置のように発表された。取締役の誰かが辞任し、幹部の肩書きが入れ替わる。だが汐の眼差しは冷静だった。形だけの責任追及は、制度の本質には触れない。
それでも、裁判所は動き始めた。汐は訴訟を起こし、会社を相手に不当な労務処理と人格の侵害を訴えた。法廷は紙と証拠を正確に扱う。診療録、原本、印影台帳、ログのタイムスタンプ。原本は決定的だった。裁判は長引いた。会社側の弁護士は組織の正当性を盾に、個別の手続きミスを強調し、事件を「過失」あるいは「誤謬」に矮小化しようとした。だが筆跡鑑定と印章の物理的照合、そして外注業者の内部メールが示す指示系統は、序列の上にある何者かの関与を示唆した。法廷は徐々に、帳簿の中で消されていた事実を再び浮かび上がらせた。
判決の日、裁判所は汐にとって部分的な勝利を告げた。裁判所は会社の行為を「手続き上の重大な瑕疵」と認定し、汐の在籍記録の回復、賃金の支払、そして精神的苦痛に対する慰謝料の支払いを命じた。だが裁判所は同時に、会社の「上層部の意思」がどのように露呈したかについては証拠不十分として退けた。つまり、個別の責任は問えたが、制度そのものの根本的な転換は達成されなかった。汐は表情に安堵の陰を見せたが、その目はどこか冷えていた。勝利と敗北は、紙一枚の裏表のようだ。
裁判後、会社は表向きの謝罪をし、制度の点検を約束した。外注業者との契約見直し、印章管理の厳格化、監査手順の透明化――耳障りの良い言葉が羅列された。しかし汐は知っている。制度は言葉で簡単に立て直せるようなものではない。帳簿の力は、それを管理する者の意志によって左右される。彼女の勝利は、あくまで個人の範囲での回復であり、制度の深層で蠢く論理は健在であった。
だが、物語には最後の不可解な余韻が残った。ある朝、汐の元へ小包が届いた。中には古い印章の箱が一つと、一枚の短いメモだけが入っていた。メモには「帳簿は静かに、だが確かに変わる。だが印は、仕事を選ばない。—R」とだけ書かれていた。箱を開けると、そこには彼女の受領印と同じ形の印章が丁重に包まれていた。印面には、かすかに五年前の擦り傷と同じ線が刻まれている。誰が送ったかは分からない。差出人の署名は「R」とだけあり、そこに含まれる意味は解釈の余地を残していた。
汐は印章を手に取り、掌の上で転がした。朱の匂いが微かに鼻孔をくすぐる。印は物言わぬ物体だ。だが人間はそれに意味を与える。印章は、過去に自分を抹消した同じ道具でもある。だが箱には、もう一つの読みがあった。印を返すことは、制度に対して新たな印を押すことを許すのだろうか。それとも、その印を握ることで、彼女は自分の人生を新たに刻む権利を取り戻したのだろうか。
汐は窓辺に座り、印章をそっと机の上に置いた。朝の陽光がインクの粒子を淡く照らし、印面に刻まれた陰影を浮かび上がらせる。紙と印と、法廷での判決と、世間の喧騒。すべてが混然と交錯している。彼女はページをめくるように、静かに息をついた。
最後に、彼女は短く呟いた。声は低く、しかし確かだった。
「帳簿は直せる。だが、人間が帳簿をどう使うかは変わらない。受領印の重さを知った私は、もう他人の手で私を押し殺させはしない」
その言葉は、どこか楚々とした決意を帯びていた。だが同時に、それは諦観の色も含んでいた。制度と人の関係は、単純に修復できるものではない。汐は明日からも日常を取り戻すため、静かに手続きを進めるだろう。だが夜が来れば、彼女は窓の外の灯りを見上げ、受領印という小さな円が持つ意味を思い出すだろう。
物語の最後に残るのは、制度という巨大な機械と、そこに咬ませられた個人の脆さである。しかし同時に、そこにはひとつの希望もある。記録が改変されることがあるなら、正しい記録を取り戻す術もまた存在する。汐はそれを身をもって示した。だが物語は終わらない。印はまだ掌の中にあり、次の物語の種子を宿している。誰かがまた帳簿の縁を辿り、影を暴こうとするだろう。そのとき、受領印のない辞表は新たな問いを投げかける。——「誰が、誰を帳簿から消すのか」。
灯りの一つが消え、窓の向こうは夜に沈む。三浦汐は静かに立ち上がり、机の上の印章を見下ろした。手に取るでもなく、その場を離れる。印は残る。印の痕跡も、帳簿も、そして人の記憶もまた残る。だが彼女は、そこから再生を始めた。淡い朝の光がビル群を洗い、新しい一日を告げる。受領印のない辞表から始まった物語は、今ここでひとつの幕を閉じる。——だがこの幕は、あくまで一作の終わりでしかない。
終幕。




